虹の始まりは落とし穴 5
「いつも言っているでしょう? 私は代筆をするだけで決して嘘は書きません。 若様の想いに色を乗せて華やかに文字を飾るだけなのですから」
「そ、そうだったな」
ドッコは落ち着きなくサムノムの隣で墨を磨る。
「私はもうじき旅芸人らとここを発ちます、なので代筆もあと数回しかできません、いつまで文通だけ続けるおつもりですか?」
「ぶ、文通しないなら…他に何がある?!」
サムノムはニヤリと笑う。
「会いたくはありませんか?」
「!!」
ドッコは磨っていた墨を落とした。
「あ……会う? 私と……あの方が……?」
「そうですよ、会いたい気持ちはないのですか?」
一目惚れしてから、かれこれ半月以上経つ。
「……会いたい」
会ってあの美しいお姿をもう一度見たい。
***
「“黒真珠の様なそなたの瞳”……“三日月の様な鼻筋”…“真っ赤な柘榴の様な唇”……?」
ヨンは眉間に皺を寄せる。
なんとドッコの恋の相手はこの国の第一王女 ミョンウンだった。
この半月程、妹が妙に浮き足立っており、見張りをつけていたヨンはミョンウンのお付きの女官からこの文を奪い取ったのだ。
「…………」
菖蒲が咲き誇る池の中洲で、大好物の薬果を囓るポッチャリ体型の妹は、この文に書かれているような美しい女人とは……いや、多少肉々しかろうと可愛い大事な我が妹に、この様な嘘を並べた不埒な文を送るなど言語道断!
「……誰だ」
「はい?」
控えていたお付きの女官が顔を上げる。
「かような偽りを述べて我が妹を惑わすのはどこのどいつだ!」
女官は慌てて跪いた。
「存じ上げません! ただ約束の時、約束の場所に文を取りに行っているだけです! 信じて下さい世子様!」
頭を下げる女官にヨンは息をついて続きを読む。
「“春の内にお目に掛かりとう御座います…木覓山の麓の、あの木の下でお待ちして…も…よい…です…か……”」
ーあ、会いたいだと?!ー
「……そなたは…よいと思うか?」
女官に問いかける。
「な、なりません!」
「では、ミョンウンには何と伝える?」
「は、はい?!」
ヨンは無言で答えを促し、女官は必死で考えた。
「決して行ってはなりませんと…」
「行きたがるだろうなぁ…」
「あ、世子様が心配なさっているからと…」
「それでは私を恨むだろう…」
「え…えっとそれじゃ…あ! 何の返書も来なかったと!」
「それがよい、もう下がれ」
「はい、世子様!」
ようやくヨンの気に入る答えを導き出し女官は胸を撫で下ろしてその場を下がる。
何も知らずウキウキと返書を待つ妹の姿にヨンは“やれやれ” と溜め息をついた。
***
内班院の宿舎では、東宮殿に仕える内官達が遅めの朝食を摂っていた。
ヨンは読書をする時は大抵人払いをし、静かに読むのが好きな為、その隙を見計らって手の空いた者から順に食事を摂っていく。
しかし、そこでは東宮殿というよりはヨンに対する不満がぶちまけられていた。
「東宮殿が何故 “クソ宮殿” と呼ばれるのかよ~く分かったよ!」
「まったくだ! 我々には何の落ち度もないってのに3日も減俸されたのでは堪ったものではない!」
先だってのカンニングの件で東宮殿に仕える者達は皆3日分の減俸をくらっていた。
「只でさえ鳥の糞程の給金なのに!」
横で食事を摂っていたチャン内官がウンザリした様に箸を膳に叩きつけた。
「糞だのクソだのいい加減にしろ! 飯時に汚いなぁ! 食欲が失せるだろ!」
「「…すいません」」
チャン内官は息をつくと隣の机に移動した。
「まぁな、お前達の不満も分かる。確かに酷い」
東宮殿では一番の古株で、東宮殿に仕える者達を束ねるチャン内官の賛同を得て、比較的日の浅い内官達はホッとすると同時にチャン内官が言う位なのだから今回の件は余程酷いのだろうと思った。
「口が臭ってはいけないから葱もニンニクも抜いた味気ない食事に苦い丁香まで食って仕えてるというのに…恨めしいよ私も」
チャン内官は自分が下の者に賛同する事で少しでもヨンへの不満を和らげようとしていた。
下の者の不満をここで食い止めるのもチャン内官の仕事だ。
まぁ、9割本音だが。
「今度の新入りに賢くて我慢強い奴がいたら1人寄越して貰おう…この人数では足りん…ここは広すぎる!」
王族には常に数人が側に控えておらねばならず、人払いをしていても呼ばれて声の届く所にいなければならない。
そして、次に何を言われても対応できるように、あらゆる事態を想定して準備していなければならない。
王族に仕える内官や女官達の気苦労は絶える事がないのだ。
「チャン内官!」
そこへ1人の女官が飛び込んできた。
「何だ?」
「大変です! 世子様が…っ」
「今度は何だ?!」
「御衣をお脱ぎになり、また消えてしまいました!」
その場にいた東宮殿付きの者達が盛大に溜め息をつき、他の部署の者達は同情の目を向けた。
「もー! 世子様ー!!」
チャン内官が切れた。
今は専属護衛のキム別監がいないからお忍びで王宮を抜け出すのは止めてくれと何度も懇願し、その上複数人で見張っているにも拘わらず、いつの間にか抜け出してしまうのがヨンなのだ。
毎度のことながら、とんだ能力の無駄遣いだ。
多少武芸の心得があるとはいえ、ヨンに万が一の事があればチャン内官達の首は物理的に胴から離れる。
チャン内官は速やかに対処すべく、早々に食事を切り上げたのだった。
