虹の始まりは落とし穴 2
娘もずっと自分を気にかけてくれていた優しい男の心を受け入れ、幸せそうに微笑む。
男は娘を抱き締めたまま、娘に見えないように背後に手を振った。
手を振った先には、高い木に登り、斧を片手にニヤリと笑う店主の姿があった。
そう、先ほど落ちてきた枝は娘が通るタイミングを見計らって店主が切り落とした物だった。
ー上手くいった! これで29組目♪ー
店主は自分が仲を取り持ったカップルが29組目に達し記念すべき30組目はあの方かなと、次の相談を受けていた両班の若様を思い浮かべた。
***
その頃、王宮の東宮殿(世子の屋敷)では内官達が慌てふためいていた。
今の時間、本来なら世子は師に習い勉学に勤しんでいる時間だが、政に一斎関心を示さず遊んでばかりいるヨンは昨夜も遅くまで夜更かしをし、まだ夢の中にいた。
しかし、先ほど王が直々にヨンが勉強している姿を見に行くとの知らせが入ったのである。
王が起きているのに世子がまだ寝ているなどあってはならない。
ましてや王が直々に足を運ぶのである、“息子はまだ寝てるのでまた今度” などと言えるわけがない。
東宮殿付きのチャン内官は知らせを受け、はしたなくも廊下を駆け、ヨンの部屋の前に朝の身支度用の道具を持って並ぶ内官や女官達を押し退けて扉に手をついた。
息を整え「世子様、お目覚めでございますか?!」と声をかけるが返事はない。
ーど、ど、どうしよう!!ー
チャン内官は意を決し「世子様、大変恐れながら差し迫った状況でございますので何卒お許し下さいませ!」
一息でそこまで言うと扉を開け「入れ! ほら早く!」と内官や女官を一気に部屋に押し込んだ。
それから程なくして王が供を大勢引き連れて現れた。
池の真ん中に建てられた東屋にヨンは師と共にスタンバっている。
東屋がよく見える橋に王が差し掛かった所でチャン内官は「王様のおなり…!」とヨンに知らせるべく声を上げようとして「知らせずともよい」と王自ら言われてしまい「はい、王様~!」と頭を下げた。
すると橋の反対側から領議政 キム・ホンとその腰巾着の吏書判書 キム・ウィギョ、そして領議政の甥でウィギョの手下の戸曹判書 キム・グンギョも揃って姿を現した。
「これは王様」
領議政らが頭を下げ
「……ああ…領議政…」
王はその眼を見れず瞳を揺らした。
役者が揃った所でヨンの見世物が始まる。
「前回、“夙興夜寐箴”(儒者の心構えを説いた箴言の一部)をご進講致しました」
聞こえてきた師の声に王と領議政らが東屋に目を向けた。
「では、世子様お復習いを」
「“鶏鳴而窹” 雄鶏の声に目を覚ましたら “盥櫛衣冠” 顔を洗い、髪を結い、身形を整える “乃啓方冊” “対越聖賢” 聖賢の書を開けば “夫子在座” “顔曾後先” 目の前に孔子顔子曾子が見えるだろう」
ヨンのよく通る声が朗々と響く。
難しい書の一節をスラスラと諳んじるヨンに王は感心している様でチャン内官はヨンの計画が上手く運んでいる事にホッとしていた。
「では、その解釈は?」
師に問われ、巷では“美男子”と噂されるが、噂以上に整ったその端整な顔にヨンは笑みを湛えた。
「朝は早く起きて身形を整え、恭しい心で聖賢の書に接してこそ、真の儒者であると説いています」
王は満足げに微笑んで頷き、王付きの内官の長、尚膳のハン・サンイクもヨンの聡明さに微笑んでいる。
しかし、王の外戚で表面上は臣下の振りをし、その実王とは敵対している安東キム氏の面々は面白くない。
普段から遊んでばかりで勉強などしている様子もないのに大人でも難解な聖賢の書をこうも易々と諳んじてみせるとは。
ヨンの解釈に師は頷いた。
「はい、世子様もこの陳氏の教えを深く胸に刻み、どんな時も心掛けるとよいでしょう」
「はい、肝に銘じます先生」
ヨンは素直に頭を下げる。
「かようにも学問に精進しているとは頼もしい限りだ、余は安心した」
嬉しそうに王が呟き領議政は心とは裏腹に「はい、王様」と王の言葉に賛同した。
東屋では上手くいったとばかりにヨンが師に目配せをし、師もなんとか事無きを得たとホッとして頷き返したその時、突然突風が吹き抜けヨンの目の前にあった紙がバサバサッと飛ばされた。
「あ…!」
その内の一枚を戸曹判書が掴み取り紙を広げ目を通す。
そこにはヨンと師の台詞が記されていた。
「…なんと……これは…」
なんのことはない。
勉強している振りをするためにヨンは紙に書かれた台本の台詞を読んでいたにすぎなかった。
横から覗き込んだ吏書判書が言葉を失い領議政もその紙に目を落とした。
一方、東屋ではヨン側の紙が飛ばされた事で次の台詞が書かれた紙をヨンに見せるべく師が自分の紙をヨンに見えるようにソッとずらし、ヨンも首を伸ばしてなんとか次の台詞を読んだ。
