いかに死ぬかを考えたら、ようやく生き方がわかった。
人は、「死」を遠ざけるほど、なぜか日常を雑に扱うようになる。
スマホを眺めながらの食事。
なんとなく続ける人間関係。
本当はやりたくないことに費やす時間。
でも、それが「最後の一日」だとしたら——
同じ選択をするだろうか。
おそらく、しない。
私たちは、あまりにも "死を見ない社会" に生きている。
医療は発達し、日常から死の気配は遠ざけられた。
それ自体は、人類の進歩だ。
けれどその代わりに、
「生の輪郭」までぼやけてしまった。
死が見えなくなると、
時間が"無限にあるもの"のように錯覚する。
そして人は、少しずつ、大切なものへの感度を失っていく。
だからこそ思い出したい言葉がある。
「いかに死ぬかを学ぶことは、いかに生きるかを学ぶことだ」
——モンテーニュ
死を見つめることは、人生を暗くするためではない。
むしろ逆で、「今」という瞬間を、くっきりと浮かび上がらせるための行為だ。
私にも、そう気づかされた出来事があった。
昼間のカラオケに定期的に来ていた、歌が好きなお年寄りたちがいた。
毎週のように顔を合わせていたのに、気づけば一人、また一人と姿を消していった。
誰かが教えてくれたわけでもなく、ただ静かに、いなくなっていった。
そして、高齢の母。
以前より声が小さくなり、歩く速さも変わった。
「弱くなっている」という事実を、毎回どこかで見ないふりをしていた自分に気づいた。
死は、遠い話ではなかった。
すでに、すぐそこにあった。
実際、少しだけ死を意識するようになってから、
私の中で小さな変化が起きた。
何気なくコーヒーを飲んでいるとき。
誰かと話しているとき。
ふと「これが最後でもいいか」と思ったとき。
胸の中に、静かな問いが生まれるようになった。
- 「今日が最後でも、これをやるか?」と考えるようになった
- 未完でもいいと思えるようになった
- 食事や散歩の時間が、少しだけ豊かになった
- 他人と比べる時間が、自然と減っていった
- 持たなくてもいいと思えるようになった
- 会いたい人に、素直に会いに行けるようになった
どれも小さな変化だ。
けれど、確実に生活の"質"は変わっていった。
ただ、ここで一つ問題がある。
「いい考えなのはわかる。でも、どう使えばいいのか分からない」
もしそう感じているなら、
ここから先は、そのための話です。
ここから先は、
この考えを"実際に人生で使う方法"について書いていきます。
難しい哲学の話ではありません。
明日から、日常の中で静かに使えるものです。
読み終えたあと、
おそらくあなたの「時間の使い方」は少し変わるはずです。
【ここから有料】
ここから先は
¥ 480
そっと応援してもらえると嬉しいです。
