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スマホ越しの涙は、誰のもの?

夜、ベッドの上でなんとなく開いたYouTube。  

アメリカの兵士が基地から戻り、
恋人や子どもの前に突然現れる「帰還サプライズ動画」。  
あの瞬間——誰かが叫び、泣きながら抱きしめる。  
顔も知らない家族の再会なのに、
気づけば
私も涙をこぼしている。  

 しかも、どの動画でも効く。  
 何度でも、まるで条件反射のように。  

「どうして私は、見知らぬ人の“よかったね”にこんなに泣けるんだろう?」  

観察:距離が生む、やさしい涙  

現実では、他人の喜びにここまで泣いたことはほとんどない。  

けれどスマホ越しでは、なぜか涙腺が浅くなる。  

それは、画面が私を“観察者”として守ってくれるからだ。  

物語の外側に立ったまま、心を安全な場所に置いて泣ける。  
直接関わるわけじゃないから、相手を励ます必要も、言葉を探す必要もない。  

ただ「よかったね」と思う気持ちだけを静かに味わえる。 
 
そんなふうに流れる涙は、軽くてやさしい。  
触れずに寄り添う、静かな共感の形だ。  

分析:感情は“設計”されている

 よく見ると、
あの短い動画たちは、感情を動かす仕組みでできている。 

 一度離れた人が戻ってくる「再会」というストーリー。  
沈黙から始まり、驚き、そして抱擁へ。  

脳はその流れを“カタルシス”として快感と認識する。  
音楽が入り、息づかいと泣き声が同期する。  
その一拍ごとに、私たちの心は誘導される。  

つまり、「感動している私」も物語の一部なのだ。  

SNSのアルゴリズムは、次の涙へと静かに案内してくれる。  
私の涙は、映像と仕組みに見守られながら流れている涙なのだ。  

再定義:涙がつなぐ“世界の通路”  

それでも、この涙を“作られた感動”とは呼びたくない。 
 
感情の装置の中で泣いているとしても、
そこから感じ取るものは本物だ。 
 
なぜなら、誰かが誰かを取り戻す瞬間を見ながら、  
私はきっと、自分の中の「もう一度会いたい人」を思い出しているから。  

画面の向こうで起きる抱擁を見ながら、  
心のどこかも、誰かにそっと抱きしめられているのかもしれない。  

スマホ越しの涙は、決して浅いものじゃない。  

世界と私のあいだに残された、小さな通路。
  
デジタルの向こうでちゃんと人を想える——  

それだけで、今日という世界は少しやさしく見える。 


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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