先生が投げたチョーク:私の「心のざわつき」と、息子の純粋な眼差し
「先生が投げたチョークの話」と、あの頃の私の不安
子育てをしていると、自分が過去に終えられなかった「何か」が、目の前の出来事を通じて呼び起こされるかのように、「心のざわつき」に出会うことがあります。
それは、子どもに特別な問題が起こったわけでも、自分が何か大きな失敗をしたわけでもない。
だけど、どうしても胸の奥がモヤモヤして、落ち着かなくなるような感覚——。
今回は、私がかつて味わった、そんな体験を一つ思い出しながら綴ってみたいと思います。
小さな観察者の眼差しと、母の心のざわめき

あれは息子の長男が小学校から帰ってきたときのことでした。
まだあどけない長男が、玄関のドアを開けるなり興奮気味に告げたのです。
「今日な、先生がクラスメイトのことを怒って、チョークを床にバーンって投げてんで!」
長男はまるで映画のワンシーンを語るかのように、その出来事を私に伝えようとしていました。
ところがその瞬間、私の心には、いつもの「ちゃんとしなければ」「いい親でいなければ」という、先読みのスイッチがカチリと入ってしまい、漠然とした不安が胸に広がり、「誰が怒られたの?あなたもその中の一人なの?」と、私は矢継ぎ早に質問を浴びせてしまいました。
それはまるで、長男の言葉の裏に隠された「何か悪いこと」を探し出そうとするかのように。
しかし、長男は私の意図とは全く異なる方向へ話を進めます。
「ほんでな、その床に投げたチョークがな、ばりーんって割れてんで!」
彼の関心は、先生に怒られた原因や人物ではなく、目の前で起きた物理的な「現象」そのもの。
私は再び「いやいや、先生は誰を怒ってたの?何して怒られたの?」と、自分の聞きたいことへと必死に軌道修正しようと試みましたが、息子の返答は、私の思考の枠を軽々と飛び越えていきました。
「めっちゃすごかってんで。チョークがな、教室の端っこまでぴゅーって飛んでいってな、もう一個は、逆のはじっこまでぶおーって飛んでいってな、めっちゃすごかってんで」。
長男の言葉からは、先生が投げたチョークが真っ二つに割れ、その破片が宙を舞う光景が、まるでスローモーションのように脳裏に焼き付いていることが伝わってきます。
私はイライラしながら、「だから、誰が先生に怒られたかって聞いてるの!」と、怒り交じりに問いかけ続けました。
けれど、長男はその質問には一切答えることなく、ただひたすらに、チョークの描いた「軌跡」の凄まじさを語り続けたのです。
私を縛り付けた「こうあるべき」という鎖

当時の私は、”正しいことをしなければいけない”という「怯え」にがんじがらめになっていました。
先生がチョークを投げるほど怒ったという事実に、もし自分の息子がその原因の一端を担っていたらどうしよう、という漠然とした不安が、私を支配していたのです。
私の心は、自分の「怯え」にとらわれ、目の前にいる長男の言葉を、ありのままに受け止める余裕などありませんでした。
自分の抱える怯えや不安が、まるで分厚いフィルターのように、息子の純粋な眼差しを曇らせて見ていたのです。
そして、その「フィルター」を通して息子を見つめるうちに、私は真剣に悩みました。
(私の問いかけに、真っ直ぐに答えてくれない長男は、もしかして発達障害なのではないか?)そんな不安を、自分の中に持ったのでした。
他のママ友たちが楽しげに「うちの子、学校でこんなことがあったって話してくれたよ」と口にするたび、「うちの子って、全然学校の話してこないな」と、胸の奥に不安の影がよぎっていたのです。
しかし、今になって振り返れば、それは私の「受け取り方」の問題でした。長男は、彼なりに学校で起こったことを、私に一生懸命伝えようとしてくれていたのです。
先生が怒ったという出来事よりも、チョークが割れて、ものすごい勢いで飛んでいったという、彼にとっての「インパクト」が、何よりも強烈だったのでしょう。長男は、その日の最も印象的な出来事を、彼自身の言葉で、私に「話して」くれていたのです。
私が聞きたかった「誰が先生に怒られたのか?」という情報よりも、長男は、彼自身が捉えた、ありのままの「感動」を伝えたかっただけのこと。
それを私が、親としての不安や怯えからくる執拗な質問攻めによって、聞き逃していただけなのです。
息子の眼差しが暴いた、私自身の未熟さ

私は、子育てをしている間、良い親、正しい親でいなければいけないという怯えに常にとらわれ、パニックを起こし、自分の不安をかき消そうと、息子たちの言動に対し、執拗に質問を重ねていたのでした。
当時の私は、子どもの言葉の奥に、彼らだけが捉えた、自由な目線や感覚があることなど、まったく理解できていませんでした。
今思い返せば、息子が見せてくれた世界への純粋な驚き。それに気づけなかった私自身の未熟さ。その滑稽なまでに固執した私の姿が、今では恥ずかしくすらあります。
子どもの世界に、私自身の怯えのフィルターをかけずに耳を傾けること。
それが、本当の意味で子どもと向き合うことだったんだなと、この出来事を思い出し、痛感させられました。
