ドーナツの穴から覗いて見える、ママと言わない息子との日々。
「話すようになった?」
職場の消毒室でふいに同僚に聞かれた。
わたしの心の中で、ついにきたなと警戒アラートが鳴る。何を悩んでいるんだ。肝っ玉母ちゃんのように「うちの子まだ話さなくてさ」そう笑い飛ばせばいい。たったそれだけの言葉が喉に引っ掛かって、出てこない。
だから、嘘をついた。
「ママって、もううるさくて」
自分の甲高い声が反響する。超音波洗浄機をかける手を止め、垂れ下がった前髪を耳にかけた。こめかみをなぞりながら、本当のことを閉じこめるように髪をしまう。それは人生の急所を突かれた時の、悪い癖だ。
「うちもそうだったなぁ。ずっと喋り倒してたよ」
ふふっと微笑む同僚。彼女の横顔に鼻の奥がツンとした。きっと髪を触った時に、汚れが混じった消毒液がついたんだ。わたしの髪が感染地帯かと思うと、なんだか笑えない。
小さな嘘は、本当のことまでじわじわと、侵食していく。
本当のこと。
息子のお腹に顔をうずめると、柔らかかったこと。びしゃびしゃの頭を拭くたびに、飼っていた猫を思い出すこと。
そして彼はいつもくるくる回っていること。
◇
「くるくる回らないで!」
リビングの真ん中でわたしは声を荒げていた。ぞっとする流し目で、風車のように回り続ける息子。その姿を見て心臓が凍りついたからだ。
こんな姿を他のお母さんに見られたら。変な子だと、あざ笑いされるだろうか。
あるいは、「うちの子じゃなくてよかった」
そう胸を撫で下ろすかもしれない。
お願いだから、普通でいて。
そんな思いで、息子の肩をがしっと掴んだ。か細い骨の感触が、手のひらに突き刺さる。
それなのに息子はわたしの腕をすり抜けて、再び回っていった。今度は白目になりながら。
風車を小手先で止めても、風が吹く限り回り続けるのだ。
タッタッタ。西日が差し込むリビングで響き渡る、彼の足音だけが現実だった。
いつになったら、ママって聞けるのだろう。
そもそもわたしの目をじっと見ないし、ママだと分かっているのだろうか。
保育園の子たちは目まぐるしく成長して、自分だけの物語をママに話していく。その姿が眩しくてたまらない。
きっとわたしたちはそちら側には行けない。息子がくるくる回る度に、そんな予感がした。
母子手帳の発達チェックは、半分が「いいえ」だったにも関わらず、わたしは見ないことにした。厚かましく区から届いた、1歳半健診の通知はゴミ箱に捨てた。その上に新聞紙を乗せて。
きっと彼は少しだけ変わっているだけ。
いつか周りの子に追いついて、「心配のしすぎだったね」そう夫と笑っているかもしれない。もしかしたら。もしかしたら。
そんな不安を抱えた、ある日だった。
息子のこだわりが公園で噴火したのは。
彼のお目当ては、小さなまるが4つ並んだ、50円のドーナツ。わたしのアイスも買って、束の間のピクニックを楽しもうとした。
「いただきます!」
息子はドーナツをじっと見ている。そして、数秒後。うぎゃああと悲鳴をあげた。
外で癇癪を起こすのは初めてだ。どうしようとオロオロする。誰か母としての正解を教えてくれ。とりあえず、今はアイスを食べている場合ではない。わたしはカップの蓋をしてランチバッグに押し込んだ。
そのドーナツをみると、ぱっくり割れているではないか。
「元にくっつけて!」と、息子が訴えるように半分を差し出した。
「割れたものは戻らない」「味は一緒なのよ」
そんな正論は届かない。みるみる息子の顔が真っ赤に。そしてついに噴火した彼はドーナツを放り投げ、欠片がくるくるくる宙に舞っていった。
息子は生まれた頃から、まるへの執着が凄まじい。トミカのタイヤを床にべたっとして見たり、友達の服の柄がまるだとトイレまで付きまとうのだ。
わたしは落ちた10円を集めるように、四つ這いでドーナツを探した。ベンチで寄り添うカップルの視線が背中いっぱいに突き刺さる。
芝生からドーナツを拾いあげると、ベンチの上で仁王立ちをする息子がいた。
ぎゅいんと眉毛を上がらせ、人差し指同士を、震わせながら重ねている。
その姿に、思わずわたしは後退りした。
第二噴火がこの後…くる。カップルの頭に火山灰が積もる、あかんやつがっっ!!
お願いだ、くっついてくれええ!!!
心の中で呪文を唱えてドーナツをくっつけてみた。が、魔法なんてやっぱり存在しない。
「お前ができんのなら、俺がやるっ!」
息子がそう言いたげに、ドーナツを奪い取った。けれど、力をいれすぎたようだ。
ドーナツが粉々になって、ポロポロ落ちてゆく。
彼の小さな世界が終わりを告げた。
帰り道も息子は大泣きしていて、すれ違う誰もが二度見するなか、肝心な母親は仏頂面だった。
「この子はわたしの知らない子なんです!」
そう叫んで、宇宙に向かって自転車を漕ぎたいくらいだ。
同時に、息子への違和感が確信に変わる。
やっぱりこの子は普通じゃない。
認めたくない。発達外来を受診して、診断名がつけば、あっち側への切符はもう渡されない気がして。
でも、逃げられない。
この頃、母子手帳の発達チェックは、「いいえ」で塗り潰され、もうわたしは質問を読むことさえ諦めた。
妊娠がわかった時は、手帳を胸に抱いて足をパタパタしていたのに。
母子手帳の存在を、心の中でそっと消した。
◇
「息子に診断名はつきますか?」
発達外来の先生は「おかあさんといっしょ」のゆういちろうお兄さんに似ている。でもどこか頼りなさそうで、ことあるごとに「若いから」と心のなかで壁を作っていた。
でもこの日、わたしは彼に詰め寄った。
少しの沈黙のあと、先生はパソコンから目線を外し、にこっと微笑んだ。そしてゆっくりと語っていく。
「お母さん。僕は診断名というのは、何かの手続きの際に必要なことだと思っています。それ以外は、みんな一緒なんですよ。一番大切なのは、お母さんと息子さんが何に困っているか。だから、僕に話を聞かせてもらえませんか?」
その瞬間、テスト用紙をビリビリと破いた音が頭の中で鳴った。
いつのまにか、息子の成長が母親の成績表だと思い込んでいたのだ。
ふいに聞かれる、子供への「〇〇できるようになった?」。それは抜き打ちテストのように感じて、いつテスト用紙が配られるかと思うと、わたしは怯えていた。
いつだって、普通でいたかった。それは息子自身じゃない。わたしが多数派の子供を育てるお母さんだと、誰かの目に映りたかった。
話を聞いている間、天井を見上げていた。昼白色の照明がハイライトのように眩しくて、一度でも目を瞑ると崩れ落ちそうだ。
全て話した。癇癪のこと。トミカの服を着たお友達を追いかけて、申し訳ない気持ちになったこと。こんなわたしたちを誰にも晒したくなくて、リビングに閉じこもったあの日の記憶。
「おしゃべりうるさい時期だよね」
最初の嘘から一年。職場の消毒室で、わたしの心は穏やかだった。
「うちの子、自閉症なんだけどさ」
欠伸をしながらそう言えたのだ。マスクからはみ出たわたしの口元を、同僚が驚いた顔でじっと見る。
もう髪を触って、本当のことを隠す必要はない。
夕方。いつものように息子が回っていたので、どんな感覚だろうとわたしも両手を広げて回ってみることにした。
怖い顔で見ている母ちゃんが仲間になった。息子がニヤッとする。
37年間生きてきて、自分の意志で回転するなんて初めてかもしれない。
ああ、目が回る回る。ぐるぐるぐーるぐる。黄ばんだ壁紙がぐにゃりと歪む。
君の視点では世界がどう映っているのだろう。わたしの声は届いているのだろうか。
「おかあさん、だいすき」っていつか聞けるだろうか。
あ、照明にコバエが紛れ込んでいる。掃除しなきゃ。
3周でフラフラなわたしはバタンキュー。
それでも息子は回り続ける。相変わらず奇妙な顔で。
でも大丈夫。もう風車を止めたりはしないよ。
それにしてもあんた…。こんなに回ってフラフラにならないなんて。
「そのバランス力と回転軸、マジで凄いよ!」
あれから、息子は言葉の断片を呟くようになったものの、相変わらず「ママ」とは呼ばれない日々を過ごしている。
一つ変わったことと言えば、割れたドーナツに絶望してから、わたしがドーナツを揚げるようになったこと。簡単には割れないように、どっしりと。
息子の回る足音と、パチパチとドーナツが揚がる音が重なり、リビングは合唱のように騒がしい。
揚げたてのドーナツをわたしが持つと、息子が駆け寄ってきた。いびつな穴からこちらを覗いている。わたしも負けじと覗き返すと、目ヤニがついた一重がどアップになった。
ドーナツ越しに、わたしと息子は目が合った。
これが、今のわたしたちの秘密の景色で、
「ママ」に代わる言葉のかたち。
