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吉子よ、愛しているだけは言わないで


あの日、私は新幹線のデッキで泣いていた。当時恋人であった夫と、結婚の挨拶のために実家に行った帰りだった。

事の発端は、私の母・吉子が「結婚は認めるけど、両家の顔合わせはしたくない」と言ったからである。

ガタンゴトンと揺られながら壁に額をつけると、しんと冷たい。ゴミ箱から漂うニンニクの匂いで鼻がおかしくなりそうだ。

けど、今の私にはこれくらいがちょうどいい。この涙が、悲しいのか、悔しいのか、その理由を打ち消してくれる気がした。


挨拶の日、夫がスーツをバッチリ決めてきた。メゾンドショコラの紙袋を片手に持って。

紗々ですらお茶うけに並ばない我が家にとって、本物の味なんて分からない。それなのに父と母は「東京の風がする」と袋の上からくんくん匂いを嗅いで、はしゃいでいた。夫への印象は上々だと、胸をなでおろす。

小さな蓋をあけると、チョコレートの輝きに家族みんなが「うわあああ」と歓声をあげた。筑前煮、春雨サラダ、唐揚げ。吉子の手料理が並ぶセンターに置かれる。

すると、小学生の姪がチョコをぱくっと口に入れた。

「おい、このチョコは一粒500円するんだぞ」目を見開いて訴えるものの、しじみ目には限界があるようだ。

後でブラックサンダー三枚あげるから、高級チョコを譲ってくれないか、心の中で吐き出した私はちゃぶ台の下で、拳を小さく空打ちした。


「お前、いい人見つけたなあ」

夫が帰った後だった。父が黒ずむ差し歯を見せて、にっと笑ったのは。反対に母はうつむきながら不穏な空気をまとっている。

長い沈黙のあと、ついに吉子が口を開いた。

「お母さん、相手の両親と顔合わせはしたくない」

また始まった。吉子はすぐ人を困らせる女だ。

ここぞという時に、彼女はドラマの主人公になりきって捨て台詞を吐く。これまで何度も私の人生を邪魔したいのかと思ったことか。


でも、私は知っている。吉子が臆病なことを。

彼女はこの20年、身内や雑用を除くと誰かと会ったことがない。人と合わせることが苦手な吉子は集団に入ると煙たがられ、家に籠るようになった。

私が中学生の頃。母が隣人とトラブルになった時「どう考えても、悪いのはお母さんだよ」と思ったものの、言葉を飲み込んだ。仕返しに小遣いを下げられると困ったからだ。


そんな彼女にとって、唯一の話し相手は愛猫のマイケルだった。

どうして一方的に話しかけるのか。尋ねてみると、「お母さんね、願いが叶うならマイケルとお話ししたいの」そう言って、ささくれでいっぱいの手でマイケルの頭を撫で続けた。私は素っ気なく返す。

「ふーん。それもし叶ったら何話すん?」 

「そうね。うちに来て幸せ?って聞きたいな」

微笑む吉子の姿は、世間に染まっていない少女そのものだった。 

きっと彼女は怖かったのだろう。


誰かに会ってしまうと、自分に引け目を感じてしまう。周りに馴染みたいのに、浮いてしまう。


自分が相手より優位に立ちたいのに、叶わない。誰かに会うことは彼女にとっての負け戦なのだ。

だからこそ、この団地から出られない。

せめて娘の晴れ舞台のために、「まともな親」を演じきってくれよ。そう思いながら帰りの新幹線でしかめっ面で涙を流していた。

しかし、私もしぶとさだけは一人前だ。30年かけて作り上げた、母の攻略を実践するチャンスではないか。何が何でも母をこの聖域から出してやる。


まず吉子の不安は、身なりだと察した。引きこもりなので、そもそも外の世界で着る服がないのだ。

洋裁が得意である吉子は、自作のチュニックを毎日着ている。一軍はサイケデリックな模様のやつ。そこで私はユニクロで白のブラウスに薄茶のパンツを調達し、再び実家に出向いた。

吉子が真っ白なブラウスの袖にゆっくり腕を通す。鏡に映る彼女は、私がずっと願っていた普通のお母さんだった。

当の本人も「あら、私も悪くないじゃない」と言っているようだ。次はサーカスの珍獣使いの気分でヘアセットに取り掛かる。たてがみのようなアホ毛を整え、ハーフアップにした。唇には赤い口紅を雑に塗る。

「んっ、として」

私が言うと、大きく唇を舐め回すものだから、口紅ががっつりはみ出した。これでは口デカお化けではないか。それでも吉子は、「ふぁ~~」と頬に手を当て、鏡の前で何とも言えないポーズを決めている。吉子が小さな自信を取り戻したのだ。

わたしは吉子の肩にそっと手を置いて耳打ちした。

「お母さん、相手のご家族ってね…」

夫はあっけらかんとした顔をしているが、実は険しい人生を送っている。私はこの話をすれば、吉子は首を縦に振ると確信していた。

案の定、吉子の目がハッと見開いた。そして、ついに言わせてやったのだ。

「あんたがここまでするんなら、お母さん顔合わせ頑張るわ」


このようにして、私は母をおだてあげ、顔合わせ当日を迎えられたのである。

帰りの車内、吉子の顔は晴れやかだった。

きっと夫の両親が、苦労話を笑い飛ばしたからだ。

「大変な人はもっといる。私はまだマシなんだ」ほっとした表情に映った。

吉子の意地の悪さを、軽蔑した。

同時に、「普通の結婚」を叶えるため、吉子の自尊心を刺激し、手のひらで転がした自分にも、同じ血が流れている。

私たちは当たり前に地続きなのだと思うと、何故か強烈に車酔いした。


この日を境に、吉子とは距離を置いた。 

にも関わらず、カルディで彼女の好物であるショートブレッドを見かけるたびに、思わず手にとっていた。

「お母さん、あんたに嫌われたら生きていかれへん」

そう言って、私を抱きしめる吉子の生ぬるい体温が染み付いていたからだ。貧弱な体の感触は浴室でいくら自分の身体をこすっても消えなかった。

60サイズの段ボールに、ぎゅうぎゅうにクッキーを敷き詰めた。緩衝材を入れるなら、一箱でも多くクッキーを送りたい。手紙なんて入れない。


会いたくはないけれど、吉子の欲しいものなら、いくらでもプレゼントしたかった。最後の一つなんてずっとこないように。

きっとこれは恋人に貢ぐ感覚に近い。

幼少期、両親から「○○坊」と呼ばれるくらいに男勝りだった私は、この性格を自ら利用した。母のことを同性だと思うと憎くてたまらない。家庭の平和を保つため、心の中で俺になり、吉子のことを「自分を困らせる恋人」として扱っていたのだ。

そしてついに、胸が焼けるようなあの言葉を投げつけられる。






「あんたのことが気持ち悪い!」

忘れもしないこの言葉を言われたのは、息子が生まれて二週間後のこと。赤子を見るために、夫の両親が実家にやって来た後だった。

吉子はすぐに嫉妬する女だ。

話を聞くと、私が義両親の前で「いい子ちゃん」なのが気持ち悪いと言う。そりゃそうだ。義母の前で、寝そべりながら鼻くそなんてほじれない。出産で800ミリも出血した体に鞭を打って、気まずい空気が流れないように、司会役を全うしたというのに。この仕打ちか。

心の中でガタガタと何かが崩れ落ちた。

「いい加減にしーや。言っていいことと悪いことがあるやろうが」

ドスを効かせた声で私は吉子の前に立ち、思いっきり見下ろした。

148センチの母が、165センチの私を見上げる。なんだ、年老いた女じゃねぇか。あんなに母の機嫌を伺っていたのが嘘のようだ。

もう、怖いものなんてない。 

それから私たちは全力で取っ組み合いをした。ダイニングテーブルが揺れると、がしゃんと計り器が倒れ、小麦粉が霧のように舞い散った。吉子が身にまとうサイケデリックな柄が白く染まる。

その景色は、私の味方になった。

スキップする勢いでビンタをした。された。またした。またされた。お互いに手を出したのは、人生で初めてだ。これまで母に言われて飲み込んだ言葉たちが、胃の底から再び沸きだし、私の体を動かしてくれる。

「ちょ、おまっ、お母さんに何するんや!」 

昼寝から起きた父が、慌てて私を押さえつける。子宮がズキズキする。きっと股から血の塊がでているんだ。でもこの痛みは、私と吉子が対等になれた証。

やっとジェンダーが回帰できたかと思うと、笑いが止まらない。これまでにない絶頂を感じた。吉子を守るために、もう自分を騙す必要はないのだから。

私は叫んだ。

「私とお父さんが甘やかしたから、お母さんがモンスターなってん!私達の責任やねん!!」


吉子も負けじと絶叫した。


「あんたは、あっちのお母さんの娘になればいいんじゃ!!!」



私たちはいつもこんな風に、傷つけながらも離れられず親子をしてきた。

いいか、吉子よ。

絶対に「愛している」なんて言葉はこの先も言わないでくれ。

怒り、悲しみ、苦しみ、哀れみ、惨めさ、憎しみ。今もなお、腹の中に沈む六つの感情。

きっと私たちは黒いオセロが真ん中に、六つ並んでいる状態なんだ。涼しげな顔で「愛している」と言って、白いオセロを隅に置いたって意味はない。

黒の円盤を反対の隅に置くのはこの私。あんな安っぽい言葉で、これまでの30年間を真っ白にされてたまるか。

どちらかの命が尽きるその瞬間まで、
私はあんたと罵倒しあいたいんだよ。




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