「個人的自我」は近代の発明か - メディア環境から読む自己の形式史
序:「個人的自我」は近代に誕生した、は本当か?
「個人的自我は近代の発明である」。この命題は、魅力的であると同時に危険でもある。魅力的なのは、それが私たちのもっとも身近な感覚――私は私であり、私には内面があり、私は自分の人生を物語ることができる、という感覚――を、自然でも普遍でもなく、歴史のある時点で強く編成されたものとして見せてくれるからである。危険なのは、その言い方を少しでも粗くすると、前近代の人間には内面がなかった、あるいは非西欧社会には自己意識が乏しかった、という乱暴な進化論へ滑り落ちてしまうからだ。[1]
本稿の結論を先に述べるなら、この主張は「自我そのものの誕生」としては強すぎる。しかし、「近代西欧において、内面化され、自律的で、責任を負い、権利をもつ主体としての自己の“形式”が、メディア環境と制度の変化によって強く組織された」と言い換えるなら、かなりの説得力をもつ。黙読・私的読書・印刷による標準化と保存性・新聞が生む同時性・印刷資本主義による想像共同体の形成は、近代的自己を支える想像力のインフラだった。[2]
他方で、前近代に自己がなかったわけではない。宗教的告白、自伝的記述、修養の実践、日記文学、書簡、感情表現の記録は、西欧にも東アジアにも存在した。フーコーが論じたように、自己は古代から近代に至る長い「自己への技術」の歴史の中で作られてきたのであり、その系譜を印刷術の登場だけに回収することはできない。[3]
二〇〇〇年代以降の書物史・読書史は、古典的な「印刷革命」論をより複雑なものへと組み替えた。印刷はたしかに巨大な変化であったが、その効果は自動的に発生したのではない。海賊版、検閲、出版市場、読者共同体、教育制度、権威の形成といった諸実践が絡み合って、印刷物の信頼性や読書の習慣は少しずつ社会化された。すなわち、メディアは原因である以前に、制度と実践の結節点なのである。[4]
デジタル以後の状況は、この議論にもう一つの緊張を与える。SNS、モバイル、AI、検索可能なアーカイブは、印刷中心期に成立した「内面をもつ一個の主体」というモデルを壊しているように見える。しかし、より正確には、自己は消滅しているのではない。分散し、可視化され、測定され、相互評価され、再び制度化されている。したがって、現在問うべきなのは「自我はあるかないか」ではない。どのメディア環境が、どのような自己の形を、どのような権力関係のもとで作っているのか、である。[5]
1. 問いの置き換え――「自我の誕生」ではなく「自己の形式史」へ
本稿で扱う問いは、単に「人間に自己意識はいつ生まれたのか」という心理学的な問いではない。むしろ、それはメディア論、思想史、社会理論、読書史が交差する場所に置かれるべき問いである。すなわち、個人が自己を境界づけられた主体として理解し、内面をもち、時間的連続性を保ち、自分の行為に責任を負い、自伝・日記・告白・SNS投稿などを通じて自らを反省的に語ること。この複合的な能力と感覚は、どのような媒介のもとで強化され、どのような制度の中で社会的に承認されるようになったのか。[6]
ここで「近代」と言うときにも、少なくとも三つの時間幅を区別しなければならない。
第一に、十五世紀後半の活版印刷以後から十八世紀に至る早期近代である。ここでは宗教改革、科学革命、出版市場、読書習慣の変化が重なり合う。[7]
第二に、新聞、大衆読書、都市化、国民国家、広告、大衆消費が前景化する「長い十九世紀」である。ここでは、公的領域と私的領域、親密性と公共性の組み替えが進む。[8]
第三に、二十世紀後半以降の後期近代である。ギデンズが述べたように、自己は制度的再帰性と心理専門知の中で、つねに管理され、語り直される「反省的プロジェクト」となる。[9]
したがって、本稿でいうメディア論は、テレビや新聞だけを扱う狭義のマスメディア研究ではない。文字、紙、写本、活版印刷、書物、新聞、放送、ネットワーク、スマートフォン、AIといった媒介技術と、それらをめぐる読書、記録、流通、検閲、教育、権威形成の実践全体を視野に入れる。メディアは情報を運ぶ透明な管ではない。それは、何が記録可能で、何が比較可能で、何が私的で、何が公的で、何が「私の内面」として理解されるのかを変えてしまう環境である。[10]
ただし、対象地域は主として欧米に置く。なぜなら「個人的自我が近代の発明である」という命題そのものが、多くの場合、近代西欧の歴史経験を暗黙のモデルにしているからである。しかし、その主張の射程を確かめるためには、日本や東アジアの比較材料を避けて通れない。前グーテンベルク期のアジア印刷、前近代日本の日記文学、宗教的・宮廷的な自己表象は、少なくとも「印刷=西欧近代=自己の誕生」という単線的な図式を不安定化させる。[11]
この不安定さこそが重要である。強い命題はしばしば、思考を鋭くする。しかし、鋭すぎる刃は現実の厚みを削ぎ落とす。本稿の作業は、その刃を捨てることではない。むしろ、「近代が自我を発明した」という魅力的な言い切りを、「近代のメディア環境が自己の形式をどのように編成したのか」という、より精密で、より遠くまで届く問いへ鍛え直すことにある。
2. 主要理論家の布置――メディア決定論の強度を測る
以下の比較表は、二十世紀後半から二〇二六年までの議論で中心的な役割を果たした論者を、メディア決定論の強弱を意識しながら配置したものである。

この表から見えてくるのは、単純な賛否ではない。マクルーハンやオングは、活版印刷や書字が感覚配置と意識様式を変えるという強い直観を与える。アイゼンスタインは、印刷が宗教改革や科学革命の舞台を整えたという歴史的説得力をもつ。だが、ジョンズ、ダントン、シャルティエらは、印刷の効果が技術それ自体から自動的に流れ出すのではなく、読者、流通、検閲、海賊版、出版市場、権威形成の中で作られることを示す。
一方、テイラー、フーコー、ローズ、ギデンズ、ホンネトは、自己をメディアだけでなく、宗教、倫理、統治、心理専門知、承認の制度から読み解く。ここで自己は、ただ読書によって内面化される存在ではない。法に承認され、学校で評価され、心理学に命名され、市場で選択し、公共圏で発言し、親密圏で真正性を求められる存在である。メディアはこの巨大な編成の一部であり、同時にそれを増幅する装置でもある。
さらに、キットラー、タークル、ヘイルズは、近代主体がメディア装置によって配置され、デジタル環境の中で分散し、ポストヒューマン的に再編されていく局面を描く。ここでは「近代的自我」は終点ではなく、むしろ一つの歴史的フォーマットとして現れる。印刷中心の自己は、電気メディアとデジタルメディアの中で再び揺さぶられているのである。
3. 前近代の自己――「なかった」のではなく、違う形であった
メディア論的な「自我=近代の発明」説に対して、最初に突きつけられる反証は、前近代にも自己言及の豊かな実践が存在したという事実である。宗教的告白、懺悔、修養、霊的自伝、宮廷日記、書簡、法廷証言、旅行記。これらは、近代的な意味での「個人主義」と同じではない。しかし、少なくとも、前近代人が自分を語らず、内面をもたず、感情を記録しなかったという見方を退けるには十分である。[87]
フーコーの「自己への技術」は、この点で決定的に重要である。彼にとって自己とは、内側に自然に宿っている核ではなく、配慮、修養、告白、真理語りといった実践によって作られるものであった。キリスト教の告白は、主体に自らの内面を探索させ、それを言語化し、権威の前で語らせる。この形式は、近代以前から自己を生産する強力な装置だった。[88]
西欧の例でいえば、『マージェリー・ケンプの書』は、十五世紀の霊性、生活、感情表現を含む自己記述としてしばしば参照される。もちろん、それを近代的自伝と呼ぶべきか、信仰告白として読むべきかは議論がある。しかし、そのジャンル論争そのものが重要である。自己はいつも、純粋な内面の吐露としてではなく、宗教的・制度的・読者的な形式の中で書かれてきたからだ。[89]
東アジアに目を向けると、前近代日本の日記文学は、さらに強い比較材料を提供する。『蜻蛉日記』のようなテキストは、十世紀の日本において、経験、感情、関係性、時間の経過を自己参照的に記録する形式が存在したことを示している。これは「近代西欧で初めて内面が生まれた」という命題を、少なくともそのままでは維持できないものにする。[90]
しかし、ここで立ち止まってはならない。前近代にも自己表象があったからといって、近代に新しい自己の形式が出現しなかった、とは言えない。むしろ問題は、自己記述の社会的位置づけが変わったことである。書物生産の拡大、識字の上昇、私的読書の習慣、権利主体としての個人、市場で選択する消費者、国民として数えられる主体、心理学的に分類される人格。これらが重なるとき、自己は単なる表現ではなく、制度的に期待される様式になる。[91]
定量的な背景としては、欧州の写本・印刷本生産の長期推定が、六世紀から十八世紀にかけて書物生産が大きく増大し、とくに十五世紀半ば以降の伸長が価格低下や識字と関係しうることを示している。[92] ただし、書物が増えたことは、自我が生まれたことの直接証拠ではない。それは、自己記述が流通し、保存され、比較され、模倣されやすくなる条件が厚くなったことを示すにすぎない。[93]
文化心理学も、この議論に有益な補助線を引く。マーカスと北山による独立的自己/相互協調的自己の議論は、自己が普遍的な心理機能である一方、その構造や価値づけが文化によって大きく異なることを示した。[94] 近代西欧で強まったのは、境界づけられた単一の自己、内的属性を表現する自己、自律的に選択し責任を負う自己であり、それは媒介技術・制度・文化実践と共進化した形式として理解するのが妥当である。[95]
感情史研究もまた、前近代を「内面のない時代」と見なす図式を崩す。ローゼンワインらの感情共同体論は、過去の人々が感情をもたなかったのではなく、共同体ごとに異なる規範のもとで感情を表現し、理解していたことを示す。[96] つまり、問題は内面の有無ではない。どのような形式で内面が語られ、どのような媒体に保存され、誰に向けて開かれていたのかである。
4. メディア論的説明の魅力――なぜこの命題は強いのか
それでもなお、「個人的自我は近代の発明である」という命題が私たちを惹きつけるのは、自己を抽象的な精神ではなく、記録・記憶・比較・閲覧・同時性といった操作の束として見直す力をもつからである。自分を語るには、語るための形式が必要である。内面をもつには、内面を反省する時間と空間が必要である。自分の人生を一つの連続した物語として把握するには、過去の記録を保存し、現在から読み返す媒体が必要である。[1]
第一の論拠は、印刷と感覚配置である。マクルーハンは、活版印刷が視覚優位の感覚編成を強め、線形性、分節化、標準化、個人化を促したと論じた。[15] この議論はしばしば決定論的だと批判されるが、直観としては鋭い。印刷されたページは、世界を行単位、段落単位、章単位に切り分ける。読者はそれを一人で追い、理解を自分の内部に蓄積する。世界は声の共同空間から、視覚的に配列されたテクストの空間へ移る。
第二の論拠は、黙読と内面化である。オングが示したように、書字と印刷は意識様式を変え、読書は個人を内面へ折り返す。[97] もちろん、すべての読書が孤独な黙読だったわけではない。音読、朗読、共同読書、聖書読解、学習読書は長く残った。しかし、私的読書が拡大することで、読者は社会の音から一時的に離れ、テクストと自分の内面を往復する習慣を得る。これは近代的な内面の経験と深く親和的だった。
第三の論拠は、印刷が知の累積を可能にしたことである。アイゼンスタインの「印刷革命」論は、印刷が大量生産、標準化、保存性をもたらし、宗教改革や科学革命の条件を整えたとする。[28] 同じテクストが複数の読者に届き、異なる場所で比較され、誤植や異本が問題化され、知が蓄積される。こうした環境は、「私が何を信じるか」「私が何を知るか」という自己の知的責任を、より強く前景化する。
第四の論拠は、新聞と印刷資本主義が生む同時性である。アンダーソンが述べたように、印刷資本主義は共通言語を形成し、同じニュースを同じ時間に読む読者たちに、互いに会ったことのない共同体を想像させた。[98] ここで自己は、単に内面をもつ個人ではなく、国民、読者、市民として位置づけられる。近代的自我は孤独な内面であると同時に、巨大な想像共同体の中で数えられる一単位でもあった。
第五の論拠は、後期近代の再帰性である。ギデンズが論じたように、現代の自己は、専門知、制度、メディア環境の中で絶えず語り直される反省的プロジェクトとなる。[99] 履歴書、カウンセリング、ライフプラン、SNSプロフィール、検索履歴、健康アプリ、AIによる推薦。これらはすべて、自己を記録し、評価し、改善させる装置である。ここでは、近代的自己は完成したものではなく、メディアを通じて更新され続ける形式として現れる。[100]
5. 反論の焦点――印刷は魔法のスイッチではない
しかし、メディア論的説明が魅力的であるほど、それは慎重に扱われなければならない。最大の問題は、印刷や読書の効果を自動化してしまうことである。まるで活版印刷が登場した瞬間に、内面、自律、個人主義、近代科学、国民国家が一斉に起動したかのように語るなら、それは歴史というより神話である。
ジョンズの批判はここで重要になる。印刷物の権威、信頼性、安定性は、技術から自然に生まれたのではない。海賊版、検閲、流通の不確実性、異本、誤植、読者の疑念、出版業者の信用、学者共同体の実践といった混沌の中で、少しずつ作られたものである。[101] つまり、印刷文化とは、あらかじめ完成した一枚岩の文化ではなく、争いの中で組み立てられた制度的成果なのである。
また、読書=内面化という図式も単純化の危険をもつ。読書史が示してきたのは、読書がきわめて多様な実践だったということである。音読する読書、みんなで聞く読書、暗唱する読書、祈る読書、実用的に参照する読書、余白に書き込む読書、禁じられた本を密かに読む読書。シャルティエが強調するように、意味は作者や生産者だけで決まるのではなく、読者の実践によって生成される。[102]
さらに、欧米中心性の問題がある。印刷文化を西欧のポスト・グーテンベルク状況に限定して議論することは、研究上の便宜としては理解できる。[103] しかし、それを世界史一般のモデルにしてしまうと、朝鮮半島の木版・金属活字、日本の写本文化と日記文学、中国の印刷文化などが、単なる「例外」へ押し込められてしまう。[104] 近代西欧の自己形式を分析することと、それを人類史の標準モデルにすることは、厳密に分けなければならない。
したがって、今日の主流的な認識は、強い命題を弱める方向へ向かっている。「自我は近代に発明された」のではなく、「自己は複数の媒介、制度、実践のもとで歴史的に再編された」と言うべきなのだ。[105] この言い換えは、命題の魅力を失わせるものではない。むしろ、自己というものがどれほど深くメディアと制度に絡み取られているかを、より精密に見せてくれる。
6. 実証の方法――巨大な問いを、検証可能な問いへ
この論争の難しさは、扱っている対象があまりに大きいことにある。「自己」「内面」「近代」「メディア」といった概念は、どれも一つの数値に還元できない。したがって、研究はこの巨大な問いを、いくつかの検証可能な問いへ分解してきた。[106]
第一に、史料批判にもとづく自己表象研究である。日記、自伝、書簡、法文書、宗教文書、告白録を、ジャンル慣習、読者想定、制度的文脈の中で読む。ここで注意すべきなのは、史料が内面の透明な写しではないということだ。日記でさえ、完全に私的なものではない。告白は真理を語る形式をもち、自伝は人生を物語化するジャンル規範をもち、書簡は相手への演技を含む。自己は、いつも媒体と形式を通じて現れる。[107]
第二に、書物史・読書史の統合モデルである。ダントンの「コミュニケーション回路」は、作者、出版者、印刷業者、書籍商、運送、検閲、読者を一つの回路として捉える。[12] これによって、メディアの効果は単なる技術の効果ではなく、流通と受容の社会過程として分析される。自己形成も同じである。人はただ本を読むのではない。どの本が読めるのか、誰に許されるのか、どこで売られるのか、どのように権威づけられるのかによって、自己の言葉を得ていく。
第三に、定量指標の導入である。写本・印刷本の生産推定、識字率、書物価格、出版点数は、自己叙述が広がるための環境を近似的に測る。[92] しかし、ここでも慎重さは必要である。本が増えたことは、内面が増えたことではない。識字率が上がったことは、自律的主体が増えたことではない。それは、自己を記録し、保存し、交換する条件が変わったことを示す指標である。[93]
第四に、コーパス分析・計量テキスト分析である。Google Books Ngramなどを用いて、代名詞、個人主義語彙、感情語、自己言及語の長期変動を追う研究は、近代以後の自己語彙の変化を可視化する可能性をもつ。[108] ただし、Ngramにはサンプリングの偏り、年代別冊数差、ジャンル構成の変化といった方法論上の問題がある。[109] したがって、計量分析は単独で結論を出すものではなく、史料批判と組み合わせるべき補助線である。[110]
この議論を因果仮説として描くなら、次のようになる。まず媒介技術の変化があり、記録・流通・閲覧のコストと形態が変わる。そこから黙読、日記、自伝、告白、SNS投稿などの自己記述実践が生まれ、内面性、連続性、自律性、関係性といった自己理解の形式が組み替えられる。さらに権利主体、教育、市場、心理専門知がそれを制度化し、その制度が再び自己記述の実践を促す。この循環こそが、単純な「印刷が自我を作った」という因果を避けるための、より堅牢なモデルである。[111]
因果仮説の概念図

七 議論のタイムライン――強いメディア論から、複合因果へ
以下の年表は、二十世紀後半から二〇二六年までの主要な議論の推移を、必要最小限に整理したものである。ここで重要なのは、議論が「メディアが人間を作る」という強い命題から、「メディア、制度、読者実践、権力、文化差が自己の形式を共に作る」という複合的な理解へ移ってきたことである。[112]

一九六〇年代のマクルーハン的な強いテーゼは、印刷を近代的個人主義や国民国家の形成と大胆に結びつけた。[15] 七〇年代から八〇年代にかけて、グーディ、オング、アイゼンスタイン、アンダーソン、ダントンらによって、書字、印刷、読書、国民、書物流通の問題が多方面に展開される。[113][114] 九〇年代には、テイラー、ギデンズ、フーコー受容を通じて、自己は思想史・社会理論・主体化実践の中に位置づけ直された。[115]
一九九八年以降、ジョンズによる印刷革命論の再検討と、二〇〇二年のAHRフォーラムは、印刷文化の自明性を揺さぶった。[116] 二〇〇〇年代以降は、自己史、感情史、読書史が「近代に突然自己が生まれた」という図式を相対化しつつ、近代的自己の特殊性を別の形で問い直す。[117] 二〇一〇年代から二〇二六年にかけては、Gutenberg Parenthesis、SNS、AI、コーパス分析の拡大によって、印刷中心期の自己が一つの歴史的括弧として見直されるようになった。[118]
8. 総合評価――三つの層に分けて考える
結論は、三層に分けて整理するのがもっとも見通しがよい。第一層は、弱いが堅牢な命題である。自己の形式はメディア環境によって変形する。黙読や私的読書が内省を促すこと、印刷が標準化・保存性・比較可能性を提供すること、新聞やデジタルネットワークが社会的同時性と自己呈示の形式を変えること。このレベルの主張は、現在の研究蓄積から見てもかなり支持しやすい。[119]
第二層は、条件付きで支持される命題である。近代西欧では、内面性、自律性、権利主体、反省的プロジェクトとしての自己理解が優勢化した。だが、それは印刷だけで説明されるものではない。宗教改革、国家形成、市場、教育、心理専門知、公共圏、家族、親密性の文化が絡み合って成立した複合的な編成である。[120]
第三層は、支持が難しい強い命題である。すなわち、「自我そのものが近代に初めて発明された」という主張である。これは、前近代の告白実践、自己表象、日記文学、感情共同体、非西欧の比較材料、そして印刷効果の社会的構成を考えると、文字通りには維持しがたい。[121]
したがって、マクルーハン的な「印刷が近代的個人主義を生む」という叙述は、自己の存在論ではなく、自己のメディア化された形式史として読むべきである。[122] そのように読み替えるなら、この命題はなお強い。なぜなら、それは私たちが「自然な私」だと思っているものを、紙、活字、ページ、新聞、学校、国家、心理学、SNS、AIの交差点に立ち上がる歴史的な形として見せるからである。
未解決問題も残る。第一に、前近代の自己言及史料がどの階層・媒体・共同体に偏っているのか。第二に、語彙や文体の変化を内面性の変化とどのように結びつけるのか。第三に、西欧近代で成立した自己理解が、他地域ではどのような媒介と制度を通じて形成されたのか。第四に、デジタル環境は近代的自律主体をどこまで解体し、どこまで再制度化しているのか。[123]
実務的示唆として、教育においては「個人」や「自己」を自然な前提として教えるのではなく、読書形態、記録技術、権利制度、学校、心理専門知が自己概念をどのように作るのかを扱うべきである。メディア・リテラシーは、情報の真偽を見抜く技術にとどまらない。それは、自分という存在がどのような媒体と制度によって形づくられているのかを理解する技術でもある。[124]
文化政策や研究環境の面では、デジタル化されたアーカイブが研究条件を変えていることに注意しなければならない。検索可能性、データ所有、閲覧インターフェースは、史料へのアクセスを容易にする一方で、過去そのものの見え方を再編する。十九世紀新聞のデジタル化が研究条件を根本的に変えるという議論は、その具体例である。[125]
個人のデジタル環境に関しては、オンラインの自己呈示が親密性、孤独、関係性を再編するというタークルの議論や、情報技術が単一で自律的な主体像を相対化するというヘイルズの議論を踏まえる必要がある。[126] プライバシー政策や教育は、単に「自己を守る」だけでは不十分である。むしろ、どのような自己が可視化され、測定され、評価され、制度的に作られてしまうのかを問わなければならない。
結論 「私」はいつも、媒体の中で発明され直している
「個人的自我は近代の発明である」という命題は、そのままでは過剰である。しかし、その過剰さには意味がある。なぜならそれは、私たちがもっとも自明だと思っている「私」を、歴史の表面へ引きずり出すからだ。自己は、肉体の内側にひっそりと眠る自然物ではない。自己は、語る形式、記録する媒体、承認する制度、比較する読者、評価する社会の中で、何度も作られ直してきた。
近代が発明したのは、自己そのものではない。近代が強く編成したのは、内面をもち、自律的で、責任を負い、権利をもち、自分の人生を反省的に語る「個人」という形式である。そして、その形式は、印刷、読書、新聞、公共圏、教育、国家、市場、心理専門知と切り離せない。メディアは、単に自己を表現する道具ではない。自己が自己として感じられるための環境であり、形式であり、時に檻でもある。
そして現在、私たちは印刷中心期の自己とは異なる場所にいる。SNSは自己を複数化し、検索エンジンは記憶を外部化し、AIは言葉の生成を補助し、プラットフォームは自己呈示を数値化する。ここで自己は消えていない。むしろ過剰に記録され、過剰に見られ、過剰に最適化されている。だからこそ、いま必要なのは、自我の自然性を信じることではない。自我のメディア的条件を読み解くことである。
このレビューの到達点は、次の一文に集約できる。
自我は近代に初めて生まれたのではない。しかし、近代は、自我が「個人的」であると感じられるための強力なメディア環境と制度を作った。そしてデジタル以後の現在、その環境はふたたび組み替えられている。私たちが問うべきなのは、「本当の私」はどこにあるのか、ではない。どの媒体が、どのような私を、どのような社会のために作っているのかである。
主要参考文献としては、上表で扱った文献群に加え、印刷革命をめぐる二〇〇二年の往復、ダントンとシャルティエを中心とする書物史の方法論、Gutenberg Parenthesisをめぐる議論、そしてデジタル環境下の自己呈示・監視・分散主体に関する研究を中核に置くのが、本テーマに対してもっとも再現性の高い道筋となる。[127]
引用・参照URL
[1] [2] [6] [15] [16] [55] [122] https://www.ocopy.net/wp-content/uploads/2017/10/mcluhan-marshall_the-gutenberg-galaxy-the-making-of-typographic-man.pdf
https://www.ocopy.net/wp-content/uploads/2017/10/mcluhan-marshall_the-gutenberg-galaxy-the-making-of-typographic-man.pdf
[3] [48] [49] [88] [105] [107] [121] https://foucault.info/documents/foucault.technologiesOfSelf.en/
https://foucault.info/documents/foucault.technologiesOfSelf.en/
[4] [7] [14] [17] [27] [28] [47] [51] [56] [64] [71] [80] [83] [100] [101] [110] [112] [116] https://www.histoire.ens.psl.eu/IMG/pdf/adrian_johns-printed_revolution_discussed.pdf
https://www.histoire.ens.psl.eu/IMG/pdf/adrian_johns-printed_revolution_discussed.pdf
[5] https://web.mit.edu/comm-forum/legacy/mit6/papers/Pettitt.pdf
https://web.mit.edu/comm-forum/legacy/mit6/papers/Pettitt.pdf
[8] [34] https://journals.openedition.org/questionsdecommunication/21381
https://journals.openedition.org/questionsdecommunication/21381
[9] [44] [45] [99] self and society in the late modern age : Giddens, Anthony : ...
https://archive.org/details/modernityselfide0000unse?utm_source=chatgpt.com
[10] [12] [30] [35] [81] [82] [106] [111] [124] https://storia.dh.unica.it/risorse_omc/files/original/55adecffcb7f4bf6aed25f9eeeed4674.pdf
https://storia.dh.unica.it/risorse_omc/files/original/55adecffcb7f4bf6aed25f9eeeed4674.pdf
[11] [13] [68] [103] https://api.pageplace.de/preview/DT0400.9781107299894_A23760708/preview-9781107299894_A23760708.pdf
https://api.pageplace.de/preview/DT0400.9781107299894_A23760708/preview-9781107299894_A23760708.pdf
[18] [29] [33] [120] https://arditiesp.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/01/habermas_structural_transf_public_sphere.pdf
https://arditiesp.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/01/habermas_structural_transf_public_sphere.pdf
[19] [20] [25] [39] [57] [97] [114] [119] https://pages.mtu.edu/~jdslack/readings/Ong_Orality_literacy_modern_media.pdf
https://pages.mtu.edu/~jdslack/readings/Ong_Orality_literacy_modern_media.pdf
[21] [61] [73] [74] [84] [126] https://www.mediastudies.asia/wp-content/uploads/2017/02/Sherry_Turkle_Alone_Together.pdf
https://www.mediastudies.asia/wp-content/uploads/2017/02/Sherry_Turkle_Alone_Together.pdf
[22] [127] https://www.histoire.ens.fr/IMG/pdf/eisenstein-revolution_revisited.pdf
https://www.histoire.ens.fr/IMG/pdf/eisenstein-revolution_revisited.pdf
[23] [24] [113] https://equilibrium-uamc.com.mx/wp-content/uploads/2012/09/evolutioncommunication_goody1.pdf
https://equilibrium-uamc.com.mx/wp-content/uploads/2012/09/evolutioncommunication_goody1.pdf
[26] [109] https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC6430395/
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC6430395/
[31] [40] [41] [115] https://www.jstor.org/stable/191737
https://www.jstor.org/stable/191737
[32] [65] [66] https://philpapers.org/rec/BURROT-4
https://philpapers.org/rec/BURROT-4
[36] [37] [60] [98] https://www.britannica.com/topic/Imagined-Communities-Reflections-on-the-Origins-and-Spread-of-Nationalism
https://www.britannica.com/topic/Imagined-Communities-Reflections-on-the-Origins-and-Spread-of-Nationalism
[38] [46] [69] [70] [75] https://web.mit.edu/uricchio/Public/Documents/media-in-transition/Kittler-Discourse%20Networks.pdf
https://web.mit.edu/uricchio/Public/Documents/media-in-transition/Kittler-Discourse%20Networks.pdf
[42] [43] [50] [86] [91] [92] [93] https://www.cambridge.org/core/journals/journal-of-economic-history/article/charting-the-rise-of-the-west-manuscripts-and-printed-books-in-europe-a-longterm-perspective-from-the-sixth-through-eighteenth-centuries/0740F5F9030A706BB7E9FACCD5D975D4
https://www.cambridge.org/core/journals/journal-of-economic-history/article/charting-the-rise-of-the-west-manuscripts-and-printed-books-in-europe-a-longterm-perspective-from-the-sixth-through-eighteenth-centuries/0740F5F9030A706BB7E9FACCD5D975D4
[52] [53] https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK555715/
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK555715/
[54] [62] [63] [72] https://psi424.cankaya.edu.tr/uploads/files/Hobsbawm_and_Ranger_eds_The_Invention_of_Tradition.pdf
https://psi424.cankaya.edu.tr/uploads/files/Hobsbawm_and_Ranger_eds_The_Invention_of_Tradition.pdf
[58] [59] https://dspace.library.uu.nl/bitstream/handle/1874/20319/anderson_95_translatorsstrugglerecognition.pdf
https://dspace.library.uu.nl/bitstream/handle/1874/20319/anderson_95_translatorsstrugglerecognition.pdf
[67] [89] https://metseditions.org/editions/zY0MDpwC644aFmAQ7HvV73C41mbVAZeK
https://metseditions.org/editions/zY0MDpwC644aFmAQ7HvV73C41mbVAZeK
[76] [77] [78] [79] [123] https://arl.human.cornell.edu/linked%20docs/Hayles-Posthuman-excerpts.pdf
https://arl.human.cornell.edu/linked%20docs/Hayles-Posthuman-excerpts.pdf
[85] [87] [102] https://dx.doi.org/10.1525/california/9780520064287.003.0007
https://dx.doi.org/10.1525/california/9780520064287.003.0007
[90] https://library.oapen.org/bitstream/handle/20.500.12657/41809/1/9780472901401.pdf
https://library.oapen.org/bitstream/handle/20.500.12657/41809/1/9780472901401.pdf
[94] [95] https://web.mit.edu/curhan/www/docs/Articles/15341_Readings/Influence_Compliance/Markus_Kitayama_1991_Culture_and_the_self.pdf
https://web.mit.edu/curhan/www/docs/Articles/15341_Readings/Influence_Compliance/Markus_Kitayama_1991_Culture_and_the_self.pdf
[96] https://www.rmoa.unina.it/1124/1/RM-Rosenwei-Emotions.pdf
https://www.rmoa.unina.it/1124/1/RM-Rosenwei-Emotions.pdf
[104] https://ijhss.thebrpi.org/journals/Vol_4_No_9_1_July_2014/2.pdf
https://ijhss.thebrpi.org/journals/Vol_4_No_9_1_July_2014/2.pdf
[108] https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/0022022112455100
https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/0022022112455100
[117] https://philpapers.org/rec/WAHTMO-3
https://philpapers.org/rec/WAHTMO-3
[118] https://api.pageplace.de/preview/DT0400.9781501394850_A46847190/preview-9781501394850_A46847190.pdf
https://api.pageplace.de/preview/DT0400.9781501394850_A46847190/preview-9781501394850_A46847190.pdf
[125] https://link.springer.com/book/10.1057/9780230365469
https://link.springer.com/book/10.1057/9780230365469
