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なぜ私たちはゴキブリに悲鳴をあげるのか - 生得的アラーム、清潔な家、そして「本能っぽい物語」の正体

夜の台所で、黒いものが視界の端を走る。

それだけで、身体は先に動く。息が止まり、肩が跳ね、声が出る。相手は体重にして数グラムの昆虫で、こちらを噛み殺す力も、毒針も、爪もない。それなのに、私たちはしばしば、野犬や蛇に出会ったとき以上に大きく反応する。しかも奇妙なのは、その反応がほとんど「正しい作法」のように共有されていることだ。見つけた人は叫び、周囲の人間は駆除役と逃避役に分かれ、殺虫剤やスリッパや掃除機をめぐって小さな非常事態が始まる。

では、その非常事態はどこから来るのか。

「本能だから」と言ってしまえば簡単である。人間の脳はサバンナ時代のままで、危険な小動物や病原体を避けるようにできている。ゴキブリは汚い場所を這い、素早く動き、突然現れる。だから怖い。説明としては気持ちがいい。だが、その気持ちよさこそ、少し疑ったほうがいい。

なぜなら、ゴキブリ嫌悪は、蛇への警戒や腐敗物への嫌悪と似ているが、同じではないからだ。さらに言えば、人間が「ゴキブリ」という特定の生物を、生まれながらに嫌う専用回路を持っているという証拠は、現在の研究では強くない。むしろ見えてくるのは、もっと入り組んだ仕組みである。

人間は、危険や汚染らしいものに反応しやすい身体を持って生まれる。しかし、その警報装置が何に向かって鳴るのか、どのくらい大きく鳴るのかは、家庭、都市、衛生観念、広告、噂話によって調律される。ゴキブリは、ただの昆虫として嫌われているのではない。私たちはゴキブリを、生活空間の汚染、見えない繁殖、管理の失敗、そして都市の裏側そのものとして読むように教えられている。

北海道出身者は本当にゴキブリを飼ったのか

この問題を考える入口として、ひとつの有名な笑い話がある。

北海道には昔ゴキブリがいなかったので、上京した北海道出身者が初めてゴキブリを見たとき、それを珍しいカブトムシだと思って虫かごで飼っていた、という話だ。聞いたことのある人も多いだろう。細部は語り手によって変わる。カブトムシではなくクワガタだったり、カミキリムシだったり、「かわいい虫」として飼っただけだったりする。

いかにも作り話である。だが、ただの作り話として捨ててしまうには惜しい。民俗学者の及川祥平は、この種の話が「母親の友人の話」として語られるのを採集している。また、民俗学者たちが編んだ現代伝説集『ピアスの白い糸』にも、北海道から東京に来た人がゴキブリをかわいい昆虫だと思って飼っていた、という類話が収録されている。これは都市伝説によくある「友人の友人」型の語りである。当事者はなかなか実名で現れず、話だけがもっともらしい距離を保って流通する。

ところが、この話には現実の核がある。及川自身は北海道で18年ほど暮らし、その間ゴキブリを一度も見なかったという。2001年、上京して初めて大学の部室でゴキブリを見たとき、彼はそれをカミキリムシの一種ではないかと思い、怯える周囲をよそに近づいて観察しようとした。まるで怖くなかった、と書いている。数年後、自室で二度目に遭遇したときには、すでに怖くなっていた。

この証言は小さいが、示唆的である。恐怖は目撃の瞬間にだけ生まれるのではない。最初の目撃と二度目の目撃のあいだに、周囲の悲鳴、言葉、知識、笑い話、駆除の儀礼が入り込む。人は次に出会うまでに、「正しく怖がる」身体になっている。

もちろん、現在の北海道にゴキブリがいないわけではない。暖房、物流、高気密住宅、飲食店街の発達によって、生息状況は変化している。だが、かつて北海道の多くの家庭でゴキブリとの遭遇がきわめて少なかったことは十分にありうる。だからこの伝説は、完全な実話でも完全な嘘でもない。地域差という現実、初遭遇の戸惑い、友人の友人型の語り、そして笑いを生む誇張が重なった現代伝説なのである。

そして、この伝説が面白いのは、ゴキブリ嫌悪が、最初から完成品として人間に備わっているわけではないことを、ほとんど実験のように示してしまうからだ。

それは恐怖なのか、嫌悪なのか

ゴキブリを見たとき、そこで起きている感情はひとつではない。

天井から落ちてきた、こちらへ飛んできた、足元を走った。そういう瞬間に起きるのは、驚愕反応であり、恐怖である。身体は突然の運動に反応し、交感神経が働き、逃げるか戦うかの準備を始める。蛇や猛獣に対する反応に近い部分もある。

しかし、ゴキブリへの反応の中心は、しばしば恐怖よりも嫌悪である。嫌悪は、病原体や毒素、腐敗物、排泄物を体内に入れないための感情だ。心理学では、こうした感染源を避ける仕組みを「行動免疫系」と呼ぶ。免疫細胞が体内に入った病原体と戦う前に、そもそも触れない、近づかない、口に入れないようにする心の防衛装置である。マーク・シャラーらの研究が整理してきたこの枠組みでは、嫌悪は単なる気分ではなく、感染リスクを避けるための行動を動機づけるシステムとして理解される。

このシステムは精密な検査機ではない。病原体があるのに見逃す損失は大きい。一方、無害なものを汚いと誤認して避ける損失は比較的小さい。そのため、防衛装置はしばしば誤報に傾く。ランドルフ・ネッセが「煙探知機原理」と呼んだように、火災報知器は本物の火事を見逃さないために、ときどき料理の煙にも鳴る。ゴキブリ嫌悪も、この誤報に強い警報装置の上で理解できる。

ただし、ここで重要なのは、行動免疫系があるからといって、「ゴキブリ専用の本能」が証明されるわけではない、という点である。人間には腐敗、体液、排泄物、病気の兆候を避けやすい傾向がある。けれども、どの生物をその汚染カテゴリーの代表にするかは、文化や生活環境に大きく左右される。

ゴキブリはその点で、嫌悪の条件を満たしすぎている。暗い隙間から出る。台所や排水や生ごみを連想させる。高速で不規則に動く。脚や触角が細かく動く。人間の身体や食器に近づく。たとえ実際の感染リスクがその場で冷静に計算されていなくても、警報装置は「これは汚染の徴候かもしれない」と読む。

だからゴキブリに対する反応は、恐怖と嫌悪と驚愕が混ざったものになる。昆虫学者ジェフリー・ロックウッドは、昆虫への感情を考えるなかで「ホラー」という言葉を使った。逃げても台所には残る。潰しても死骸が残る。一匹を処理しても、見えない場所にまだいる気がする。恐怖と嫌悪のどちらにも逃げ切れない、その閉じ込められた感覚がゴキブリを特別なものにする。

赤ちゃんは最初から悲鳴を上げない

進化心理学には、蛇やクモへの恐怖を説明する強力な研究系譜がある。マーティン・セリグマンの「学習準備性」、アルネ・オーマンとスーザン・ミネカの fear module 仮説、そしてミネカらによるサルの観察学習実験はよく知られている。実験室育ちのアカゲザルは最初から蛇を強く恐れるわけではない。しかし、野生育ちのサルが蛇を怖がる映像を見ると、急速に蛇への恐怖を学習する。しかも、花のような対象に対して恐怖の反応を学ばせることは難しい。つまり、生得的なのは「完成した恐怖」ではなく、「特定の対象と恐怖を結びつけやすい傾き」だと考えられる。

この枠組みは重要だが、ゴキブリにそのまま移すと危うい。動物恐怖の研究では、蛇やクモは恐怖関連刺激として扱われる一方、ゴキブリ、ナメクジ、ミミズのような無脊椎動物は、しばしば嫌悪が主成分になる別カテゴリーとして扱われてきた。デイヴィーの動物恐怖研究も、恐怖関連動物と無脊椎動物を分けている。就学前児童の視覚探索課題でも、クモはゴキブリより速く検出されるという報告がある。これは、「ゴキブリも蛇やクモと同じく生得的に見つけるようにできている」と単純には言えないことを示す。

嫌悪そのものの発達も、出生直後から完成しているわけではない。ポール・ロジンらの研究は、汚染感受性が幼児期を通じて段階的に形成されることを示してきた。北米の子どもを対象にした研究では、昆虫や人毛で汚染されたものへの明確な忌避反応は、平均して7歳ごろまで安定して現れないという報告もある。排泄物や汚染物への嫌悪は、トイレトレーニングや大人の模倣を通じて社会化される。

もちろん、幼い子どもがすべての虫に平然としているわけではない。突然動くものには驚くし、触感に身震いすることもある。だが、「ゴキブリは汚い、危険、触ってはいけない」という複雑な意味は、周囲の人間から学ばれる。

子どもは、未知の対象を見たとき、大人の顔を見る。大人が悲鳴を上げ、後ずさりし、顔をしかめ、「汚い」と言う。その瞬間、対象の意味が変わる。虫は虫であることをやめ、共同体が危険視する何かになる。観察学習や社会的参照の研究が示すのは、恐怖や嫌悪が、言葉だけでなく、表情、声、身体の動きとして伝達されるということだ。

ゴキブリ嫌悪は、知識として教えられる前に、場の空気として教えられる。

台所から泥が消えたとき、ゴキブリは悪魔になった

それでも、なぜ現代の住宅ではゴキブリがこれほど特別な嫌悪対象になったのか。ここで心理学だけでは足りなくなる。ゴキブリ嫌悪は、都市と住宅の歴史でもある。

近代以前の日本で、ゴキブリは現在と同じ絶対悪だったわけではない。古くは「あくたむし」「つのむし」、江戸期には「油虫」「御器噛み」と呼ばれた。現在の「ゴキブリ」という標準和名は、「ゴキカブリ」の「カ」が明治期の文献で落ちた誤記に由来するという説が広く知られている。及川はこの通説にも資料上の留保を置きつつ、少なくとも「ゴキブリ」という語が戦後もしばらく説明を必要とする言葉だったことを指摘している。

もっと意外なのは、民俗のなかでゴキブリが必ずしも否定的にだけ扱われていなかったことだ。武藤鉄城が1935年に記録した秋田の俗信では、ゴキブリは「カマド虫」と呼ばれ、竈が財産を意味することから神聖視され、追い払ったり悪戯したりすることを禁じられていた。鈴木棠三『日本俗信辞典』には、愛知で「アブラムシが多くいると金がたまる」、岡山で家に多いと財産ができる、という俗信が見える。

一方で、同じ民俗資料には逆方向の伝承もある。隠岐ではゴキカブリムシを殺すと目がよくなるといい、愛知ではアブラムシを殺すと伊勢参りほどの値打ちがある、和歌山では三匹殺すと神助がある、とされる。つまり昔の日本人がゴキブリを愛していたわけではない。重要なのは、意味づけが揺れていたことだ。富の徴にも、殺すべき穢れにもなった。ゴキブリはまだ、現代のような単一の悪役ではなかった。

転換は戦後に強まる。及川が引く『東京朝日新聞』1960年9月3日号の記事は、戦前の東京ではゴキブリは比較的少なく、戦後に急増したという当時の実感を記録している。ただし、1932年の記事にも台所を荒らす黒光りするアブラムシの駆除法が出ているため、「戦前はいなかった」とは言えない。より正確には、存在はしていたが、戦後の住宅と生活の変化によって、家庭内の主役級の害虫になったのだろう。

その変化は物質的だった。アルミサッシ、高気密住宅、暖房、鉄筋コンクリートの集合住宅、ダストシュート。私たちはハエや蚊を締め出すために住まいを閉じた。だが、閉じられ、温められ、食べ物が豊富になった空間は、ゴキブリにとっても住みやすかった。近代化は、虫を遠ざけるだけではなく、別の虫を室内に定着させた。

さらに、ハエや蚊は公共の衛生問題だった。発生源はドブ川や便所やゴミ捨て場にあり、行政や地域が駆除に関わる余地があった。ゴキブリは違う。台所、戸棚、流し台の下、寝室。つまり私的空間に出る。だからゴキブリ問題は、地域の問題ではなく、家庭の問題になる。家庭の問題は、しばしば家事の責任になる。清潔な家を維持できているか。家族の健康を守れているか。来客に見られたらどう思われるか。ゴキブリは、単に汚い虫ではなく、生活管理の失敗を告発する記号になった。

1973年に発売された「ごきぶりホイホイ」は、この心理をよく突いていた。それ以前の捕獲器には、生きた個体を自分で処理しなければならないものもあった。ごきぶりホイホイは、誘引して、捕まえて、姿を見ずに箱ごと捨てられる。ここで商品化されたのは駆除だけではない。「見ないで済む」という心理的安全である。現代のゴキブリ嫌悪は、見たくない、触りたくない、存在を認めたくないという欲望とともに洗練されていった。

名前を呼ばず「G」と言う習慣も同じである。飲食店で「太郎さんがいらっしゃいました」と隠語を使う例も報告されている。対象そのものだけでなく、名前まで汚染される。ゴキブリは、姿を消され、名を伏せられることで、逆にますます強い存在感を獲得する。

俗説は、警報音を大きくする

ゴキブリをめぐる俗説は多い。一匹見たら百匹いる(または、三十匹いる。数字にあまり大きな意味はない)。死に際に卵を産む。人間をめがけて飛ぶ。危険を感じるとIQが300になる。核戦争後も生き残る。頭を切られても生きる。髪の毛一本で一か月生きる。胃の中で繁殖する。白いゴキブリは女王である。名前を呼ぶと出る。

こう並べると、ほとんど怪談である。しかし、面白いのは、すべてが完全なデタラメではないことだ。俗説の多くには小さな事実の核があり、それが誇張され、擬人化され、恐怖の物語へ加工されている。

「一匹見たら百匹いる」は、数としては乱暴だ。外から一匹だけ迷い込むこともある。だが、卵鞘には複数の卵が入り、屋内で繁殖している場合には見えていない個体が多数いる可能性はある。つまり、生態学的な事実が、「いま目の前に見えない99匹が潜んでいる」という想像へ変換されている。

「死に際に卵を産む」も同じだ。卵鞘を保持している個体に衝撃を与えると、卵鞘が外れたり、孵化間近の幼虫が出てきたりすることがある。だが、それは死を悟った母が最後の力で子孫を残すという意志の物語ではない。物理現象に、人間が執念や復讐心を読み込んでいる。

「人間をめがけて飛ぶ」は、恐怖が偶然の運動に敵意を見出す例である。ゴキブリは種類や条件によって飛ぶが、人間の顔を狙って攻撃しているわけではない。にもかかわらず、こちらへ向かってきた瞬間の記憶は、「あいつは私を狙った」という物語へ変わる。

「IQ300」は、ほとんど美しいほどのデマである。IQは人間の知能検査に由来する指標で、昆虫にそのまま適用できない。けれども、ゴキブリの逃げ足の速さ、風圧を感知して瞬時に回避する能力、駆除に失敗した経験は、人間に「敵は急に賢くなる」という物語を作らせる。失敗したのは自分ではない、相手がIQ300になったからだ、という。

「核戦争後も生き残る」は、少しだけ本当で、大きく誇張されている。ゴキブリを含む昆虫は、哺乳類より放射線に耐えやすい場合がある。だが無敵ではないし、核爆発の熱や爆風から自由なわけでもない。ロンドン自然史博物館のポール・エッグルトンも、核戦争後にゴキブリだけが生き残るという話には都市伝説としての性格が強いと説明している。事実は「人間よりかなり耐えることがある」。物語は「文明が滅んだあとも、あいつだけが残る」である。

「頭を切られても生きる」は、かなり事実に近い。昆虫は体節の気門で呼吸し、開放血管系で、神経系も人間ほど頭部に集中していない。条件によっては頭部を失ってもしばらく生きる。だからこそ危険なのだ。この本当らしさが、他の誇張まで支える。「頭なしで生きるなら、核にも耐えるだろう」という連想が始まる。

「胃の中で繁殖して人が死ぬ」は誤りである。日本では、テレビ番組『TVジョッキー』の「奇人・変人」コーナーでゴキブリを食べた人物が、その後体内で繁殖して死亡したという都市伝説が流通した。後に本人の生存確認がなされたとされる。胃酸の中で卵が孵化し、体内で繁殖するという筋書きは生物学的に成立しない。ただし、耳の中に虫が迷入する事故自体は医学的に実在する。ここでも、現実の小さな可能性が、身体を内部から侵略される大きな物語へ育っている。

白いゴキブリは、多くの場合、脱皮直後の個体である。女王でも、突然変異でも、神秘的な新種でもない。だが、普段黒褐色の嫌悪対象が白く現れると、人間はそこに特別な意味を読み込みたくなる。恐怖の物語が反転し、幸運の俗信に変わることさえある。

俗説は、嫌悪の副産物ではない。嫌悪を育てる教材でもある。子どもは「一匹見たら百匹」と聞けば、一匹の向こうに見えない群れを想像する。「人をめがけて飛ぶ」と聞けば、偶然の飛翔に敵意を読む。「死に際に卵」と聞けば、駆除する相手に執念を感じる。「名前を呼ぶと出る」と聞けば、言葉そのものが汚染される。

ここでも煙探知機原理が働く。危険を過小評価する俗説は残りにくい。「本当は一匹しかいないから大丈夫」という話は、怪談として弱いし、安全教育としても魅力がない。逆に、脅威を過大評価する話は残りやすい。間違っていても、避ける方向に人を動かすからだ。俗説は、社会が共有する警報音のボリュームを上げる。

都市化は虫嫌いを増やす

この警報音は、都市生活によってさらに大きくなる。

深野祐也と曽我昌司らは、現代人の昆虫嫌悪を「都市化」と結びつけて説明する研究を行っている。重要なのは、都市化が単に虫との接触を減らすだけではないことだ。虫と出会う場所が変わる。野外で見る虫は自然の一部として処理されやすい。しかし、室内で見る虫は侵入者になる。同じ虫でも、森の中で見れば「生き物」だが、寝室で見れば「汚染」になる。

もうひとつは、知識の喪失である。虫の名前を知らない、種類を区別できない、危険か無害か判断できない。そうなると、人は安全側に倒れる。わからないものは全部避ける。エラー管理としては合理的だが、その結果、節足動物全体への嫌悪が広がる。

この視点を入れると、ゴキブリ嫌悪は、都市人が自然から遠ざかったから弱くなったのではなく、むしろ遠ざかったから強くなったのだとわかる。知らないものは、より怖い。見慣れないものは、より汚く見える。名前のない虫は、すべて「G」の仲間に見える。

猫とキュウリ、そして「本能っぽい話」の誘惑

ここで、少しだけ別の有名な話に移ろう。猫の背後にキュウリを置くと、振り向いた猫が跳び上がる。ネットで何度も拡散された動画である。そして多くの人が、こう説明した。猫はキュウリを蛇と誤認している。猫には蛇を恐れる本能があるのだ、と。

この説明は魅力的である。細長いもの。背後に突然現れる。猫と蛇の進化的関係。いかにも筋が通っている。しかし、筋が通っていることと、実証されていることは違う。

動画の多くでは、猫は食事中で、背後という死角に、いつのまにか未知の物体を置かれている。驚く理由は、キュウリが蛇に似ているからだけではないかもしれない。突然そこにあること、見慣れないこと、背後から個体空間を侵害されたこと、それだけで十分に驚愕反応は起こりうる。キュウリ以外の物体でも同様の反応が起きるなら、蛇本能説は弱くなる。少なくとも、ネット動画は制御実験ではない。

一方で、霊長類と蛇の関係には、より強い研究の蓄積がある。リン・イスベルの蛇検出理論は、霊長類の視覚システムの発達に蛇の捕食圧が影響した可能性を論じた。サルや人間が蛇画像を素早く検出する研究、視床枕のニューロンが蛇刺激に強く反応する研究など、注意バイアスの証拠はある。ただし、ここでも大切なのは「蛇を見つけやすい」ことと「完成した恐怖を持って生まれる」ことを混同しないことだ。

猫とキュウリの話は、ゴキブリ嫌悪を考えるうえでよい鏡になる。私たちは、もっともらしい進化物語に惹かれる。高所が怖いのは祖先が落下を避けたから。暗闇が怖いのは夜行性捕食者を避けたから。赤が目立つのは血を連想するから。ゴキブリが嫌いなのは病原体を避けるため。どれも可能性としてはありうる。だが、進化上もっともらしいことと、進化によってそうなったと実証されていることは別である。

必要なのは、証拠の段階を分けることだ。文化を越えて普遍的か。発達初期から現れるか。特定の対象に選択的か。代替説明を排除できるか。神経基盤や系統比較はあるか。蛇やクモではこの条件をある程度満たす研究がある。ゴキブリでは、まだ多くが類推である。

だからこそ、ゴキブリ嫌悪を「本能ではない」と切り捨てるのも間違いだし、「完全に本能だ」と言うのも粗い。身体には古い警報装置がある。だが、その装置に「ゴキブリ」というラベルを貼り、音量を最大にし、怪談まで添えるのは文化である。

本能は、対象の名前を知らない

ゴキブリを好きになる必要はない。台所に出たら駆除すればいいし、衛生管理も必要である。屋内性ゴキブリはアレルゲンや衛生リスクと関係しうるし、食品や生活空間に出れば実害がある。その実害を否定する話ではない。

むしろ逆である。嫌悪には機能がある。問題は、その機能の上に、どれだけの物語が重ねられているかだ。

本能は、対象の名前を知らない。生まれたばかりの身体は、「ゴキブリ」という標準和名も、「G」という隠語も、「一匹見たら百匹」という標語も、「北海道出身者がカブトムシと間違えた」という笑い話も知らない。ただ、突然動くものに注意を向け、汚染らしいものを避け、未知の対象について周囲の反応を読む準備を持っている。

そこへ社会が入ってくる。親の悲鳴が入る。台所の清潔規範が入る。殺虫剤広告が入る。民俗が入る。ネットロアが入る。猫とキュウリのような、もっともらしい進化説明への欲望が入る。

その結果、数グラムの昆虫は、都市の怪物になる。

ゴキブリを見たときの悲鳴は、単なる個人の反射ではない。そこには、古い警報装置と、近代住宅の気密性と、戦後の衛生文化と、家庭の恥の感覚と、民俗の残響と、インターネットの俗説が混ざっている。私たちは一匹の虫を見ているようで、実際には、自分たちの生活世界の設計図を見ている。

次に夜の台所で黒い影が走ったとしても、たぶん身体はやはり跳ねるだろう。警報装置は消えない。けれど、その音がどこから来たのかを知るだけで、世界の見え方は少し変わる。ゴキブリは怪物である前に、私たちが怪物として読むことを学んできた存在なのだ。(了)

主要参考文献・参照資料

·       Mark Schaller & Justin H. Park, “The Behavioral Immune System (and Why It Matters),” Current Directions in Psychological Science, 2011.

·       Valerie Curtis & Adam Biran, “Dirt, Disgust, and Disease: Is Hygiene in Our Genes?” Perspectives in Biology and Medicine, 2001.

·       Paul Rozin & April E. Fallon, “A Perspective on Disgust,” Psychological Review, 1987.

·       Paul Rozin, April E. Fallon, & Mary Augustoni-Ziskind, “The Child's Conception of Food: The Development of Contamination Sensitivity to ‘Disgusting’ Substances,” 1980年代の関連研究群。

·       Arne Öhman & Susan Mineka, “Fears, Phobias, and Preparedness: Toward an Evolved Module of Fear and Fear Learning,” Psychological Review, 2001.

·       Michael Cook & Susan Mineka, “Selective Associations in the Observational Conditioning of Fear in Rhesus Monkeys,” Journal of Experimental Psychology: Animal Behavior Processes, 1990.

·       Chris Askew & Andy P. Field, “Vicarious Learning and the Development of Fears During Childhood,” Behaviour Research and Therapy, 2007.

·       Graham C. L. Davey, “Self-reported Fears to Common Indigenous Animals in an Adult UK Population: The Role of Disgust Sensitivity,” British Journal of Psychology, 1994.

·       Simona Rádlová et al., “Cockroaches Are Scarier than Snakes and Spiders: Validation of an Affective Standardized Set of Animal Images (ASSAI),” Behavior Research Methods, 2021.

·       Jeffrey A. Lockwood, The Infested Mind: Why Humans Fear, Loathe, and Love Insects, Oxford University Press, 2013.

·       Yuya Fukano & Masashi Soga, “Why Do So Many Modern People Hate Insects? The Urbanization-Disgust Hypothesis,” 2021.

·       及川祥平「ゴキブリのフォークロア」「ゴキブリのフォークロア②〜ゴキブリの台頭〜」「ハエと蚊」明石書店ウェブマガジン「きらいだし、こわい、けれども……〜害虫・害獣の民俗学〜」2023年。

·       及川祥平「害虫と生活変化:ゴキブリへの対処を事例として」『民俗学研究所紀要』45号、2021年。

·       及川祥平「ゴキブリをめぐる体験の語り」『現在学研究』9号、2022年。

·       武藤鉄城『羽後角館地方に於ける鳥蟲草木の民俗学的資料』アチックミューゼアム、1935年。

·       鈴木棠三『日本俗信辞典』角川書店、1982年。

·       池田香代子・大島広志・高津美保子・常光徹・渡辺節子編『ピアスの白い糸』白水社、1994年。

·       筑波大学「ゴキブリの起源は意外と新しかった」TSUKUBA JOURNAL、2019年。

·       Lynne A. Isbell, The Fruit, the Tree, and the Serpent: Why We See So Well, Harvard University Press, 2009.

·       Van Le et al., “Pulvinar Neurons Reveal Neurobiological Evidence of Past Selection for Rapid Detection of Snakes,” Proceedings of the National Academy of Sciences, 2013.

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