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書けないという病 - それでも書き続ける人が見ている世界

締め切りが迫っている。なのに、書けない。
あるいは、もっと悪いことに、締め切りまではまだ二ヶ月もあった。資料を集め、考えを熟成させ、自分の次なる代表作になりうる論考を書くための、ほとんど奇跡のような時間が与えられていた。そう思っていた。ところが気づけば、締め切りまで一週間である。文字数は千字にも届いていない。ブラウザのタブだけは墓標のように並び、机の上には読まれかけの本が積まれ、メモ帳には矢印と丸と疑問符だけが繁殖している。本文だけがない。
そう、書き手はときとして書けない。これは珍病ではない。むしろ、書くという仕事に手を染めた者が、遅かれ早かれ一度は罹る平凡な流行病である。しかも厄介なことに、患者はたいてい自分で処方箋を持っているつもりでいる。酒を飲めばよい、徹夜すればよい、ファミレスに籠もればよい、編集者に怒鳴られればよい、薬で身体を騙せばよい、と。だがそれらは、たいてい病の説明ではない。危険な対症療法であり、しばしば自己破壊の神話である。本稿で考えたいのは、その奥にある単純で、しかし底なしの出来事である。すなわち、「書けない」とは何か。

なお、全く脈略がないけれど、このテキストを音楽AI・SUNOに食わせて吐き出された音楽を添付します。ぜひ聴きながらお読みください。


白紙は空白ではない。そこは過密都市である。

まず、いちばん粗雑な誤解を片づけておきたい。書けないとは、頭のなかに何もない状態ではない。むしろ逆である。書けない書き手の頭のなかには、たいてい多すぎるほど何かがある。読者がいる。編集者がいる。過去の自分がいる。前に褒められた文章がある。前に失敗した文章がある。まだ存在していない未来の代表作が、妙に立派な顔をして机の上に座っている。

白紙の前にいる書き手は、一人ではない。何十人、何百人もの見えない観客に囲まれている。彼らは声を出さない。しかし、黙っているからこそやかましい。「この程度でいいのか」「前作のほうがよかった」「君は本当に分かっているのか」「もう少し調べてから書いたほうがいいのではないか」。こういう声が、耳ではなく骨の内側から聞こえてくる。

したがって、「書けない」は空白ではない。過密である。白紙とは、なにもない平原ではなく、過去と未来と他者の視線が詰め込まれた満員電車である。押され、潰され、息を吸う場所もない。その状態で「さあ、一行目を」と言われる。馬鹿を言うな、という話である。人間はそこまで清潔な機械ではない。

この「過密」という見方を採ると、書けなさは急に道徳の問題ではなくなる。もちろん怠惰はある。後でそこへ行く。逃げない。だが、怠惰だけで片づけるには、机の前で起きていることはあまりに濃い。そこでは、心理、脳、哲学、社会、文学史が、みな勝手に椅子を引いて座っている。白紙の前とは、学問領域の闇鍋である。しかも鍋の底で煮られているのは、書き手の自尊心である。

先延ばしは時間管理の失敗ではない。感情の避難である。

心理学の先延ばし研究は、書けない病を考えるうえで、かなり有用な入口をくれる。ティモシー・ピチェルやフューシャ・シロワらの研究が強調してきたのは、先延ばしが単なる時間管理の失敗ではなく、感情調整の失敗である、という点である。人は予定表を作れないから逃げるのではない。予定表なら作れる。締め切りも分かっている。必要な作業も、おおよそ分かっている。それでも逃げる。なぜなら、その作業に触れるだけで、嫌な感情が立ち上がるからである。

書くことは、ただ文章を作ることではない。自分の理解の浅さを確認することでもある。構想の粗さを目撃することでもある。「自分はこんなことも考えきれていなかったのか」と知ることでもある。書く前の自分は、まだ可能性の側にいる。ところが一行書いた瞬間に、その可能性は具体的な貧しさを帯びる。人は、これを嫌う。

だから先延ばしは、未来の自分を犠牲にして現在の自分を救う小さな詐欺である。いま書かないことで、いまの不安は和らぐ。スマホを見れば、SNSの通知が光る。動画を見れば、脳は小さな報酬を受け取る。机を片づければ、生産的なことをしている気になる。資料をもう一つ集めれば、自分が逃げているのではなく準備しているのだと信じられる。なんと便利な欺瞞だろう。人間は、こういうことにかけては実に才能がある。

ピアーズ・スティールは、先延ばしを期待値、価値、締め切りまでの時間、衝動性の関係として捉えるモデルを提示した。乱暴にいえば、締め切りが遠く、成功への確信が弱く、目の前の不快感が強く、しかも衝動性が高いとき、人は動かない。これは驚くべき発見というより、身に覚えのありすぎる解剖図である。締め切り二ヶ月前のわれわれは、まだ自分を信じている。締め切り一週間前のわれわれは、もう自分を信じていない。そして締め切り前夜のわれわれは、ついに信仰をやめ、ただ労働を始める。

ここに完璧主義が加わると、病は悪化する。完璧主義者は高い水準を持っているから書けるのではない。高い水準を知っているからこそ、最初の汚い一行に耐えられないのである。第一稿とは本来、泥である。だが文化資本を少し持った人間は、泥が泥であることに耐えられない。最初から陶器であれ、最初から刀であれ、最初から批評史に残れ、と言い出す。そんなものは無理である。だが、無理だと分かっていても要求してしまう。ここに、書けない病の滑稽で悲惨な顔がある。

脳はなぜ机から逃げるのか。

脳神経科学の言葉を借りれば、書けないときの人間は、理性で分かっていながら身体が言うことを聞かない状態にある。前頭前野は計画、判断、実行機能を担う。いわば、脳のなかの編集長である。一方、扁桃体は不安や恐怖を検知し、危険に対して逃走や防衛の反応を起動する。こちらは防犯ベルである。

問題は、白紙がしばしば猛獣のように扱われることだ。もちろん、Wordの白い画面は噛みつかない。だが、評価不安や失敗恐怖は、脳にとってかなり本物の脅威である。自分の無能が露見するかもしれない。期待を裏切るかもしれない。これまで積み上げた信用を損なうかもしれない。そのとき身体は、抽象的な批判を抽象的なまま処理してくれない。心拍が上がり、肩が固まり、胃が重くなり、なぜか冷蔵庫を開ける。肉体は、原稿から逃げるために実に勤勉である。

エイミー・アーンステンらの研究が示してきたように、強いストレスは前頭前野の働きを弱める。中程度の緊張は集中を生むが、過剰な不安は計画や自己制御を奪う。つまり「書かなければ」と焦れば焦るほど、書くための認知機能が鈍ることがある。なんという悪趣味な仕組みか。消防車を呼んだら、消防車が火事に怯えて帰っていくようなものである。

さらにデフォルト・モード・ネットワーク、つまり内省や自伝的記憶、自由連想に関わる脳内ネットワークも、書けなさをこじらせる。創造性にとって内省は必要である。だが内省は、少し油断すると反芻になる。「なぜ書けないのか」「このままでは終わる」「前にもこうだった」「自分は本当は書けない人間なのではないか」。こうして脳は、原稿ではなく、原稿を書けない自分についての評論を書き始める。これほど役に立たない評論も珍しい。

締め切り直前に急に書ける現象は、この膠着の乱暴な解除として理解できる。遠い締め切りは抽象的な不安を生む。「よいものを書かなければ」という不安である。近い締め切りは具体的な危機を生む。「出さなければ終わる」という危機である。ここで目的が切り替わる。美しい文章を書くことから、物理的に提出することへ。名作を作ることから、生き延びることへ。脳は気取るのをやめる。いや、やめさせられる。そしてようやく手が動く。

白紙の哲学。自由はなぜ地獄になるのか。

書けない病は、心理学だけでは足りない。なぜなら、白紙の恐怖は、単に不安を避けるというだけではなく、人間が自由に直面したときの眩暈に関わっているからである。

アリストテレスは、よいと分かっていることを実行できない状態をアクラシア、意志の弱さとして考えた。書き手はまさにこれを生きている。いま書くべきだと知っている。書けば楽になることも知っている。書かなければ後で苦しむことも知っている。それでも、別のことをする。知識が足りないのではない。知識が行為にならない。ここに人間の古くからの不名誉がある。

キルケゴールの不安論は、さらに深い。彼にとって不安とは、自由の目眩である。何でもできる。どの方向にも行ける。だからこそ足がすくむ。白紙とは自由そのものである。何を書いてもよい。どんな構成でもよい。どんな比喩でもよい。どんな結論へも行ける。これが幸福か。とんでもない。これは地獄である。

書き始めるとは、無限の可能性を殺すことである。頭のなかの論考は、まだ完全でいられる。まだ傑作でいられる。まだ誰にも批判されない。ところが最初の一行を書いた瞬間、それは現実になる。現実とは、必ず欠けているものである。言葉は遅れ、論理は歪み、比喩は滑り、こちらの本気は半分も伝わらない。書くとは、この不完全さを引き受けることなのだ。

サルトルなら、そこに自由の刑罰を見るだろう。われわれは自由である。だから言い訳ができない。環境のせいにしたくなる。資料不足のせいにしたくなる。体調のせいにしたくなる。もちろん、実際に環境も資料も体調も重要である。だが、最後に一行を書くかどうかは、自分の手に残されてしまう。ここが残酷なのだ。自由は祝福ではない。ときどき、逃げ場のない責任の別名である。

ハイデガーの言葉を借りれば、白紙の前でわれわれは「世間」のおしゃべりから切り離される。日常の合意、慣れた言葉、借り物の論理が崩れる。自分が何を投げ出すのか、何に賭けるのか、それを問われる。だから書けない時間は、ただの停滞ではない。そこでは、書き手が自分自身の投企に躓いている。

ブランショに至れば、もっと暗い。書くことは、主体である「私」が言語を支配する行為ではない。むしろ、言語の非人称的な空間へと沈み、作者が自分の主権を失っていく行為である。書き手は「私が書く」と思っている。だが本当に書き始めると、言葉のほうがこちらを連れていく。予定していなかった文が生まれ、知らない連想が開き、論理が勝手に曲がる。これは創造であると同時に、自己喪失でもある。書けない人間は、実はこの自己喪失を恐れているのかもしれない。

デリダの差延を持ち出すなら、意味はいつも少し遅れる。ぴたりと一致する言葉などない。次の文で正確になるはずだ、次の比喩で届くはずだ、次の段落で自分の真意が立ち上がるはずだ。そう思って、意味は先へ先へ逃げていく。書き手は、それを追いかける。逃げる言葉を捕まえる仕事。それが執筆である。だから書けない病は、言語そのものが抱える遅延の病でもある。

文化資本という美しい足枷。ブルデューを机の横に座らせる。

ここでブルデューを呼んでこなければならない。書けないという現象を、個人の脳や心だけに閉じ込めると、重要なものを取り逃がす。書き手は社会のなかで書いている。より正確にいえば、社会を内面に住まわせて書いている。

ブルデューは、文化生産を「場」のなかで捉えた。文学場、批評場、出版場、メディア場。そこには独自のルールがあり、何が価値ある表現か、何が凡庸か、何が正統で何が野暮かをめぐる闘争がある。書き手は、この場のなかで文化資本を蓄積する。よい本を読み、よい文章を知り、理論を学び、趣味判断を鍛える。これは本来、武器である。だが武器は、しばしば持ち主を傷つける。

文化資本を持つ者ほど、最初の一行が拙いことを知ってしまう。凡庸な比喩の匂いが分かる。借り物の論理が分かる。流行語に逃げた瞬間が分かる。自分の文章の貧しさを、自分で誰よりも早く嗅ぎ当ててしまう。これが厄介なのだ。無知なら書けることがある。知っているから書けないことがある。教養は翼である。しかし同時に、黄金の足枷でもある。

象徴資本の問題もある。過去に評価された書き手ほど、新しい文章を書くことは危険な賭けになる。何も持っていない人間は、失うものも少ない。だが、一度「書ける人」と見なされた人間は、次に書く文章でその評価を落とすかもしれない。沈黙していれば、少なくとも過去の評価は傷つかない。苦悩しているふりをしていれば、むしろ深みがあるように見える場合すらある。恐ろしいことに、書かないことは、象徴資本を保護するためには一見合理的なのだ。

ここに書けない病の社会学がある。書き手は、自分の部屋で一人きりだと思っている。だが実際には、部屋には文学場がいる。批評家がいる。編集者がいる。同業者がいる。SNSの匿名の読者がいる。彼らは全員、内面化された審判員としてこちらを見ている。しかも、彼らの多くは実在しない。実在しないからこそ、いくらでも冷酷になれる。

書けないとは、社会が内面でうるさくなりすぎることである。

怠惰という恐ろしい真実から逃げるな。

しかし、ここで話を高尚にしすぎてはいけない。書けない病を、実存だの差延だの文化資本だのと言って飾り立てることは簡単である。すると、いかにも自分が苦悩する芸術家であるような顔ができる。だが、そんな顔をしているとき、人間はたいてい少し嘘をついている。

人間は怠惰である。これは恐ろしいが、かなり確かな命題である。われわれは書くより寝たい。考えるより動画を見たい。難しい本を読むより、誰かの炎上を眺めたい。自分の凡庸さに向き合うより、机を片づけたい。しかもその机の片づけは、なぜか締め切り前だけ異様に熱心になる。人間の精神は、まったく油断ならない。

ただし、怠惰を道徳的に叱ってもあまり意味がない。怠惰とは、しばしば不快な自己認識から逃げるための技術だからである。書くと、自分の考えが足りないことが分かる。書くと、自分の言葉が貧しいことが分かる。書くと、自分が過去の自分を超えられていないことが分かる。その痛みを避けるために、人は逃げる。逃げながら、逃げていることを認めたくないから「準備している」と言う。

資料収集は、その最も上品な逃避である。資料を集めること自体は必要だ。もちろん必要だ。だが、資料はしばしば麻薬になる。もう一本論文を読む。もう一冊本を確認する。もう一つ事例を探す。そうしているあいだ、自分は書かなくてよい。しかも罪悪感が薄い。なぜなら、怠けているのではなく勉強しているように見えるからである。これは実に知的な堕落である。安吾なら、たぶん笑うだろう。人間は、堕落するときにも教養を使うのだ。

だから必要なのは、怠惰を憎むことではない。怠惰を見破ることである。自分はいま休んでいるのか。逃げているのか。準備しているのか。言い訳を製造しているのか。これを区別することは難しい。だが、この区別を怠ると、書けない病はたちまち美談になる。美談になった病ほど治りにくいものはない。

書けない作家たち。病の形式は、それぞれ違う。

文学史は、書けた人々の歴史であると同時に、書けなかった人々の歴史でもある。残った作品だけを見ると、彼らは当然のように書いたように見える。しかし日記や書簡や逸話を覗くと、そこには白紙と締め切りに追われ、身体を削り、時に滑稽なほど醜態をさらす人間がいる。

フローベールは、「正しい一語」を求めた。le mot juste。いかにも美しい言葉である。だが、美しい言葉はしばしば地獄の扉でもある。唯一の言葉を求めるということは、それ以外のすべての言葉を許さないということである。類義語に逃げない。手垢のついた表現を許さない。俗な定型を憎む。その態度は『ボヴァリー夫人』の冷酷な強度を生んだが、同時に、一週間に一ページというような遅さも生んだ。書けなさは、ここでは美学の副作用である。

カフカの場合、書けないことはほとんど作品そのものの形式になっている。彼の日記には、書けない、進まない、何もない、という沈黙の記録がある。だが、その「何もない」は、ただの空白ではない。カフカの小説の人物たちが、城へも法へもたどり着けないように、カフカ自身もまた、完成という救済へ簡単には到達できなかった。彼にとって書けないことは、文学の外側にある失敗ではなく、文学の内側にある構造だった。

漱石は、近代日本の知識人としての重荷を肉体で受けた。胃が痛む。吐血する。それでも書く。彼にとって文章は、単なる職業ではなく、近代という化け物と一人で向き合うための戦場だった。鴎外は逆に、官僚的規律と史伝の形式によって、感情の過密を制御しようとした。自意識を語るのではなく、資料に語らせる。これもまた、書けなさへの一つの対処である。

太宰治は、書けなさを劇化した。金がない、死にたい、しかし書かなければならない。彼の手紙や逸話には、締め切り、借金、友情、甘え、脅し、文学的ポーズがぐちゃぐちゃに絡み合っている。太宰の厄介さは、そこに嘘があるからではない。嘘と本気が混ざりすぎているからである。人間は、切実に演技することができる。太宰はそれを知りすぎていた。

そして坂口安吾である。安吾の文章には、立派なものを立派なまま祀り上げることへの敵意がある。文化をありがたがる前に、人間を見ろ。形式を拝む前に、生活を見ろ。堕落を恐れる前に、堕落してなお残るものを見ろ。そういう骨太の醒め方がある。だが、安吾自身の執筆生活には、戦後の大量注文に応じるための薬物依存という危険な影がある。ヒロポンや睡眠薬に頼り、身体を酷使することは、いかに名文を生んだとしても美化してはならない。それは才能の証明ではなく、才能と市場と時代が一人の身体を食い破った記録である。

三島由紀夫は、これと対照的に規律の作家である。時間、肉体、文体、姿勢。混沌を嫌い、秩序で自分を縛る。彼にとって書くことは、精神の野放図さを美しい檻に入れる作業だった。極限状態での口述筆記の逸話は、手が止まるなら声で外部化するという、驚くべき防衛戦略にも見える。

村上春樹は、さらに別の答えを出した。早朝に起き、一定時間書き、走り、泳ぎ、眠る。その反復によって、自分を深い精神状態へ導く。ここには、苦悩を美化しない強さがある。小説を書くことは無意識の暗い井戸へ降りることだが、降りたきりではいけない。帰ってこなければならない。だから肉体を鍛える。これは、書けない病に対する最も健康的で、しかし最も過酷な処方の一つである。

柄谷行人や東浩紀のような批評家を考えると、書けなさはさらに別の形を取る。批評家にとって書けないとは、単に原稿が進まないことではない。自分が属している言説の場そのものが、もう同じやり方では書かせてくれない、という局面がある。沈黙は転回の前触れであり、書くことから話すことへ、文学から制度へ、テクストから場の設計へと移ることもある。つまり、書けなさは、ひとつのメディア形式から別の形式へ移る痛みでもある。

締め切りという野蛮な産婆。

さて、ここまで書けない病の原因をいろいろ見てきたが、ではなぜ、最後には書けることがあるのか。いや、書けるというより、書かされるのか。答えは簡単で、締め切りが来るからである。

締め切りは嫌なものだ。書き手の精神を削る。睡眠を奪う。胃を悪くする。人間関係を険悪にする。締め切りのない世界に行きたいと、誰もが一度は思う。だが、締め切りのない世界は、本当に天国だろうか。おそらく違う。締め切りのない白紙は、無限の可能性という名の監獄である。いつまでも完璧な作品を夢見ていられる。いつまでも調べていられる。いつまでも構想を練っていられる。そして、いつまでも何も存在しない。

締め切りは、この楽園を破壊する。野蛮に破壊する。もう名作でなくてよい。もう完璧でなくてよい。もう自分の人生を代表しなくてよい。とにかく出せ。ここで書き手は、アーレントのいう「仕事」や「活動」の高みから、「労働」の次元へ落とされる。美的耐久性をもつ作品を作るとか、公共空間に自己を開示するとか、そういう立派な話ではなくなる。生きるために手を動かす。責め苦から解放されるために文字を打つ。

これを堕落と呼ぶこともできる。だが、安吾的に言えば、人間は堕落して初めて人間の本性を露わにする。締め切り直前の書き手は、立派な作者ではない。汗をかき、目をこすり、コーヒーを飲み、意味の分からないメモを見返し、過去の自分を呪いながら、なんとか文章を押し出す動物である。だが、作品はしばしばその動物性のなかから出てくる。きれいな理念からではなく、これ以上逃げられないという地点から出てくる。

日本の文壇にあった「缶詰め」文化は、このことを露骨に制度化したものだった。作家を旅館やホテルに入れ、編集者が逃げ道を塞ぐ。現代の感覚では笑い話であり、場合によっては労働環境として相当に乱暴である。しかし認知科学的に見れば、それは外部コントロール装置である。意志に頼らない。逃避先を減らす。他者の視線を物理的に配置する。完璧主義者に「もうこれで出すしかない」と諦めさせる。なんとも野蛮で、なんとも合理的な仕組みである。

締め切りは、作品を殺す死神ではない。むしろ、頭のなかで美しく腐りかけている未完の傑作を、現実の空気にさらす産婆である。もちろん乱暴な産婆である。優しくはない。だが、ときに優しさより乱暴さのほうが、ものをこの世に出す。

書けない時間が読者にもたらすもの。

では、書けない時間は本当に必要なのか。ここで注意しなければならない。書けないことを神聖化してはいけない。長く苦しめばよい文章になるわけではない。苦痛は質を保証しない。徹夜は思想ではない。薬物やアルコールで身体を壊すことは、創作の証明ではない。ただの危険である。

だが、それでも書けない時間には意味がある。なぜなら、その時間に書き手は、自分が何を書けないのかを知るからである。何が怖いのか。何を失いたくないのか。誰に見られているつもりなのか。どの過去の評価にしがみついているのか。どんな傑作の幻影に脅えているのか。書けない時間は、書き手の欲望と恐怖を映す暗い鏡である。

読者は、完成した文章だけを読む。だが、よい文章にはしばしば、その背後にあった抵抗の痕跡が残っている。これは単に苦労話が透けるという意味ではない。言葉が安易な定型へ流れることを拒んだ跡、便利な結論へ飛びつくことを拒んだ跡、自分の見栄と怠惰を少しだけ削った跡が、文章の呼吸に残るということだ。

すらすらと出てきた文章が悪いわけではない。早く書ける人はいる。瞬発力も才能である。だが、何の抵抗もなく出てきた言葉は、しばしば既に世間に流通している言葉である。どこかで見た比喩。どこかで聞いた批判。どこかで納得した結論。書けないという停滞は、その手近な言葉を拒むことがある。拒んだ結果、何も出ないこともある。実に迷惑な話である。だが、たまに、その迷惑の奥から別の言葉が出てくる。

ここでAIの文章についても少しだけ考えたくなる。AIはたいてい、書けないという病を持たない。少なくとも、人間のようには持たない。だから速い。整っている。破綻しにくい。だが、その整い方はときどき無菌室に似ている。そこには、恥ずかしさに耐えた跡がない。自尊心を削った跡がない。言葉に裏切られ、それでももう一度言葉を置いた跡がない。人間の書く文章の価値は、今後ますます、この抵抗の痕跡の側に移っていくのではないか。

書けない病は、創造性の敵であると同時に、創造性の一部である。免疫反応のようなものだ。弱すぎれば、文章は世間の定型に感染する。強すぎれば、身体が自分自身を攻撃して何も書けなくなる。必要なのは、病を完全に消すことではなく、その熱をどう扱うかである。

結論。書くとは、不完全なまま堕ちることである。

書けないという病は、きれいな病ではない。そこには実存の不安がある。脳の防衛反応がある。文化資本の足枷がある。象徴資本を守りたい見栄がある。怠惰がある。スマホがある。部屋の掃除がある。資料収集という知的な逃避がある。つまり、人間がいる。

だから、この病を「才能ある人だけの苦悩」として飾る必要はない。むしろ逆である。書けない病が普遍的なのは、それが人間の立派さではなく、人間の弱さに根を張っているからだ。われわれは自由に怯える。評価に怯える。自分の凡庸さに怯える。未来の失敗に怯える。そして、そのくせ少しは褒められたい。代表作を書きたい。誰かに届きたい。なんとも面倒な生き物である。

それでも書く。なぜか。書かないかぎり、何もこの世に存在しないからである。頭のなかの完璧な論考は、誰も傷つけない。誰にも批判されない。だが、誰にも届かない。現実の文章は不完全である。たいてい足りない。たいてい歪む。たいてい後で直したくなる。だが、少なくとも存在する。

書くとは、不完全なまま堕ちることである。無限の可能性という高みから、有限の文章という泥の上へ落ちることである。そこには傷がつく。恥もかく。誤読もされる。だが、読者が出会えるのは、その泥の上に落ちた言葉だけである。

締め切りが迫る。まだ書けない。机の上には本があり、ブラウザにはタブがあり、胸の奥には見栄と恐怖がある。よろしい。そこから始めるしかない。白紙は空白ではない。世界で最も過密な場所である。だからこそ、まず一行だけ置く。完璧な一行ではなく、逃げ場を失った人間の一行を置く。

そこからしか、文章は始まらない。(了)

主な参考文献・参照軸

Pychyl, T. A., & Sirois, F. M. “Procrastination, Emotion Regulation, and Well-Being.” 先延ばしを短期的な気分修復として捉える議論。
Steel, P. “The Nature of Procrastination: A Meta-Analytic and Theoretical Review of Quintessential Self-Regulatory Failure.” Psychological Bulletin, 2007. 先延ばし研究の包括的整理。
Arnsten, A. F. T. “Stress Signalling Pathways that Impair Prefrontal Cortex Structure and Function.” Nature Reviews Neuroscience, 2009. ストレスが前頭前野の機能を損なう神経科学的説明。
Kierkegaard, Søren. The Concept of Anxiety. 自由の目眩としての不安。
Aristotle. Nicomachean Ethics. アクラシア、すなわち意志の弱さの古典的議論。
Heidegger, Martin. Being and Time. 不安、現存在、投企、世人の概念。
Sartre, Jean-Paul. Being and Nothingness. 自由、責任、自己欺瞞の議論。
Blanchot, Maurice. The Space of Literature. 書くことの不可能性、文学空間、無為の議論。
Derrida, Jacques. “Différance.” 意味の差異と遅延。
Bourdieu, Pierre. The Field of Cultural Production; Distinction; “The Forms of Capital.” 文化資本、象徴資本、場、ハビトゥスの理論。
Arendt, Hannah. The Human Condition. 労働・仕事・活動の三分類。
Flaubert, Gustave. Correspondence. 「正しい一語」を求める美学と遅筆の事例。
Kafka, Franz. Diaries 1910–1923. 書けなさを記録し続けた作家の日記。
坂口安吾「堕落論」「日本文化私観」「反スタイルの記」など。無頼、堕落、人間の生活から文化を見る態度の参照。
夏目漱石『漱石書簡集』ほか。近代日本の知識人と執筆・病の関係。
太宰治・三島由紀夫・村上春樹の執筆習慣、締め切り、生活規律に関する書簡・随筆・インタビュー資料。

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