■扉の先へ
薄い霧のような揺らぎが、足元から静かに立ち上っていた。
空気が変わる。
色が抜け、音が遠のき、世界がわずかに二重に見える。
“層”が重なり始める前触れだと、私の内側が告げていた。
■揺らぎの始まり
アストルがゆっくりと悠然と一歩、前へ踏み出した。
その動きは老紳士そのものの優雅さを保っているのに、
その奥に潜む“熱”だけが、異様に濃い。
礼節を纏ったまま狂っている──そんな異様な気配。
「……ああ、その震え……
どうしてそんなにも、美しいのでございましょう……ニカ様。」
私の背後で、ミリアがビクリと肩を震わせた。
ルミエラは私の袖をそっと掴む。
二人とも、声を出すことすらできない。
アストルは静かに続ける。
「恐れなくてよろしいのですよ。
ニカ様の怯えは……わたくしにとって、祝福そのものにございます。」
優しい声。
けれど、その優しさは“歪んだ愛”の形をしていた。
胸の奥がざわつく。
視界の層が揺れ、世界がわずかに歪む。
私の内側の“層”が反応しているのが分かる。
アストルは、私のその揺らぎを見逃さない。
「……ご覧になれますか……この揺らぎを。
ニカ様の内側の層が……わたくしを呼んでおります。」
■支える体温
「……ニカ姉……」
ミリアが小さく息を呑み、震える声で私の背中に額を押し当てる。
「……だめ……これ……前にも……感じた……
あの時と……同じ……」
ミリアの声は震えていた。
彼女の中にある“過去の恐怖”が疼いているのが分かる。
その震えを、アストルは恍惚とした目で見つめた。
「……美しい震えでございます……」
ルミエラはミリアの手を握り返し、
もう片方の手で私の手を包む。
その温度は、確かに“人の温度”だった。
「ニカさん……大丈夫……わたし、ここにいます……」
その声は震えているのに、まっすぐだった。
その温度が触れた瞬間、
私の内側の層の揺らぎが、ほんの少しだけ静まった。
ルミエラ自身は気づいていないが、
彼女の温度には“層を安定させる力”があるのだろう。
アストルの目が不気味に細められる。
「……ほう……その温度……実に……実に興味深い……
まるで……理の乱れを鎮めるような……
美しい……美しいですぞ!ルミエラ様!」
狂気の熱が、また一段階濃くなる。
だがその直後──
アストルの目が、一瞬だけ“正常”に戻った。
「……あぁ……申し訳ございません。
少々、取り乱してしまったようでございます。」
その一瞬の正気が、逆に恐ろしい。
まるで“壊れた部分”が一瞬だけ表面に浮かび上がったようだった。
ミリアは私の背中にしがみつき、
震えながらも必死に言葉を絞り出す。
「……怖い……でも……ニカ姉となら……きっと大丈夫って……
わたし……信じてるから……」
ルミエラも続く。
「ニカさん……呼吸を、ゆっくり……
大丈夫……わたしも、ミリアさんも……一緒です……」
二人の温度が、私の揺らぎを少しだけ整えていく。
その温度がなければ、私は立っていられなかったかもしれない。
アストルはその様子を、恍惚とした表情で見つめていた。
「ニカ様が……その御足で一歩を踏み出される瞬間を……
わたくしは……
永きにわたり、胸の奥で温め続けておりました。
幾度も、幾度も……夢に見て。
どうか……どうか、このアストルの願いを叶えてくださいませ。」
その言葉は優しい。
けれど、それは優しさの皮を被った“執着の狂気”だった。
その瞬間──
世界が、静かに“ほどけた”。
■入口の理
空気が薄くなり、胸の奥がふっと軽くなる。
色がゆっくりと抜け落ち、
音が遠くへ流されていくように静かに消えていく。
視界の輪郭がゆらりと揺らぎ、
世界が二重に重なって見えた。
私の内側の層が、
まるで呼応するように震え、熱を帯びる。
そこに──
“入口の理”が現れた。
アストルが深く、深く頭を下げる。
「さあ……
“入口の理”は、ニカ様を歓迎しております。
どうぞ……ニカ様!……さぁ、どうぞお進みくださいませ。」
ミリアとルミエラの手の温度が、
私の背中をそっと支える。
私を取り戻そうと、ゆっくり息を吸う。
私は、その一歩を踏み出した。
■孤独の果て
私が足を踏み入れた瞬間、世界が“閉じた”。
そう。私だけが踏み入れた。
だけど、ルミエラとミリアは、その場から進めなかった……
背後の空気が、音もなく無情にも塞がる。
ミリアとルミエラの温度が、ふっと遠ざかった。
「……ニカ姉……?」
ミリアの声が、薄い膜の向こう側に押し込められたように聞こえる。
振り返る。
二人は確かにそこにいる。
けれど、距離が違う。
空気の層が一枚、厚く薄くしっかりと挟まっている。
ルミエラが手を伸ばす。
その指先は、私の肩に触れるはずだった。
──触れない。
指先が、透明な壁に阻まれたように止まる。
「……え……?」
ルミエラの瞳が揺れる。
ミリアは必死に壁を叩く。
「ニカ姉! ニカ姉!! なんで……なんで触れないの……!」
アストルだけが、静かに微笑んでいた。
「ご安心を。
お二人は“外側”におります。
ニカ様は……“内側”へ進まれた。」
その声は、誇らしげですらあった。
■内なる世界へ……
私は壁に手を当てる。
その壁は、何ものをも受け付けないように冷たい。
けれど、ミリアの手の温もりが、かすかに伝わってくる。
「……ニカ姉……怖い……戻ってきて……」
ミリアの声が震える。
私は首を振る。
「大丈夫。私は……ここにいる。」
けれど、声は届いていないようだった。
アストルが静かに歩み寄る。
「ニカ様。
ここから先は……“お一人”でございます。」
その言葉に、背筋が冷たくなる。
「なぜ……?」
私が問うと、アストルは微笑んだ。
「理由など……決まっております。」
その目が、狂気の色で満ちる。
その口は、狂気を写して非情に歪む。
「ニカ様の“内側の層”は……
他者の温度を必要としないからでございます。」
私の胸の奥が、ひどく熱くなる。
まるで、内側から何かが“目覚めよう”としているように。
アストルは恍惚とした声で、自分の愉悦を吐露するように続ける。
「ようやく……ようやくでございます……
ニカ様が“本来の層”へ触れられる日を……
わたくしは……どれほど……どれほど待ち望んだことか……」
世界がゆらりと揺れる。
視界がぐらりと波打つ。
色がぐるりと反転し、音が一気に裏返る。
私の内側の層が、
アストルの言葉に反応して震えた。
「……やめて……」
私は胸を押さえる。
アストルは歪んだ表情のまま、首を傾げる。
「やめる……?
何をでございます?」
「私の……内側に……触れようと……しないで」
私は静かに、だけど熱を込めて反発する意志を宿す。
アストルは歪んだ微笑みを見せる。
その笑みは、優しさの形をした狂気だった。
「ふっ……ふっふっふ……
触れようとしているのではございません。
ニカ様の内側が……“開こうとしている”のでございます。」
世界が、また揺れた。
ミリアが壁越しに叫ぶ。
「ニカ姉!! 戻ってきて!!
そんなとこ行かないで!!」
ルミエラも必死に壁を叩く。
「ニカさん!! ダメです!! 戻って!!」
二人の声が、ゆっくりと静かに遠ざかる。
アストルの声だけが、鮮明に響く。
「さあ……ニカ様。
“内側の層”へ……お戻りくださいませ。」
私は息を吸う。
胸の奥が痛むほどに熱い。
世界はまた歪んでいく。
そして──
私は、内側へ沈んだ。
静かに閉じた扉の向こうで、
何が目覚めるのかは、まだ誰にも分かりません。
次の層でお会いしましょう。