0
0

Delete article

Deleted articles cannot be recovered.

Draft of this article would be also deleted.

Are you sure you want to delete this article?

灰色の海に、ぽつんと一つ

大きな組織の中でアジャイルをやろうとするのは、海に浮かぶ小さな島で暮らすのに似ている。

自分たちのチームは、船で言えば甲板の上まで手入れが行き届いている。デイリーで声をかけ合い、レトロで本音を出し、スプリントごとに少しずつ航海術がうまくなっていく。ところが視線を上げて水平線を見ると、そこにあるのは同じように孤立したいくつもの島だ。別ラインの開発チーム、品質を守る部門、事業を企画する人たち。どの島にも灯りは点っているのに、島と島のあいだには、渡る手立てのない灰色の海が横たわっている。

「オープンに協働しよう」。アジャイルの教科書はそう言う。言うのは簡単だ。実際にやろうとすると、こちらの声は波にさらわれて向こうに届かず、向こうの事情もこちらからは見えない。何度か手を振って、返事がないことに慣れて、やがて手を下ろす。あの無力感を、たぶんあなたも知っている。

この記事は、その海をどう渡るかの話だ。壁を壊す話ではない。壁は、たぶん壊せない。壊せないものを壊そうとするから、心が折れる。壊すのではなく、航路を引く。島を一つずつ、細い線でつないでいく。今日から、自分の島の桟橋から始められることだけを書く。

「どこへ向かっているのか」という声

航路の話をする前に、島の中の話を一つだけ。

いくつかのプロジェクトにスクラムマスターとして関わってきて、繰り返し出くわす症状がある。手元のタスクはちゃんと進んでいる。バーンダウンも右肩下がりで、数字だけ見れば健康だ。なのに、ある日ふと、メンバーの声にこういう色が混じる。「目の前のことは進んでるんですけど……僕たち、どこに向かってるんでしたっけ」。

これは危険信号だ。事業ビジョンやプロダクトビジョンという、いちばん根っこの情報が、チームの隅々まで行き渡っていないときに出る症状だと思っている。ビジョンは一度発表して壁に貼って終わり、ではない。本当は、日々のプランニングやレトロ、バックログの優先順位づけ、そのすべての意思決定を照らす北極星であるべきものだ。

北極星が見えていないと、どうなるか。メンバーは、渡された海図の座標へ黙って舵を切るだけの水夫になる。「なぜこの島を目指すのか」を知らないまま櫂を漕ぐ。アジャイル本来の強みである自律的な提案も、状況に合わせて舵を切り直す柔軟さも、そこからは生まれない。北極星があるからこそ、途中の進路変更が「迷走」ではなく「前進のための修正」になる。軸がブレないから、変化に適応できる。順番が逆なのだ。

だから、島の中でまずやるべきは、「なぜこの海を渡るのか」「自分たちのプロダクトはどうありたいのか」を、しつこいくらい繰り返し語り、対話し続けること。うんざりされるくらいでちょうどいい。それがスクラムマスターやプロダクトオーナー、リーダー層のいちばん地味で、いちばん効く仕事だと、最近あらためて思い知らされた。

さて。島の中に北極星が灯った。ここからが本題だ。その灯りを、どうやって隣の島まで届けるか。

全部の島を、一度には照らせない

海を渡ろうとして最初に犯すのは、たいてい「全体を一気に変えよう」とする失敗だ。組織図の頂点から号令をかければ、すべての島が同時に開かれる。そう夢見たくなる。無理だ。一つのチームで巨大な組織構造を直接動かすのは、素手で潮の流れを変えようとするようなもので、疲れ果てるだけで海は一ミリも動かない。

コントロールできるのは、自分の島の桟橋までだ。だったら、そこから始めればいい。自分たちが手を伸ばせる範囲、影響の届く範囲から、じわじわと境界を広げていく。石を一つ、水面に落とす。生まれた波紋が、隣の島の岸を静かに叩く。その繰り返しでしか、海は狭くならない。

以下は、その桟橋から打てる四つの手だ。順番に効かせる必要はない。あなたの島から見て、いちばん近い島に効きそうなものから始めればいい。

一つ目 ―― 自分の島に、灯台を建てる

海を渡る第一歩は、船を出すことではない。まず、自分の島をこれ以上ないほど明るく照らすことだ。

相手から情報が来ないと嘆く前に、こちらから全部を開いてしまう。スプリントレビューのデモ会を「見学自由」にして、隣のチームや関係部署に招待を投げ続ける。開発の進捗だけでなく、自分たちが目指すビジョンも、いま直面してうまくいっていない課題も、誰でも覗ける場所に置き出す。うまくいっている話だけを飾るのではなく、詰まっているところまで見せるのがコツだ。

何をやっているか分からない島は、警戒される。灯りが点いているのか消えているのかも分からない島には、誰も船を向けない。逆に、暗い海の中で煌々と灯台を灯し、しかも「うちはいま、この暗礁で難儀しています」と正直に光らせている島には、不思議と人が関心を寄せる。助けたくなる。灯台は、来てくれと叫ぶための設備ではない。ここに島がある、と黙って知らせ続けるための設備だ。

二つ目 ―― 橋を架ける前に、対岸の地面を知る

ここで、私自身のいちばん恥ずかしい失敗を書いておく。

灯台を建てた勢いのまま、私は隣の島へ船を出した。そして、やってはいけないことをやった。正論をぶつけたのだ。「もっとアジャイルにやりましょう」「情報はオープンにすべきです」。自分たちのやり方の正しさを、そのまま持ち込んで布教しようとした。

結果は、みごとに逆効果だった。相手の島の岸は、前より高く、硬くなった。当たり前だ。向こうには向こうの地面がある。守るべき規律があり、評価される基準があり、達成しないといけないKPIがある。サイロに立てこもっている部門は、悪意で壁を作っているわけではない。彼らなりの理由で、その壁が必要なのだ。それを無視して「あなたの土地の作り方は間違っている」と乗り込めば、跳ね返されるに決まっている。腹の底で、少しだけ、ぞっとした。良かれと思った一手が、海を広げていた。

そこから、やり方を変えた。橋を架ける前に、対岸の地面を知る。「なぜ協力してくれないのか」と責めるのをやめて、「この人たちは何を恐れ、何を成し遂げたいのか」を先に理解する。入り口は、業務の依頼でも交渉でもない。「最近、そちらのチームどうですか」という、なんでもない雑談だ。信頼という橋げたは、用件のない会話の中でしか固まらない。急がば、遠回りして地面を踏み固めろ。橋は、それからだ。

三つ目 ―― 対岸に、たった一人の灯りを見つける

組織全体を一度に開く必要はない。むしろ、そう考えるのをやめた瞬間に、道が見える。

隣の島の住人、全員を仲間にしなくていい。たった一人でいい。同じ問題意識を持っている他チームのスクラムマスター、話の通じるエンジニア、こっそり熱を持っている企画担当。対岸のどこか一つの窓に灯りを見つけて、そこにだけ細い一本の航路を通す。一人見つかれば、その島にはもう風穴が空いている。

草の根の勉強会でもいい。社内にアジャイルの小さなコミュニティを立ち上げる、あるいは既にあるものに顔を出す。所属の島をまたいで横につながった線は、組織図には載らない。載らないが、いざというとき、公式のルートよりずっと速く物を運ぶ。海賊の抜け道みたいなものだ。表の航路が塞がっても、そこだけは通じている。

四つ目 ―― 言葉ではなく、積荷で証明する

「アジャイルは大事だ」「ビジョン共有こそ肝要だ」。正論で説き伏せようとすると、二つ目の失敗に逆戻りする。人を動かすのは、演説ではなく、届いた積荷だ。

相手の島がボトルネックだと感じている小さな困りごとを、こちらのスキルで一つ、そっと片づけてみせる。大手柄でなくていい。むしろ小さいほどいい。「あのチームと組むと、話が早い。なぜか成果が出る」。そういう評判が、港から港へ、荷を運ぶ船に乗って広がっていく。正しさは説得だが、成果は証明だ。証明された島には、次から向こうのほうから船が来る。

波紋は、思ったより遠くまで届く

四つの手を、焦らず順に打っていった先で、何が起きたか。

劇的な組織改革は、起きなかった。号令一下で壁が崩れる、みたいなことは一度もない。起きたのは、もっと地味で、もっと確かなことだ。灯台の光に気づいた対岸の一人が、ある日デモ会にそっと現れた。雑談で地面を知った相手が、こちらの困りごとを先回りで拾ってくれるようになった。小さな積荷を届けた港から、「あの島と組みたい」という声が、また別の港へ伝わっていった。

石は一つしか落としていない。なのに波紋は、自分の島から見えないところまで広がっていた。組織を変えたのではない。影響を与えただけだ。この二つは、似ているようでまったく違う。前者は不可能で、後者は今日からできる。

そして分かったことがある。生き生きと協働して成果を上げている島の姿そのものが、灰色の海に疲れた他の島にとっての、希望のモデルケースになる。「ああやってもいいのか」。その一言が、次の島の桟橋で誰かに櫂を握らせる。人はコストではなく資本だ、というこのチームの信念は、実は自分の島の中だけの話ではなかった。隣の島の一人に灯りを見つけ、その人の成長に少し投資する。返ってくるものは、複利で、しかも海を越えてくる。

北極星さえブレなければ、進路はいくらでも引き直せる。壁は壊せない。けれど、海には、いくらでも航路が引ける。焦らず、一本ずつ。あなたの島の桟橋から。

追伸 ―― 「いれて」の三文字

この前の休みに、上の子を公園に連れていった。もうすぐ四歳になる息子だ。

砂場では、知らない子どもたちが三人、もう立派な国を築いていた。トンネルを掘り、山を盛り、水路まで引いている。うちの子は、少し離れたところから、それをじっと見ていた。混ざりたいのは、背中を見れば分かる。でも、あいだには見えない海があった。近づいては、止まる。それを何度か繰り返していた。

私は口を出さなかった。出したくてうずうずしたが、こらえた。しばらくして、息子が、砂場の縁で見つけた小さなスコップを一つ、無言でその子たちのほうへ差し出した。言葉より先に、積荷だ。相手の子が受け取って、それから、こう言った。「いっしょにやる?」。「いれて」と叫ぶより、スコップ一本のほうが早かった。

帰り道、抱っこの中で早々に寝落ちした息子の重みを感じながら、思った。大の大人が組織論と呼んで難しがっているものの正体は、たぶん、砂場のあれと大して変わらない。壁の向こうへ渡る方法を、四歳はもう知っている。私はそれを、ずいぶん長い遠回りをして、思い出しているだけなのかもしれない。

0
0
0

Register as a new user and use Qiita more conveniently

  1. You get articles that match your needs
  2. You can efficiently read back useful information
  3. You can use dark theme
What you can do with signing up
0
0

Delete article

Deleted articles cannot be recovered.

Draft of this article would be also deleted.

Are you sure you want to delete this article?