8. いまは遠くとも 1920(2)
ー/ー翌朝、エレノアはミセス・オマリーに指定された靴屋を訪った。
「ごめんください」
エレノアが戸を開け、声を掛けるが反応がない。怪訝に思いつつも奥に入っていくと、椅子に腰掛けた初老の店主が、睨みつけるように手元の靴に向かっていた。彼はエレノアに一瞥もくれず、小さく「いらっしゃい」とだけ言って、作業を続けた。
「あの……」 その様子にやや気負いながらも、エレノアは要件を伝える。「できる限りしっかりした革靴を、ください。山を歩けるような」
「……予算は」 店主は、なお手を止めない。
「三ポンド、です」
それは、フィッツジェラルドから渡された”寸志”のすべてであり、およそエレノアの月収──家賃に日々の細々を引けばそう余裕があるとは言えない──の半月分にあたる。
己の能力で勝ち得た、一種の誇りであるそれをすべて投じることを厭わず、エレノアは提示した。
「……そんなに要らんぞ、嬢ちゃん」 店主は、そこで初めてエレノアの方を向き、ちらと彼女の足元を見た。「うちで一番上等な、牛革の編み上げでも一ポンドだ」
「あ、そうですか……。では、それをください」
エレノアは安心したような拍子抜けしたような声で注文を通す。
それを聞いて店主はやおら立ち上がり、棚の奥から、見るからに存在感のあるブーツを取り出した。
「これだ。こいつなら、滅多なことで悲鳴をあげたりせん。手入れさえ怠らなければ、嬢ちゃんの子供くらいでも使えるだろう。履いてみな、サイズは合うはずだ」
言われて、エレノアが備え付けの椅子に腰掛ける。
その艶やかな飴色のブーツに足を通せば、それは誂えたごとくに足に吸い付く。そして太い革紐を締め、立ち上がって数歩歩いてみれば、まるで新たな骨格を得たように爪先から踵までが一体である心地だった。
「……すごい、ぴったりです。これをいただきます」
エレノアは持っていた封筒から真新しい一ポンド紙幣を取り出して言った。
「まいど」 店主は紙幣を受け取る。「じっくり履いていくといい」
「はい、ありがとうございました」
エレノアは踵を返し、靴屋を後にする。
石畳を歩けば、かつん、かつんと硬質な音が鳴る。自分の新たな足が地面をしかと蹴っている。これなら歩いてどこまでも行ける──そんな高揚感とともに、エレノアはストルール川を渡り、スペリン山脈へと歩き出した。
***
エレノアの気分は沈んでいた。
スペリン山脈は確かに、見えている──遥か遠くに。彼女がいるのは、オーマからおよそ五マイルの地点、つまりゴーティンまでの道半ば、ちょうど何もない地点。低木に背を預けて、エレノアは座り込んでいた。
(馬鹿みたいだ……私。いや、馬鹿か……)
冷たく湿った風が通り抜けるなか、エレノアは自らの足元を睨みつけた。輝いていた飴色のブーツは、泥をまとってくすんでいる。
「痛っつ……」
革紐を緩めようかと少し動かすだけで、熱を持った踵から痛みが走る。中がどんなことになっているか、想像に難くはない。痛みゆえに脱ぐのを留まらざるをえないのか、自身の敗北の証としての踵を見るのが怖いのか、エレノア自身にさえ分からなかった。
初めのニマイル弱までは、前途洋々と言えた。新しく得た骨格はぬかるんだ街道などものともせず、足を軽やかに運ばせた。
しかし、そこからしばらくして、軍靴のごとく「ちゃんとした」靴は、エレノアに牙を剥き出した。それは頑強で、吸い付くように足を包み込む──ゆえにこそ、それはエレノアの柔らかな踵をやすりのように削っていくのだった。
三マイルを過ぎた頃、踵は熱を持ち出した。それでも、エレノアは歩みを止めることはなかった。
──シヴォーンは十マイル歩くのだ。
──この程度で音を上げて、何が「知りたい」だ。
その意地だけで、一歩、また一歩とエレノアは荒寥こうりょうとした泥道を踏みしめていった。
そしておよそ五マイル──オーマからもゴーティンからも最も遠いその辺りで、エレノアの踵はついに限界を迎えた。なだらかに角度が付き出した道で、踵のより柔らかな部分が、新旧の骨格に挟まれて鋭い痛みを放ち始めたのだ。それゆえ、意志の固さに反して、エレノアは耐えきれず座り込むことになったのだった。
(考えたら、分かったはずなのに。気持ちばかり逸って)
休み休みで行き、なお届かないようならそれはそれでいい。それでも想像でなく身を以て知ることができるのだから──と、エレノアは思っていた。
ところが現実は、逸る気持ちに浮かされ、見えなくなった足元からエレノアを引きずり下ろした。体力の問題ではなく、考えるべきを考えなかったゆえの失敗であることが、彼女にとっての痛打であった。
(私は馬鹿だ。……どうしよう、帰れない)
行くも戻るも果てしなく、エレノアは項垂れて、巡る自虐に沈むばかりだった。
*
「もし、そこの方」 どれほどそうしていたか、声を掛けられてエレノアが顔を上げると、そこには恰幅のいい中年の男が立っていた。「どこか……痛むのかね」
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