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第8回 奏でること

✑ 北村匡平

温もりに触れる

  温もりに触れたとき
  わたしは冷たくて
  優しさに触れたとき
  わたしは小さくて
    (「優しさ」)

 藤井風の音楽を聴くと、歌声が心の奥底まで滲み入ってくるような感覚がある。とりわけ、彼がミッドレンジ(中音域)でささやくように優しく歌うとき、その言葉を抱きしめるような声が鼓膜を突き抜け、体のすみずみまで響き渡ってゆく。
 「優しさ」の美しいピアノ・イントロが流れる。シンプルだが、単純ではない。短い序奏のなかに深みのあるハーモニーが息づく。短いピアノのイントロが終わると、すぐにサビのメロディへ。倍音の効いた心地よい風の歌声がもっとも映えるのは、「優しさ」や「特にない」のように、シンプルなピアノの演奏と軽やかなドラムのビートから構成されるサウンドだろう。
 「優しさ」のサビが終わると、ただちにAメロに移る──〈温もりに触れたとき/わたしは冷たくて〉。これほど言葉と歌唱が共鳴しあう楽曲を、私はほとんど聴いたことがない。とりわけ〈冷たくて〉の音像の気持ちよさは、類例が見当たらないほどだ。藤井風の歌唱を通して、本当の優しさと温もりに触れ直す。そんな心地になる。
 あるリスナーは、この声の「温もり」を前にして、自分がどれほど傷ついていたのか、心がどれほど冷え切ってしまっていたかに気付かされる。別のリスナーは、彼の「優しさ」のバイブスを前に、どれほど自分の振る舞いが他者を傷つけてきたのか、あるいは自らの小ささを思い知らされるかもしれない。そうした「気づき」を呼び起こす点で、超越的な力さえ感じられる(1)。
 この圧倒的な優しさと温もり、神聖ですらある歌の力は、とりわけライブで倍増するのだが、その話は別の機会に譲ろう。どうしてこんなにも穏やかで優しい歌い方ができるのか。どうしてこれほど豊かに感情を言葉に載せることができるのだろう。なぜ藤井風の歌声は、ここまでリスナーの情動を揺さぶり、体の内側へと生々しく響いてくるのだろうか。ここでは彼の歌唱と演奏にフォーカスし、その輪郭をとらえていきたい。
 藤井風は、椎名林檎やAdoのごとく声色を技巧的に変化させ、いくつものエフェクターを自在に切り替えるように歌うタイプのシンガーでは決してない。だが、彼の歌唱には、人としての生々しさを伝える独特な歌い方や、作品を超えて反復される、音符には還元できない豊かな音が潜んでいる。そしてそれは、彼が奏でるピアノの演奏と掛け合わされることで、これ以上ないほどの情感が、音から溢れ出てくるのだ。

鍵盤と歌のグルーヴ

 「特にない」のイントロは、静かなピアノの音色で始まる。わずかなリズムのタメ、コードを弾くときの微細なタッチのズレ。たった8小節の演奏でありながら、緩急のついた音が立ち上がり、藤井風のソウルがそこに宿っていることがわかる。
 「死ぬのがいいわ」の繊細なピアノのイントロはどうだろう。規則的な旋律のようでいて、絶妙な間合いと呼吸で奏でられ、天へ導かれるかのような崇高さが胸に迫ってくる。「風よ」のジャジーなピアノのイントロや、「やば。」のエレピが奏でるエモーショナルな導入をあげてもいい。演奏者の情感が、しっかりと音に載ってリスナーに届く。
 ロックやパンクが隆盛した時代から、DTM(デスクトップミュージック)やEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)など打ち込みが当たり前の時代へ。いつの間にか、かつて音楽に溢れていた「身体の生々しさ」から遠ざかってきた。
 無論、音響技術が飛躍的に高まり、人間には不可能なリズムや、機械的反復がもたらす規則的な快楽が、打ち込みによって生まれたのも事実だ。だがその一方で、生身の人間の放つ音が、J-POPの表舞台から久しく遠ざかっているのもまた確かだろう。藤井風の演奏は、忘れ去られつつある音楽の生々しさを、これ以上ないほど鮮やかに思い出させてくれる。そこには、人間だからこそ可能な温もりと優しさが詰まっている。
 それは演奏にとどまらない。藤井風の歌唱にもまた、音の豊穣さがいたるところに見出される。たとえば「優しさ」なら、サビの部分で、ピアノの演奏と同じく、音符では表しきれないほど微妙にテンポを遅らせたり早めたり、音を切ったり伸ばしたりする。この歌唱の揺れ動き──いわば不規則性(ランダムネス)が、藤井風の音楽を彩っていることは間違いない。
 
 演奏を評する言葉に「グルーヴ感がある」というものがある。だが、それは簡単に説明できるものではない。たとえば、演奏者が一人であるとして、グルーヴィーなドラムを叩ける人もいれば、どこかドタドタしてしまう人もいる。それがバンドの演奏になると、一人がグルーヴしていても、他のメンバーがそれを共有できていなければ、うねりは生じない。だからバンドは、何度もみんなでスタジオに入り、グルーヴが立ち上がるポイントを探ってゆく。
 ただし、演奏者全員がメトロノームのリズムにぴったり合わせればグルーヴが出る、というものではない。打ち込みでサウンドを作ったことのある者ならわかるだろうが、演奏を譜面と完全に一致させても、平板なまま終わることがある。むしろ、生身の演奏のように各楽器のタイミングをほんのわずかずらすことで、急にグルーヴが立ち上がることすらある。同じ身体感覚のズレやアクセントを共有する、ドラムが前ノリでベースが少し後ろに座る、といった役割分担が噛み合う──「正解」は無数にある。音楽における「グルーヴ」は、それくらい奥深いテーマだといっていい。
 
 藤井風は3歳からピアノを毎日弾き続け、12歳でその演奏をYouTubeに投稿し始めた。私たちには気の遠くなるような時間を、日々の練習に注ぎ続けてきた。音響設備が整っているわけでもない小さな自室から、特別に高級でもない普通の楽器を使って、弾き語りを重ねてきた。幼い頃から世界へ向けて発信してきたこの岡山のミュージシャンにとって、鍵盤楽器と歌だけでいかにグルーヴを立ち上げるかは、長年の課題だったはずだ。
 曲によって違いはあるが、彼の左手はまるでドラムのように強い打鍵でビートを刻む。「弾く」というより「叩く」と言ったほうが正確なくらいだ。右手は、この上なく感情豊かに、心に届くメロディを奏でる。そこに、包み込むようなあの歌声が重なる。
 時に繊細で優しく、時に意志的で強く、そして時に打楽器のように音を切ったり弾ませたりする──多彩な歌唱で彼は独自のグルーヴを追求してきた。歌それ自体もまた楽器のように、ブラック・ミュージックの横ノリのグルーヴを生み出す。その極地は「何なんw」だろう。
 「特にない」や「優しさ」は、抑制された規則的なドラム・ビートが曲を支え、規則性を揺るがす藤井風の演奏と歌唱がそこに重なり合う。だからこそ、心地よいグルーヴと生々しい身体性が同時に立ち上がるのだ。けれども、風から伝わってくる人間味溢れる音は、それだけでは説明し切れない。

風の豊潤な音たち

 再び、「特にない」の歌唱に着目してみよう。この曲はきわめてシンプルで、藤井風の音楽のなかでもミニマリズムを志向しているといっていい。だが、メロディはシンプルでも、細かなニュアンスとして多彩な音が仕込まれている。
 
  特にない
  望みなど
  わたし期待せずに歩く・・
         (傍点、引用者)

 出だしの「ない」は、素直に歌われる。だが、〈望みなどない〉の「な」と〈わたし期待せずに歩く〉の「あ」と「く」では、音程を上下に揺らす。といっても、伸ばした音を周期的に揺らすビブラートではない。むしろ藤井風はビブラートをあまり使わず、伸ばす音は真っ直ぐに伸ばす傾向がある。
 ビブラートではなく、微細なピッチのうねりを歌唱に加える「ピッチベンド」というテクニック。彼は実に多くの楽曲でこれを組み込んでいる。続く〈特にない/願いなどない/わたし身を任してる〉では、〈願いなどない〉の「な」以外は控えめになるが、次のパートではピッチベンドがより強くかけられる。

  見返
  求めるか
  いつも傷付いて

 最初の「り」も次の「ら」も、最後の「お」と「る」にも、きつく音を曲げて表情を加える。これは「特にない」だけの特殊例ではない。「死ぬのがいいわ」では、〈死ぬのがいいわ〉が2回繰り返されるたび、2回目の「わ」でピッチベンドが効く。「帰ろう」でも、〈5時の鐘は鳴り響けども聴こえない〉の「も」、サビの〈やさしく降る雨と帰ろう〉の「ろ」、〈わたし わたしが先に忘れよう〉の「き」。2番になると、ピッチのうねりはさらに多彩さを増していく。例を挙げれば枚挙にいとまがない。
 この技術がもっとも豊かな音像を形づくっているのは、英語曲「Prema」だろう。ノイズが混じるアナログ感が、温かみのあるサウンドを生むイントロ。90年代のヒップホップをベースに、ジャズやR&Bの要素も多分に含む「Prema」では、伸ばした音の終わりで音程を落として着地するフォールなどのテクニックも織り込みながら、ピッチベンドによって細密なニュアンスが歌唱に与えられている。ワンフレーズが終わるたび、ピッチのうねりが加えられ、同じ着地は一つとしてない。

  Prema, don't you know that you are love itself?
  You are love itself
  Prema, can't you see that you are god itself?
  You are god itself

 サビの〈Prema〉の伸ばしに含まれる微細な揺れ、〈You are love itself〉の1回目は軽く、2回目はフェイクのようにも感じられる長いピッチベンド。続いてAメロに入ると、変化はいっそう増していく。

  Huh, follow my tender heart and I'll win
  No matter what pain I am in
  With all your blessings I'll arise
  Open up my third eye

 Aメロ〈I don’t lie/I don’t hide〉の「ai」の発音にもこのテクニックが忍び込み、転調してBメロへ向かうところでは〈tender〉や〈blessings〉で細かく音がうねる。このアプローチで歌わなければ、「Prema」はまったく別の歌になっていただろう。音に絶妙な表情を加えるヴォーカル・コントロールは見事というほかない。楽譜にすれば視覚上では一つの音符にすぎない箇所にも、聴覚的には「一つ」を超える音が幾重にも折り畳まれている。リスナーは、藤井風の放つ歌から豊潤な音を浴び続けているのだ。

 ピッチベンドもさることながら、藤井風の楽曲にはフェイクがきわめて多い。R&Bなどで多用されるフェイクは、メロディの骨格を保ちながら、音を細分化して「ah」「uh」「oh」などの発声で即興的に装飾する歌唱法のことだ。「まつり」終盤のように、主旋律に重ね合わせられ、音の厚みをもたらすフェイクもあれば、「何なんw」のようにグルーヴを与え、リスナーに心地よく響かせるフェイクもある。「特にない」のように、通常のフェイクほど細分化せず、伸ばしの中で表情を変えるやり方もあれば、「やば。」のように、かなりの時間にわたって、エモーショナルなフェイクを加えやり方もある。
 藤井風にとってフェイクは、曲に彩りを添えるだけの「飾り」ではない。「特にない」や「青春病」、「やば。」におけるフェイクは、単なるテクニックを超え、聴取者にそれ以上の感情を喚起する。そもそもフェイクには、言葉の意味が突如として消失する作用がある。
 彼自身もインタビューで「音楽的にここには言葉は乗らないなっていう時に♪ah~に頼ることも多いです」と語り、「特にない」のフェイクは、「渇き」と「願い」と「祈り」が混ざったような感情で歌っているという(2)。言葉にしてしまうと、どうしても「意味」に縛られ、複雑な感情は縮減されてしまう。だからこそ複雑さを縮めず、音だけでそのまま手渡すのだ。
 フェイクに加え、「何なんw」や「死ぬのがいいわ」に現れるスキャットも、藤井風の音楽を特徴づける歌唱法の一つである。彼にとってフェイクやスキャットは、非常に重要な表現なのだろう。なぜなら、言葉という「意味」の制約を超え、ただ音に感情を込めるこれらの歌唱法は、言語や国境を越えて、スピリチュアルな感情を万人へ届けうる技法にほかならないからだ。

歌唱の妙

 藤井風はピアノで複雑なコードを弾きながらも、軽やかに自身の曲を歌い上げる。だが、カラオケなどで試せば痛感するように、彼の楽曲を歌いこなすのはきわめて難しい。複雑なコードと旋律の組み合わせ、頻繁に組み込まれる転調、上下に動き回るメロディ──どれも易しくはない。
 最後に、「死ぬのがいいわ」を例に、彼のヴォーカルがどれほど豊潤な彩りを楽曲に宿らせているかを確かめておこう。この曲は、メロディが上から下へ躍動し、高低差の激しさゆえに、声色の変化が音像としてくっきりと刻まれている。
 イントロではフェイクで歌い出し、Aメロはミドルレンジで、読経のように進む。心地よい中音域の声から一転、低音で〈Monday〉と〈Sunday〉が響く。すでに述べたように、〈死ぬのがいいわ〉の2回目でピッチベンドが入り、間奏はスキャットへ。続く〈わたしの最後はあなたがいい〉は、1オクターブ上がった高音で、声質もまったく別物になる。さらに終盤の〈死ぬのがいいわ〉も1オクターブ上のハイトーンで、「いい」は裏声だ。これほど藤井風の歌唱のテクニックと多彩な声の魅力を堪能できる曲はないだろう。

 投手と打者の両方で一流の大谷翔平は、「二刀流」で観客を沸かせる。それになぞらえるなら、藤井風は歌とピアノで世界に羽ばたく一流の表現者だ。しかも彼はサックスも吹けるし、作曲家としてもずば抜けた才能をもつ。「天は二物を与えず」というが、神はいくつもの才能を一人の人間に与えてしまった。しかも彼ほど利他的なスターはそういない。
 今回は主に歌唱と演奏、すなわち音の表現について見てきた。だが、彼の場合、吐息、呼吸、掛け声──すべてが必要な音として奏でられる。藤井風の身体から発せられるあらゆる音に言霊が宿り、温もりが息づく。こうした音楽の力はさらに、彼が歌うときの表情、仕草、眼差し、身体──すべてに表れている。次に私たちは、この岡山が生んだワールドワイドな表現者の魅力が相乗的に高まるライブパフォーマンスやミュージックビデオについても、分析を進めていかなければならない。


(1)個人的な例をあげれば、日々起こるさまざまな出来事に、その場では気にしないよう平然と過ごしていても、藤井風の優しい歌声に触れて、どれだけ自分が深く傷ついていたかを認識することは何度もあった。

(2)『MUSICA』2022 年 5 月号、47頁。


北村匡平(きたむら・きょうへい)
1982年山口県生まれ。映画研究者/批評家・随筆家。現在、東京科学大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は映像文化論、社会学、メディア論。遊具研究のため国内外の遊び場のフィールドワークを行う。近刊に『観る技術、読む技術、書く技術。』(クロスメディア・パブリッシング)。そのほか『家出してカルト映画が観られるようになった』(書肆侃侃房)、『遊びと利他』(集英社新書)、『椎名林檎論』(文藝春秋)、『アクター・ジェンダー・イメージズ』(青土社)、『24フレームの映画学』(晃洋書房)、『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩書房)、『スター女優の文化社会学』(作品社)など。


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