なぜ、ITの職場において低スキル者を排除することが成功のために重要だと誰も言わないのか?
はじめに
ITの職場では、低スキル者を重要な仕事から排除することが、実はかなり重要な職場づくりの条件の一つです。ここでいう排除とは、要件定義、設計、顧客折衝、品質判断、技術的意思決定、レビュー承認のような高い認知負荷を伴う仕事に、適性を満たさない人を置かないという配置上の判断を指します。人格の否定や社会からの追放とは別の話です。
そして、本稿でいう低スキルの核心は、作業速度の遅さよりも深い場所にあります。自分の誤解を検知できない、指摘を吸収できない、分からないことを分からないと言えない。この自己修正能力の欠如こそが、本稿で扱う低スキルの正体です。この定義を先に置くのは、後で述べるとおり、排除の基準として実際に運用できるのがこの軸だけだからです。
この問題は、活字の世界では昔から語られてきました。優秀な人だけを採るべきだという主張は、海外の技術書や経営言説では定番ですらあります。しかし、職場の会議室では誰も言いません。一般論として語ることと、目の前の同僚について語ることの間には、深い断絶があります。多くの職場では、チームワーク、育成、多様性、心理的安全性といった言葉が前面に出ます。それらは本来どれも大切なものです。けれども、そこに「誰でも同じ仕事に参加できる」「能力差は努力と支援で吸収できる」という幻想が混ざると、職場は静かに壊れていきます。
ITの仕事では、能力不足の人が単に半人前の成果を出すだけで済むとは限りません。誤解したまま進める、曖昧な仕様をさらに曖昧にする、確認すべき点を確認しない、後工程に手戻りを押し出す、優秀な人の時間を奪うという形で、組織全体に負債を発生させます。低スキル者はしばしば「生産性が低い人」である以前に、「周囲の生産性を下げる人」になります。本稿では、なぜこの排除が重要なのか、そしてなぜ書物では語られるこの現実が職場では語られないのかを考察します。
ITの仕事は人数を足しても成果が足されない
ITの仕事は、単純な労働集約型の仕事とは性質が異なります。手順化された作業や定型的な検証のように、人数を増やすことで処理量が増える領域はあります。しかし、要件定義、設計、実装方針の決定、障害解析、顧客との認識合わせ、仕様変更の影響調査のような仕事では、人数が増えるほど成果が増えるとは限りません。
むしろ、理解の浅い人が入ることで、仕事の総量は増えます。説明が必要になり、確認が必要になり、誤解の修正が必要になり、レビューが厚くなり、会議が増えます。本人が担当した作業の手直しだけでなく、その人が生んだ不確実性を周囲が吸収しなければならなくなります。
ITの成果物は知識の積み上げによって成立します。設計書、ソースコード、試験仕様、課題管理表、議事録、顧客説明資料は、それぞれ単独で存在しているように見えて、実際には相互に依存しています。ある人が要件を誤解すれば、設計がずれ、実装がずれ、試験観点がずれ、リリース後の障害につながります。低スキル者の作業は、その本人の担当範囲だけで閉じません。
このため、低スキル者が一人入るだけで、チーム全体の認知負荷が上がります。優秀な人は自分の仕事に集中できず、低スキル者の理解を補助し、誤りを検知し、手戻りを防ぎ、顧客や上司に説明する役割を背負わされます。単純作業であれば能力が低い人も限られた範囲で戦力化しやすいのに対し、高度な知的作業では、能力不足は周囲の成果を減らす方向に働きます。だからこそ、誰をどこに置くかは職場づくりの中核になります。
低スキル者の問題の本質は認知負債である
低スキル者の問題を「作業が遅い人」と捉えると、本質を見誤ります。作業が遅いだけであれば、納期に余裕を持たせる、作業範囲を限定する、手順書を整備することで対応できる場合があります。問題は、理解の質が低く、誤解を検知できず、分からないことを分からないと言えない人です。
このような人は、職場に認知負債を発生させます。認知負債とは、その人の理解不足や判断ミスが、周囲の理解、確認、修正、説明の負担として蓄積することです。技術的負債が将来の開発速度を下げるように、認知負債は組織の判断速度と実行速度を下げます。
特に厄介なのは、本人が自分の低スキルを自覚していない場合です。理解していないのに理解したふりをする。仕様の前提を確認しない。レビュー指摘を表面的に直し、なぜ直すのかを理解しないまま、次の仕事で同じミスを繰り返す。こうなると、周囲はその人の成果物だけでなく、その人の認識そのものを監視しなければならなくなります。
これは非常に高コストです。ソースコードの誤りは差分で見えますが、要件理解の誤りはすぐには見えません。設計意図の誤解は後工程になってから発覚し、顧客との会話で生じた認識齟齬は議事録に書かれないまま残ることもあります。このような認知負債を抱えた職場では、優秀な人ほど疲弊します。優秀な人は誤りを見抜けるため放置できず、責任感のある人ほど穴を埋めようとするからです。低スキル者を包摂しているように見える職場は、実際には優秀な人と真面目な人に負債を移転しているだけになります。
認知負債の源泉は自己修正能力の欠如である
ここで、認知負債を生む人の正体を正確に特定する必要があります。技術知識の量や経験年数は、実は決定的な軸にはなりません。技術力が高くても、説明を怠り、属人化を放置し、レビュー指摘を撥ねつけ、過剰設計で周囲の理解を阻む人は、同じ種類の負債を生みます。逆に、理解が遅くても、指摘を吸収し、自分の誤解に気づいたら申告し、同じミスを減らしていく人は、負債をほとんど生みません。
決定的な軸は自己修正能力です。自分の理解と現実のずれを検知できるか。指摘を受けたとき、防衛でなく吸収で応じられるか。分からない状態を分からないと申告できるか。この能力がある人の誤りは早期に収束し、この能力がない人の誤りは組織の中を伝播します。認知負債の量を決めるのは、誤りの量よりも、誤りの滞留時間です。
だからこそ本稿は、冒頭で低スキルをこの軸で定義しました。世間で言うスキルの高低と、ここで問題にしている低スキルは、重なりはしても同一のものとは限りません。技術に詳しい認知負債発生源も存在しますし、経験の浅い優良な学習者も存在します。重要工程から外すべきなのは、この軸で低い人です。
この定義には、もう一つの利点があります。それは、判定が可能になることです。次に述べます。
排除の基準は日々の兆候として観測できる
低スキル者を外すべきだという主張には、当然の疑問が返ってきます。認知負債は後工程になってから発覚し、進捗表にも現れないのであれば、誰がどうやって事前に見抜くのかという疑問です。この疑問に答えられない排除論は、実行不能な正論にとどまります。
答えはこうです。損害は遅れて現れますが、兆候は早く現れます。レビュー指摘に防衛で返すか、吸収で返すか。同じ種類の誤りを繰り返すか、減らしていくか。質問をするか、しないまま進めるか。分からないと言えるか、言えないか。これらはすべて、日々の仕事の中で、数週間の単位で観測できる事実です。要件理解の誤りそのものは半年後まで見えなくても、誤りを検知し修正する態度の有無は、最初のレビューから見えます。
つまり、配置判断は将来の損害を予言する行為である必要がありません。観測済みの兆候に基づく判断で足ります。指摘への反応、誤りの反復、申告の有無という記録は、印象論と違って突き合わせが可能です。重要工程に置くかどうかの判断材料として、これほど信頼できるものは他にありません。
この基準はもう一つの効用を持ちます。判定が誰の内面にも依存しないことです。「自分には見える」という自己申告は、能力の高い人がしても低い人がしても、それ自体では何の根拠にもなりません。価値があるのは、見える側を自称することでなく、兆候を記録し突き合わせることです。本稿の主張は、この外形的な基準の上に立っています。
「育成」と「重要工程への投入」は別である
低スキル者を重要工程から外すという話をすると、すぐに「人を育てないのか」という反論が出ます。しかし、育成と重要工程への投入は別の問題です。人は育てるべきです。ただし、育てるために重要工程を壊してよいわけではありません。
新人や未経験者には、学習の場が必要です。しかし、その機会は影響範囲を制御したうえで与えるべきです。いきなり要件定義の主担当にする、顧客折衝を任せる、レビュー承認者にするといった配置は、育成の名を借りた現場へのリスク移転です。育成には、本人が失敗しても周囲が回収できる範囲が必要です。小さな作業を任せ、フィードバックを与え、理解を確認し、徐々に責任範囲を広げる。この段階を飛ばして「実戦で育てる」と言う場合、その実戦の損失は多くの場合、顧客と後工程と優秀なメンバーに押しつけられます。
また、前節の基準は、育成可能な人と育成困難な人の区別にもそのまま使えます。理解が遅くても、同じミスを減らし、指摘を吸収し、分からないことを分からないと言える人は育ちます。指摘を防衛で返す人、自分の誤解を検知できない人、説明を受けても同じ地点に戻る人は、育成に膨大なコストがかかります。兆候は、排除の基準であると同時に育成投資の基準でもあるのです。
この違いを見ないまま「育成が大事」と言うのは、現場に対して不誠実です。本当に育てたいなら、重要工程と学習工程を分けるべきです。育成の名目で重要工程を壊すことは、本人にも周囲にもよくありません。
なぜ頭のいい人は本当のことを言わないのか
頭のいい人が「低スキル者を重要工程から外すべきだ」と言わない最大の理由は、角が立つからです。これは単なる臆病さとは違います。言ったときに何が起きるかを理解しているからです。
能力の問題を正面から語ると、冷酷な人間だと思われます。育成放棄だと受け取られ、多様性の否定に見られ、場合によってはパワハラ的だと受け止められます。上司や人事からは、扱いにくい人間だと思われることもあります。
さらに、指摘した人が、その後始末まで背負わされることがあります。「では、どう育てるのか」「どう配置すればよいのか」「本人にどう伝えるのか」といった問題が、指摘した側に返ってきます。現実を指摘しただけなのに、面倒な調整役にされてしまうのです。
頭のいい人は、この社会的コストを予測します。本当のことを言っても、組織が正しく動くとは限りません。そうであれば、黙って自分の仕事をする、危険な人には重要な仕事を渡さない、裏でリスクを吸収する、転職する、という選択をします。頭のいい人の沈黙は、現実が見えているからこその戦略的沈黙です。
なぜ低スキル者は本当のことを認めないのか
低スキル者がこの問題を認めない理由は、一つに収束しません。ここに重要な非対称性があります。能力の高い人は構造が見えているため、黙る理由が「角が立つ」に収束します。能力の低い人は、構造が見えていないこと自体が問題の一部であるため、理由が多岐に分岐します。
まず、自分が排除される側になることを恐れて認めない場合があります。「低スキル者を重要工程から外すべきだ」という主張は、自分の居場所を脅かします。だから、みんなで助け合うべきだ、人を切り捨ててはいけない、といった道徳的な言葉で反論し、職務適性の問題を倫理の問題にすり替えます。
次に、そもそも高度な仕事を経験していないため、被害を実感していない場合があります。割り振られた作業をこなすことだけが仕事であった人には、要件の齟齬や設計の破綻が組織全体を壊す感覚は分かりにくいです。さらに、自分の理解不足を検知できない場合もあります。本人は本気で分かっているつもりであるため、厳しく指摘する人を冷たい人だと感じ、議論が成立しません。
正しく理解している人の沈黙は戦略に近く、理解できていない人の沈黙は状態に近い。この非対称性が、問題を二重に語られにくくしています。なお、この議論は「見える側」の自己申告に依存しません。誰が見えていて誰が見えていないかは、前述の兆候、つまり指摘への反応と誤りの反復という観測可能な事実で判定できます。見えている側を名乗ること自体には、何の証明力もありません。
管理者がこの問題を語りたがらない理由
この問題を語らないのは、現場のメンバーだけではありません。管理者もまた、低スキル者の問題を正面から語りたがりません。理由は単純で、それを認めると、採用、配置、評価、契約管理の失敗を認めることになるからです。
低スキル者が重要工程にいるということは、誰かがその人を採用し、配置し、任せ、評価してきたということです。その人が組織に大きな負債を生んでいるなら、それはその人をそこに置き続けた管理の問題です。しかし管理者はしばしば、この責任を曖昧にします。本人に努力を求め、周囲に支援を求め、コミュニケーション不足や資料の整備不足の話にして、根本の配置問題を避けます。
また、管理者自身が高い認知能力を持っているとは限りません。現場の複雑さを理解できない管理者ほど、人数、稼働率、進捗率といった見えやすい指標に頼ります。認知負債は表面上の進捗表には出にくいため、管理者が問題を見抜けないまま、できる人に負担が集中します。ただし、ここで前述の兆候基準が効きます。レビュー指摘への反応と誤りの反復の記録を見ることは、高度な認知能力を要求しません。見抜く力の不足は、記録を見る作業で補えます。管理者に必要なのは天才的な眼力でなく、兆候を無視しない意思です。
それでも配置転換には、本人への説明、顧客への調整、契約上の処理、チーム内の感情処理という面倒な意思決定が伴います。これを避けたい管理者は「もう少し様子を見よう」と先送りします。その間に、職場の生産性は落ちていきます。
人事語彙が現実を隠す
現代の職場では、能力差を正面から語る言葉が使いにくくなっています。多様性、包摂、心理的安全性、成長機会、リスキリングといった言葉は、本来は有用です。しかし、それらが低スキル者の配置問題を隠すために使われると、現実認識を曇らせます。
これらの語彙の本義を確認しておきます。多様性は視点と背景の構成の話であり、職務適性の免除規定として使われた瞬間に機能を失います。心理的安全性は率直な指摘を可能にするための条件であり、低品質な仕事を指摘しない口実に使われると自己矛盾に陥ります。チームワークは相互に信頼できる成果物の上に成立するものであり、できない人の負債をできる人に固定的に移転する仕組みとは別物です。
ところが、これらの言葉はしばしば、耳ざわりのよい形で使われます。低スキル者を外すべき場面でも、「支援が足りない」「仕組みで解決すべきだ」という話に変わります。仕組みで解決できる問題は確かにあります。しかし、仕組みで吸収できる能力差には限界があります。
ITの仕事には、標準化や手順化が有効な領域と、個人の理解力が決定的に重要な領域があります。この区別をせず、すべてを仕組みで解決しようとすると、仕組みそのものが複雑化し、優秀な人の負担が増えます。低スキル者のために作られた手順、チェックリスト、会議、承認フローが、最終的には組織全体の速度を下げるのです。人事語彙は、適切に使えば職場をよくします。現実を直視しないために使われると、職場破壊の言い訳になります。
「一人の手」的な美談が職場を誤らせる
50年以上前の本田路津子さんのフォークソングに「一人の手」というのが有ります。ここで語られるのは「一人ではできないことも皆でならできる」という美談です。こうした考え方は、社会倫理としては大切です。人は完全に自立して生きているわけではありませんし、弱い人を支える仕組みも必要です。
しかし、この考え方をそのままITの重要工程に持ち込むと、深刻な誤りになります。職場の協力は、能力差を無限に吸収する魔法とは違います。協力が成立するには、参加者に最低限の理解力、責任感、自己修正能力が必要です。同じチームで働くとは、同じ前提を理解し、同じ目的に向かい、互いの成果物を信頼できる状態を作ることです。この前提を満たさない人がいる場合、成立するのは協力でなく、周囲による一方的な補助です。
美談が危険なのは、負担の所在を見えなくするからです。「みんなで支えよう」と言うと、優しい言葉に聞こえます。しかし実際には、支える側と支えられる側が固定されます。できる人が説明し、確認し、修正し、責任を取り、できない人は支えられ続けます。これを放置すると、職場は公平ではなくなります。
本当の協力とは、その人に合った仕事を与え、学習可能な範囲で育て、重要な判断は適性のある人に任せることです。社会的包摂と職務上の配置制限は両立します。この区別をしないまま美談に逃げると、職場は善意の言葉によって壊されます。
低スキル者を排除しない職場では、優秀な人から去る
低スキル者を重要工程に置き続ける職場で、最初に壊れるのは成果物とは限りません。多くの場合、最初に壊れるのは優秀な人と真面目な人の意欲です。
優秀な人は、自分の仕事だけでなく、他人の誤りを検知し、修正し、説明しなければならなくなります。真面目な人は、放置された問題を見過ごせないため、余計な責任を背負います。その一方で、組織は「チームで支えている」と言います。これでは、できる人ほど損をする構造になります。
この構造が続くと、優秀な人は沈黙し、やがて自分の担当範囲だけを守るようになり、それでも状況が変わらなければ、よりよい職場へ移ります。残るのは、問題に気づかない人、気づいても動かない人、負債を押しつけられて疲弊した人です。低スキル者を排除しないことは、一見すると優しい選択に見えます。しかし実際には、優秀な人を排除しているのと同じ結果を生みます。
ここで重要なのは、低スキル者本人への憎悪を持たないことです。問題は、職務に合わない人を重要な場所に置き続ける配置の失敗です。できない仕事を任され、周囲から不満を持たれ、本人も成果を出せない。本人もある意味では被害者です。だからこそ、排除は冷酷さでなく、職場設計の責任です。任せてよい仕事と任せてはいけない仕事を分ける。これができない職場は、低スキル者にも優秀な人にも不誠実です。
書物では語られ、職場では語られない
「Joel On Software(ジョエル・スポルスキ著)」という本があります。優秀な人だけを採るべきだ、頭がよくて成果を出せる人が重要だと、公然と主張した本です。海外の技術書や経営言説では、この種の主張は繰り返し語られてきました。つまり、この問題は活字の世界では十分に語られています。それでも、日本の職場の会議室では誰も言いません。書棚と会議室の間にあるこの距離こそ、本稿の主題です。
新人の頃にこの本を読むと、少し極端に見えます。実際の職場にはいろいろな人がいますし、人は育てるものだという考え方もあります。半信半疑で読むのは自然です。しかし、仕事を続ける中で、顧客に怒られ、仕様の誤解や手戻りや後始末を経験すると、そうした言葉が思想でなく経験則だったと分かってきます。
そこで見えてくるのは、人を見下す快感とは無縁のものです。苦労して伸びる人と、苦労しても同じ地点を回る人の違い。指摘を吸収する人と、防衛だけする人の違い。分からないことを分からないと言える人と、分からないまま進める人の違い。つまり、経験が教えるのは「誰が下か」でなく、本稿で述べてきた自己修正能力の兆候の見分け方そのものです。
だからこそ、この結論は現場で摩擦を受け続けた人ほど早くたどり着きます。活字が一般論として教えたことを、経験が固有名詞つきで裏づける。それでもなお、その固有名詞について職場で語ることだけは、誰にもできないのです。
職場で誰も言わないからこそ、より重要になる
低スキル者を重要工程から排除することが重要であるにもかかわらず、職場では誰も言わない。言う側に利益が少なく、言われる側に不利益が大きく、管理者に責任が返り、人事語彙とも相性が悪いからです。
しかし、語られないからといって、問題が消えるわけではありません。むしろ、語られない問題ほど職場に深く食い込みます。低スキル者を外せない職場では、標準化、会議、チェックリスト、進捗管理、報告資料が増えます。それらは一見すると管理の高度化に見えますが、実際には低スキル者を重要工程に置き続けるための補助輪である場合があります。
標準化や手順化そのものは必要です。非競争領域や定型作業では有効です。しかし、能力不足を隠すための標準化は、職場全体を低い水準に合わせます。優秀な人は余計な手続きに縛られ、低スキル者は本質を理解しないまま手順だけをなぞります。結果として、組織は賢くなるどころか鈍くなります。
本当に重要なのは、職務の難度と人の能力を正確に対応させることです。高度な抽象化が必要な仕事には、それができる人を置く。学習中の人には、影響範囲を制御した仕事を与える。自己修正の兆候が見えない人には、重要工程を任せない。ITの成果物は人の理解から生まれるため、理解力の低い人を重要な場所に置くと、成果物の品質だけでなく、組織の認識そのものが歪みます。人を増やしても進まない職場、会議ばかり増える職場、優秀な人ほど疲れる職場は、多くの場合この問題を抱えています。
まとめ
ITの職場では、低スキル者を重要工程から排除することが、職場づくりのかなり重要な条件になります。これは人格の否定と無縁の、職務適性の問題です。人は社会から排除されるべきではありません。同時に、すべての人がすべての職務に参加できるわけでもありません。
本稿でいう低スキルとは、自己修正能力の欠如です。誤解を検知できず、指摘を防衛で返し、同じ地点に戻り続ける状態を指します。この定義の利点は、判定が観測に基づいて行えることです。損害は後工程まで見えなくても、兆候は最初のレビューから見えます。排除の判断は予言である必要がなく、記録された兆候の突き合わせで足ります。この基準は同時に、育成投資の基準にもなります。
この現実は、活字の世界では繰り返し語られてきました。それでも職場では語られません。頭のいい人は角が立つことを理解して黙り、低スキル者は恐れや経験不足や認知不足から認めず、管理者は自らの配置の失敗を認めたくないために避けます。さらに、人事語彙と美談が、職務適性の問題を道徳の話にすり替えます。
しかし、職場は美談では動きません。ITの仕事は、人数でなく理解の質によって進みます。協力には最低限の能力が必要であり、育成のために重要工程を壊すことは許されず、心理的安全性は低品質な仕事の見逃しを意味しません。必要なのは、仕事の難度と人の能力を正確に合わせる現実的な職場設計です。重要工程には適性のある人を置き、低スキル者には影響範囲を制御した仕事を与え、育つ兆候のある人には育成機会を与える。
職場で誰も言わないからこそ、この問題はより重大になのです。言えば角が立つ現実ほど、組織の根本に関わっています。この判断を避け続ける職場は、優しさを装いながら、できる人に負債を押しつけ、最後には顧客と組織自身が損をします。その厳しい前提を認めたうえで初めて、育成も、協力も、標準化も、心理的安全性も、本来の意味を持ちます。
Discussion
なるほど!
「日本人は概して優秀だけど、天才的に優秀な人は少ないから欧米のようにユニコーン企業が出現しない」や、「日本ではソフトウェア開発というものが疎んじられているから事業会社も力を入れないし、エンジニアの地位も上がらない」的な論説が従来からあったと思いますが、、
日本でソフトが育たない本質は、この記事にあるように
「皆でお手てつないで。。」「弱者を排除するのは倫理的に良くない!」的な
独特の倫理観?同調圧力?にある気がしてきました。。
欧米や中国のように、
「適性のない人は必要ない」(切る側)
「私には合わなかったのね… じゃ、バイバイ!」(切られる側)
と、ドライに割り切る文化、(日本的に見ると冷たい文化・個人主義)がない限り
どうしたってソフトウェア開発文化は低迷するんだろうと思いました。。
上記コメントも勘案すると人事権の裁量が現場になく、
管理職が若手を育てるという責任を負わされるので参加させざるをえないのが問題の一部かもしれませんね。
(年齢がいってても低スキルの人は低スキルですが)
ただ、フレキシブルな組閣ができることが生産性を上げることは確かですが、無限の予算と無限の準備が前提な気がしていて、あるものでやるしかない場合のほうが多い気もしますが。
人格の評価ではないというのがポイントですよね。
ただ、そのような側面を評価しようとすると、どうしても人格否定に近いような強い言葉が出てきてしまうのだと思います。伝える側が事実を間違うとパワハラになりますから。聞いてる側はつらいですよね。
実際には、適性のある人を適切にアサインするにも大きな労力がかかりますし、「やってみなければわからない」で進んでいることが多いように感じます。現場投入を育成と呼んでいる一部の文化は改善してほしいですけども。
興味深く拝読しました。
能力に応じて配置・育成を考えるべきという主張には概ね同意しますが、低スキル者である基準の主軸に「自己修正能力」のみを据える部分に少し違和感があります。
職務遂行能力と自己修正能力が完全に正比例するとは言い切れません。
「技術不足でも指摘から学んで生かせる人」がいるように、「自ら学び非常に高い技術力・実行力を持つが自論への固執が強い人」も存在し、特にIT業界では会社内でもSNS上でも結構な人数見かけます。
また関連する問題として、観測可能性と評価の妥当性の齟齬があります。
「指摘に反論した」という行動は測定できますが、そこから「防衛反応だった」→「自己修正能力が低いからだ」→「低スキルである」と進むにつれて、評価者の解釈や認知バイアスが否応にでも入ります。たんに被評価者が説明下手であり反論は誤解だったとか、評価者の指摘内容やコミュニケーション手法に問題があった、といった可能性だってあるわけです。
さらに評価者の選定についても慎重さが必要だと思います。能力を評価するには業務への専門性や自己修正力だけでなく、被評価者に対する感情バイアスを認識するメタ認知力、異なる解決方法を理解しようとする柔軟性が必要です。
Spolsky も自己修正的な能力を重視していますが、それだけで Smart かどうかを判断しているわけではなく、問題解決力、実際のコーディング力、過去の成果などを多面的に測定し、かつ複数の技術者による評価を行っています。
自己修正力を重要な評価軸の一つとすることには納得できますが、「低スキル」の定義そのものにすると、評価者による誤判定が起こり、結果的に人的リソースを無駄にしてしまう、という危険性があるのではないでしょうか。「誰が、何をもって低スキルと判定するのか」という部分には議論の余地というか、多面的な評価方法が必要なのかなと思いました。
そこまで考えさせること自体がコストなのだ、と言われればまあ、それまでなのですが、私はそうやって労力を割かれて助けられてきた身なので、恩返しのつもりで、プレイングマネージャーとしてやるべき仕事の一つとして受け持とうかなあ、という気持ちです。長文失礼しました。