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先住民表象と先住民運動

Indigenous Peoples' Representation and Indigenous Movements


解説:池田光穂

民族表象と運動 Ethnic Representations and Movements

民 族(または民族集団)とは、社会文化的特徴と価値を共有する人たちの集団である。民族表象とはしばしば、言語、衣装、遺跡モニュメント、生活 習慣のような眼に見えて顕示的な徴であるものから詩歌や文学作品さらには思想やアイデンティティという見えにくいものまで多種多様にわたる。人類学者の多 くは、民族や民族表象の定義や規定をする際に、本質主義(essentialism) 的なものよりも構成主義(constructivism)的 なことを 採用する傾向が強くなってきた。社会集団の成員は、しばしば超時間的に人々が維持している共通項よりも、国家や隣接する集団との関係の中でおこった「出来 事」の中で取捨選択されてきたものを、その民族の固有の特徴や成員のアイデンティティとして理解することが多いからである。ただし、このような歴史は容易 に忘却されてしまい、一度何らかの理由で廃絶した民族表象が復興される際には、現実には想像的に復元されたにも関わらず、当事者自身にも本質主義的なもの として普遍的な価値が主張されるという、文化の客体化(objectification of culture)ないしは文化の再領域化(re-territorialization of culture)という現象が広く認められる。民族や文化の定義をめぐって古典的合意が崩壊し、これまでの学術的議論の枠を超えて、現代政治をも巻き込ん だ社会的な論争的なテーマとして、今日浮上してきているのである。

●表象とは?

表象(representation): 表象とは「誰かあるいは何かを、代 わりに話したり、表現したり、表したり、すること」である。 リプリゼンテーションには、代表、再演の意味もある。あるものを別なもので代表させるもの。あるものを別のもので表現するもの。こ んな単純なことなのに、なぜみんなは、表象(表現や上演という「表現」もしばしば使われます)という言葉と概念をめぐって大騒ぎするのでしょうか?それ は、人間にとって、表象行為というのは、ホモ・サピエンス(知恵ある存在)にとって基本的にいつもおこなっている基本的なもので、表象のことがわかれば、 人間を理解することに、大いに貢献するからである。表象の規則的側面に着目すれば表象は、おもに記号論をつかって考察するこ とができる。表象をより広くて曖昧な[解釈]レベルで分析したければ、象徴に関する理論(哲学・文芸批評・精神分析など)がある。表象は記号と象徴の中間 的な位置づけであると考えると、表象の分析は、さまざまな理論によって分析できることがわかる。 表象には、記号がもつ規則性やそれを厳密に分析できるとい う意味から、象徴研究のような幅広い意味理解という意味も兼ね備えているので、もっともルーズで曖昧な意味の総体とも言える。表象文化とか文化表象 (cultural representation, representation of culture)という用語が流布した背景には、文化という記号とも象徴とも受け取れる幅広い領域の社会現象を、表象を鍵概念として捉えようとする試みで あり、また文化もまたきわめてルーズで曖昧な意味を内包している

●創られた民族表象

19 世紀のヨーロッパでは、今日では長い歴史があると信じられていた国家儀礼や民族衣装などが、実は近年になって復活・整備・再解釈された後に 「古くから永続しているもの」と錯認されてしまう現象、すなわち「創られた伝統(invention of tradition)」というものが見られることがボブスボウムらによって指摘されている。1世紀以上の前にヨーロッパで起こった国民国家の形成時に起 こった現象と類似のものが、今度は冷戦構造が終わった1990年代以降に、民(people)が、それまでの差別と抑圧から自らの少数民あるいは先住民 (indigenous people)アイデンティティを回復し、集団としての主権を取り戻そうとする今、起こっていることになる。この現象は歴史的発展における進歩主義的タイ ムラグでも偶然の一致でもない。国民や民族という「我ら同胞」という集合的意識が形成される時には、当人たちの自覚/無自覚とは無関係に、隣接する他集団 との差異化を通してより本質的に見える歴史表象が主題化され差異化が強調されるゆえのことである。民族表象は、文学や言語など人々の土着的アイデンティ ティ(native identities)に訴える形で、主に知識人たちから提唱され、言語表記法の提唱と母語文学の主張、さらには印刷メディアにより「同胞 (compatriot)」を獲得してゆく。アイデンティティが政治的主張の源泉ないしは社会的「資源」となるために、これをめぐる社会的駆け引きはアイ デンティティの政治学(identity politics)と言われる。

●湧き上がる運動

な ぜ民族は、冷戦後の世界の各地において新たな「政治運動(political movements)」と関わるのであろうか。それは冷戦期において彼/彼女らは、国民国家にやがて包摂される弱き存在か、あるいは抑圧国家に対する「覚 醒した抵抗者(awakening rebels)」——最たる例が「農村プロレタリアート」化である——として位置づけられていたことと関係する。冷戦の双方の陣営(=中央政府やイデオロ ギーの中心地)からみて近代化によって彼/彼女らが維持する文化的差異は消滅してゆくと考えられていたからである。しかし冷戦構造の終焉は、そのような理 想的な「社会的包摂(social inclusion)」が神話に他ならず、差別と搾取の構造が依然として温存されたままであることが、当事者の人たちにとって明確な事実となった。

1996 年末に36年間の内戦が終結した中米グアテマラでは、国民の多数であるマヤを中心とした先住民たちの主張が反映され、「恒久的和平合 意」中に多 民族・複数文化・多言語国家の建設を謳う条項が盛り込まれ、政府系の先住民言語の普及と研究をするアカデミーが設置された。これらに連動して、国際社会は 開発援助の柱としての先住民文化の擁護と復興に力を入れ、地元社会にも舞踊や音楽を中心とした古典芸能の復興が起こった。近年では、地球温暖化防止や鉱山 開発阻止のエコロジー運動などと呼応した先住民ロック音楽グループが、伝統音楽の要素を取り入れ、伝統的な民族表象と現代的な政治運動との直結を試みてい る。これらは民族表象の「創造」であり多元化現象の好例である。

  他方で、多元化を平準化しようとする国際政治の圧力も存在する。以下の3つ(あるいは、それ以上)のグローバリゼーション勢力が少数民と先住 民の共同体 にアクセスしつつある。(1)1980年代末以降のIMFワシントンコンセンサス期のネオリベラリズム開発勢力、(2)トライバル・スロット(部族の受け 口)と呼ばれる政治的回路を通して支援する国際的NGO勢力、そして(3)冷戦時代と同様に文化的差異を消去し、それに置き換わる新たな共同アイデンティ ティを呈示しようと試みる原理派宗教の勢力などである。これらは少数民と先住民に対して、さまざまな改革プランを外部から持ち込む。かつ同時に彼らの文化 的差異に対して表面的には敬意を表しつつ、それらが中心的に課題にならないように巧妙に管理しようとする特徴をもつ。

●2007年国連・先住民権利宣言の採択

こ のような状況のなかで国連の先住民権利宣言の採択は、少数民と先住民の未来にとって独自の意義をもつ。それには先住民の定義が一切示されてお らず、すでに国際的合意があるものであるかのように規定されている。このジレンマは国家間の協議連合体としての国連の枠組の中で、今後、少数民と先住民が これまで受けてきた国際法的な観点からの人権侵害を今後繰り返さないための強い国際的合意の表明であると同時に、政治的独立としての過度の自律性——具体 的には新たな国家形成と独立——を防ぐような配慮に由来するものだと指摘されている。少数民と先住民の民族表象は、現在このような動態的状況の中にあり、 それらの未来予測は極めて難しいものになっている。ただ21世紀ミレニアム以降、民(people)の文化表象は、政治という名の運動による媒介のもとで 大きく変貌を遂げようとしていることは確実である。

●アナクロニスティックな回帰運動ではな い

20 世紀末先住民運動では[国際的な支援の関わりの中で]顕示的な伝統衣装や文化の誇示がおこなわれて「白人」によりアナクロニスティックな回帰運動と揶揄さ れた.しかし歴史家ド・セルトーは伝統の誇示の背景に先住民権や法的権利回復運動があることを示唆し様相が一変した。ここでの「白人」とは、非先住民とい う意味での総称であり、肌の色や欧米の支配民族だけのことを言っているわけではない。

Cristian Parkerの所論:「ラ テンアメリカの先住民たちの「目覚め」は、宗教の復活や先祖の信仰や儀式への回帰を伴うものなのか、という疑問を投げかけます。確かに、メキシコやエクア ドルなどでの抗議行動や目に見える運動には宗教が関わっていますが、宗教がこれらの運動の主な要因や最も深い源流であるとは考えられません。したがって、 先住民コミュニティにおける福音派(特にペンテコステ派)の急速な拡大と並行して、先祖代々の先住民宗教伝統の地位向上と尊重の増大が観察される。他方、 多様な教会による活発な宣教活動が新たな先住民指導者の出現に寄与し、シャーマニズムの儀式は民族的アイデンティティの再確認手段として、また先祖代々の 土地の回復を求める闘争を支援する役割を果たしている。この闘争は、次第に神聖な性格を帯びつつある。この闘争は政治的かつ民族的なものであり、先住民の 権利、人々やコミュニティの特殊性、先祖の土地、そして文化表現の承認を求めて戦われている。先住民の信仰は決して一様ではない。しかし、グローバル化に よって脅威にさらされているとはいえ、宗教が民族のアイデンティティの回復プロセスの一部であることは間違いない」- Cristian Parker, Religion and the Awakening of Indigenous People in Latin America. Social Compass, 49(1):67-81. DOI: 10.1177/0037768602049001006

★よいマヤ民族/悪いマヤ民族

事例(1)先住民の慣習法に関する報道と それにまつわるジレンマ

2006年当初よりPrensa Libre等の新聞報道において先住民の慣習法にもとづく処罰が多く報じられるようになってきた。報道された処罰の内容は共同体内における、窃盗や銃を 使った同胞への脅迫などに対する鞭打ち、誘拐容疑で逮捕された家族の共同体からの追放、子供の人身売買犯に対する砂利への跪きと(女性への)斬髪などであ る。グアテマラ政府はILO-169号条約について1996年に批准しているが、国内法では先住民共同体が処罰をおこなうことに関して明確な規定がない。 マヤの慣習法の実践は、それ自体がメディアの対象になりやすく、擁護論者にも批判論者にも等しく定式化(ステレオタイプ)した議論に陥りやすかった。

批判派の識者たちは、先住民の権利への誤 解の解消と先住民権に関する法的整備や、処罰の司法権力への移管を強く勧めている。たとえば国連のグア テマラにおける人権高等弁務官アンドレス・コンパスは、先住民による慣習法的な処罰のうち極めて暴力なものは先住民の慣習法の実行に関する権利をすでに逸 脱しており、それは「マヤとしての権利を誤って庇護している」のだと批判する。他方、先住民護民官のマルティン・サカルショト(Mart?n Sacalxot)は、マヤの権利が長老会議やコミュニティ評議員たちよって実行されるひとつのシステムであるとしてこれを基本的には擁護している。しか し後者の擁護派の立場においても、そこに三審制を導入するなど、制度そのもの改善が不可欠であることを主張している。マヤの慣習法は尊重すべきであるが、 現状には問題が山積しておりじゅうぶんに改善の余地があるわけだ(Prensa Libure, 10 de septiembre de 2006)。

マスメディアにおけるマヤ先住民の慣習法 の実施に関しては、報道そのものが鞭打ちや断髪など、扇情的な視覚表象が全面に出て、その慣習法の実施 にいたる経緯などについて詳しく触れられる機会は少ない。そのため先住民の当事者を含め、具体的なコメントを求めると十分に知らない場合は、当惑ないしは 異議が多く返ってくる。たとえば、マヤ先住民が残虐であるイメージというものは植民者やラディーノが長年の間に培ってきたものであり、「本来のマヤのも の」ではないという意見がある。このコメントを私に語ってくれた先住民の男性は、マヤの暴力的な処罰は過去500年の間に、異端審問や租税の不払いに対し て植民者が先住民におこなってきた残虐なやり方を、マヤ自身が後になって模倣したものだと言う。平和な先住民が、残虐な植民者の悪い面を模倣するに至った のが、慣習法の残虐な側面であるらしい。別のあるマヤ司祭は、実際に彼が経験した長老会議の運営が自分たち自身の文化に対して敬意と感受性豊かなものであ り、告発する側も処罰される側も、長い時間をかけて合意形成が達成できるまで議論されるもので、必ずしも人権を逸脱する残虐なものではないと反論する。ま た近代法による処罰が、犠牲者への賠償というものがほとんどなされず、また加害者の長期にわたる留置が残された家族への経済的負担ばかりをなすという点 で、マヤの慣習法の道徳的な利点を強調した。マヤ(ともにマム人である)の両者に強調するのは、メディアの報道はマヤの凶暴さを過度に強調するものである という点で一致している。新聞報道はマヤ民族が非合理的で凶暴であってほしいラディーノの欲望の反映ということになる。それゆえにマヤの慣習法に関する報 道は皮相的であるというのだ。

たしかにマスメディアは、長老会議におけ る慣習法の実践と、地方における警察の腐敗によって司法機能が不能になった状態でしばしば生起する群集 暴動的なリンチ事件を「暴力的なマヤ・イメージ」として同じ次元で取り扱う傾向がみられる。

折しも2006年6月にウェウェテナンゴ 県のアカテコ語が話されるサン・ミゲル・アカタンにおいてグアテマラ共和戦線党(FRG)の市長 Pasqual Tomas Jos? が市中の治安の乱れに対して84項目の「犯罪」——その中には児童虐待、飲酒放浪、器物損壊のなどの他に夜間の飲酒販売、教師の職務怠慢、家庭調和を乱す 者、男性のピアス・入れ墨・長髪、午後9時以降の往来などが含まれる——を独自に定めそれらを犯したものに対して制裁措置をおこなうことができる独自の 「法律」を市の当局者と104名の住民(アカタンの人口は約2万2千人である)の間で締結した。それゆえ、多くの住民を拘束——最初の犠牲者はそのような 条例を知らない近隣の町の先住民であった——したり、制裁金を科したりするという事件が発生し、地域に大きく報道された。共同体内部における暴力排除や秩 序の取り戻しに対して国家の法とは別のシステムを発動させることに対する報道は、先の先住民の慣習法的制裁に対する違和感を「凶暴なマヤ」——ただしこの 場合は「凶暴な市長」——を通して表現されている(Prensa Libre, 6 de septiembre de 2006の記事および風刺画[コラム]を参照)。

挿画:Prensa Libre の著名な挿画作家 Fo ことAlfredo Morales による風刺画「サン・ミゲル・アカタンにおける司法=正義」:法の女神(ユスティシア)の剣で女性先住民の髪を切る市長(Alcalde)と、自警団と思 われる男性は「ここに跪け」と言いながら同じく女神の秤から奪った砂利を地面に敷いている。

事例(2)教育改革に関する論争の展開

文部大臣 Maria del Carmen Ace?a (当時)が進める初等教育の有償化や民営化路線に対する教員組合および学識経験者の反発は強く2005年頃より頻繁に抗議行動が行われた。その中でも 2006年2月9日の抗議行動では、全国から招集された学校教師たちが、大統領府前の憲法広場をほぼ埋め尽くした。デル・カルメン・アセーニャ大臣は就任 直後から教育の変化(transformaci?n educativa)を政策目標として掲げ、教師の質の向上や教育のインフラ整備を唱道してきた。またその改革には、2004年の時点で初等前教育の普及 率が44%であったものを、2005年から4年間に75%から100%に上げるなど具体的な数値目標をあげた。任期の後半ではジーグフリード・エンゲルマ ン考案による本国でも論争が絶えないダイレクト・インストラクション(DI)の教育手法を導入すべく米国から専門家を呼び試行的カリキュラムを実験してい る。彼女は教師の実績評価制度を導入し、本人および第三者評価にもとづいて昇給水準を決める効率化のための手法も導入した。

それに反発する教育組合や在野の教育改革 論者の主張は以下のようなものである。初等教育の無償の維持と教育の質の発展維持、初等教育の民営化の 動きへの反対表明、(教育の変化政策で一番遅れていると言われている)多民族・多文化・多言語教育の具体的な実施、初等教育から高等教育にかけた首尾一貫 した政策の必要性、社会改革の一環としての教育改善への国民的コンセンサスづくりである(”Es necesario impulsar reforma,” Prensa Libre, 11 de septiembre de 2006.)。

事例(3)鉱山開発反対の住民投票

2005年6月18日のサン・マルコス県 サン・ミゲル・イシュタウァカンでの米国グラミス・ゴールド社(モンタナ鉱山開発)による鉱山開発「マ ルリン」(Proyecto Glamis Gold Marlin)を拒絶する、サン・ミゲルに隣接するシカパカの住民投票(5)以降、サン・マルコス県やウェウェテナンゴ県の各先住民自治体での投票が相次 いだ。その例として2006年8月29日のサンタ・エウラリアでの住民投票があげられる[別記コラム参照]。"No a la Miner?a [de Metales]"という標語で有名になったこの運動の、サンタ・エウラリアで私がみた鉱山開発反対のポスターはノルウェー教会が支援するマドレセルバが 資金提供していた。都市の書肆にはグアテマラの天然資源に関する書籍が売られ活動家の1人は、私にその本[Solano 2005]を見せて資源の外国人への売り渡しについて勉強しているところだと説明してくれた。


[写真キャプション]サンタ・エウラリアのいくつかの家族は、この地域の鉱山探査と開発に関する住民投票(consulta popular)にでかけたばかりである。
【鉱山】総計1万8千89の住民が認可に反対の表明
 —— 住民投票結果 首都へ(Traen resultados)——
【ウェウェテナンゴ】マイク・カスティージョ署名記事
サンタ・エウラリア発:当地の79のコミュニティにおいて一昨日実施された住民投票の結果で1万8千のカンホバル人の居住民は、ウェウェテナンゴ県におけ る鉱山探査と開発に不同意であることを表明した。
 コミュニティの指導者であるリゴベルト・ファレスは、1万8千89人の住民がノー、5人がイエスと答え、62人が無効ないしは棄権であったと報告した。 サンタ・エウラリアの市民ホール(sal?n municipal)には投票情報が集約集計された。
 投票所はそれぞれのコミュニティに設置された。そこでは立会人による管理のもとで、住民が申し立て制度によってその一票によって意見表明し、投票の真正 性を証明する記録簿に登録された。
 それぞれのコミュニティからなる代表から構成された住民代表団は、昨日首都にむけて旅立ち、国会議員におよび鉱山エネルギー省の当局者に接見し、投票の 諸結果を報告するために本日集結することになっている。
 「ウェウェテナンゴでは我々が鉱山[開発]を望んでいないことを政府が理解することを我々は望んでいる。なぜなら鉱山は自然環境(la naturaleza)に害をもたらすからだ」と、匿名を希望する住民の一人は指摘した。
 今年になって、サン・ファン・アティタン、コンセプション・ウィスタ、トドス・サントス・クチュマタン、コロテナンゴ、サンティアゴ・チマルテナンゴの 住民たちもまた鉱山[開発]について拒絶している。
『プレンサ・リブレ』紙、2006年8月31日

出典:池田光穂「グアテマラ社会における先住民表象のダイナミズムVer. 2.0

★リンク

◎参照文献

  1. 窪田幸子・野林厚志編『「先住民」とはだれか』世界思想社,2009(←(書評「『先住民』とはだれか」窪田・野林編)
  2. 太田好信『トランスポジションの思想(増補版)』世界思想社, 2010
  3. 太田好信編『政治的アイデンティティの人類学』昭和堂,2012(←書評:池田光穂
  4. (この原稿の印刷版:ただし異同があります)『世界民族百科事典』[共著]国立民族学博物館編、丸善(「民族表象と運動」Pp.738- 739)、816pp.、2014年7月
  5. 池田光穂「政治的アイデンティティ
  6. Cristian Parker, Religion and the Awakening of Indigenous People in Latin America. Social Compass, 49(1):67-81. DOI: 10.1177/0037768602049001006
  7. 民族交錯のアメリカ大陸 / 大貫良夫編, 東京 : 山川出版社 , 1984.10. - (民族の世界史 ; 13)
その他の情報


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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