はじめによんでください

アルチュール・ランボー

Arthur Rimbaud, 1854-1891

sa

池田光穂

アルチュール・ランボー、またはランボオ(Arthur Rimbaud、1854年10月20日 - 1891年11月10日)は、フランスの詩人。アルベール・ティボーデにより、ヴェルレーヌ、マラルメ、コルビエール、ロートレアモン伯爵と並び 「1870年の五人の異端者」の一人に数えられた。早熟な天才、神童と称された彼は、15歳のときから詩を書き始め20歳で詩を放棄するまでのわずか数年 の間に「酔いどれ船(フランス語版)」などの高踏派、象徴派の韻文詩から散文詩集『地獄の季節』、散文詩・自由詩による『イリュミナシオン』(一部を除い て没後出版)まで詩の伝統を大きく変えた。彼の詩論、詩人論として知られる「見者の手紙(フランス語版)」において「詩人は、あらゆる感覚の、長期にわた る、広大無辺でしかも理に即した錯乱により、見者となる」と語り、ブルジョワ道徳をはじめとするすべての因習、既成概念、既存の秩序を捨て去り、精神・道 徳、身体の限界を超え、未知を体系的に探求しようとした反逆、革命の詩人であり、ダダイスム、シュルレアリスムへの道を切り開いた詩人である。

アルチュール・ランボー、 またはランボオ(Arthur Rimbaud、1854年10月20日 - 1891年11月10日)は、フランスの詩人。アルベール・ティボーデにより、ヴェルレーヌ、マラルメ、コルビエール、ロートレアモン伯爵と並び 「1870年の五人の異端者」の一人に数えられた。早熟な天才、神童と称された彼は、15歳のときから詩を書き始め20歳で詩を放棄するまでのわずか数年 の間に「酔いどれ船(フランス語版)」などの高踏派、象徴派の韻文詩から散文詩集『地獄の季節』、散文詩・自由詩による『イリュミナシオン』(一部を除い て没後出版)まで詩の伝統を大きく変えた。彼の詩論、詩人論として知られる「見者の手紙(フランス語版)」において「詩人は、あらゆる感覚の、長期にわた る、広大無辺でしかも理に即した錯乱により、見者となる」と語り、ブルジョワ道徳をはじめとするすべての因習、既成概念、既存の秩序を捨て去り、精神・道 徳、身体の限界を超え、未知を体系的に探求しようとした反逆、革命の詩人であり、ダダイスム、シュルレアリスムへの道を切り開いた詩人である。

日本においても明治末期の上田敏、永井荷風、昭和初期の小林秀雄、中原中也、戦後の堀口大學、金子光晴と、優れた文学者によって次々と紹介・翻訳された。


アルチュール・ランボーは1854年10月20日、陸軍大尉フレデリック・ランボー(フランス語版)と近郊ロッシュ(フランス語版)村の小地主の娘マ リー・カトリーヌ・ヴィタリー・キュイフ(フランス語版)の第2子ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボーとして、フランス北部のベルギーとの国境に近い シャルルヴィル(グラン・テスト地域圏アルデンヌ県)に生まれた。


母ヴィタリー・ランボー(1890年頃)
1歳上の兄ジャン・ニコラ・フレデリック、3歳下の妹ヴィクトリーヌ・ポーリーヌ・ヴィタリー(生後1か月で死去)、4歳下の妹ジャンヌ・ロザリー・ヴィ タリー(フランス語版)、6歳下の妹フレデリック・マリー・イザベル(フランス語版)の5人兄弟姉妹であった。先祖にガリア人をもつ。父フレデリックは任 地にいて不在がちのうえ、イザベルが生まれた後(ランボーが6歳の頃から)家に戻らなくなり、母ヴィタリーは女手一つで4人の子を育てた。ランボーは幼時 に、この厳格・勤勉で気位が高く、非常な敬神家であった母の影響を強く受けたとされる[1]。ランボーについて多くの研究書を発表した作家、美術史家のク ロード・ジャンコラ(フランス語版)は、2004年に、この「悪名高い」母親とランボーの関係について、特に二人の性格の類似性とそれゆえの反目と愛情に 焦点を当てた評伝『ヴィタリー・ランボー ― 息子アルチュールへの愛』を発表している[2][3]。


11歳のランボー(1866年の初聖体拝領)
1861年、私立のロサ学院(フランス語版)に入学。一家の引っ越しのため、1865年に市立シャルルヴィル高等中学校に転校した。早熟な天才、神童と称 されるランボーは、実際、模範的な優等生で、ラテン語の詩などで数々の優等賞を得た[4]。シャルルヴィル高等中学校の同窓生に作家のエルネスト・ドラ エー(フランス語版)がいる。彼は後にランボーの詩作や生活に助力し、彼に関する著書を残すことになる。

詩人ランボー
ジョルジュ・イザンバールとの出会い
ランボーが文学の道を志すきっかけとなったのは、1870年1月、彼が15歳のときに修辞学の教師としてシャルルヴィル高等中学校に赴任したジョルジュ・ イザンバール(フランス語版)との出会いであった。22歳のイザンバールは革命思想の持ち主でもあり[4]、彼の教養、思想などに大きな影響を受けたラン ボーは、読書に没頭し、詩作を始めた。早くも同年に「孤児たちのお年玉」[5] を文芸誌『ラ・ルヴュー・プル・トゥース』[6] に発表し、5月にはイザンバールの勧めで『現代高踏派詩集(フランス語版)』の編集委員の一人であった詩人・劇作家のテオドール・ド・バンヴィルに「オ フィーリア」「感覚」「太陽と肉体」の3編の詩を送り、同詩誌第2集への掲載を懇願した。これらの詩は、実際、バンヴィル、シャルル=マリ=ルネ・ルコン ト・ド・リールら高踏派の詩に倣ったものだが、とりわけ「感覚」は、伝統的な詩の技法から脱した、ランボー独自の世界を切り開くものとして、後に高く評価 されることになる[7][8]。

Lettre à Izambard le 2 novembre 1870. Arthur Rimbaud

家出と放浪

「坐っているやつら」の原稿(1871年)
同年8月、ランボーは家出をして普仏戦争下のパリに向かった。だが、無賃乗車のために北駅で逮捕され(当時リヨン駅の向かいにあった)マザス刑務所(フラ ンス語版)に収容された後、シャルルヴィルに送り返された[4]。この後も数か月の間にさらに2回家出をし、北フランス、ベルギーを放浪しながら「わが放 浪」「みどり亭で」「戸棚」「冬の楽しみ」の他「谷間に眠る男」などの戦争に関する詩を書き続けた。うち22編を2冊の手帖に清書して、ドゥエ(オー=ド =フランス地域圏ノール県)滞在中にイザンバールを介して知り合った詩人ポール・ドメニー(フランス語版)に託した。これらは後に「ドゥエ詩帖(フランス 語版)」として知られることになる。

1871年5月13日付のイザンバール宛の手紙 と 1871年5月15日付のドメニー宛の手紙 は、後にランボーの詩人としての宣言文「見者の手紙」として知られることになる。「母音」と並んで最も多く論じられる詩「盗まれた心」を含むイザンバール 宛の手紙に、ランボーは次のように書いている。

私は考える、と言うのは誤りです。ひとが私を考える、と言うべきでしょう。洒落を言っている訳ではありませんが。私とは一個の他者なのです[9]。

「パリの軍歌」「ぼくのかわいい恋人たち」「うずくまって」の3編の詩が書かれ得たドメニー宛の手紙でランボーは「詩人たらんと望む者が第一に行うべき探 求は、自己を認識すること、完全に認識すること」であり、このためには、自己を拘束するすべての既成概念、常識、因習を捨て去り、意味に反する意味を模索 し、未知を体系的に探求し、精神・道徳・身体の限界を超えるべきであるとし、さらに次のように宣言する。

詩人は、あらゆる感覚の、長期にわたる、途方もない、筋の通った乱用によって、おのれを見者に作り上げるのです。あらゆるかたちの愛や苦悩や狂気でね。自 分自身を探求し、自分の中でいっさいの毒を汲み尽くし、その精髄だけを残しておくのです。これは言語を絶する苦悩ですよ。その場合彼には、欠くるところな き信念と、あらゆる超人的な力が必要になる。そして、何よりもまず、大いなる病者、大きなる罪人、大いなる呪われ人となる、—そして、至高の知者になるん です。―だって、彼は、未知のものに到達するんですからね!—彼が未知のものに到達し、そしてそのとき狂乱して、自分が見たものについての知的認識能力を 失ってしまったとき、はじめて彼は、それを真に見たと言えるのです[10]。

「見者の手紙」では、「見者」という観点から過去の詩人を評価・批判している。このなかで、ボードレールは「第一の見者、詩人たちの王、真の神」とされ、 高踏派の詩人ではアルベール・メラ(フランス語版)と「真の詩人」ポール・ヴェルレーヌが「見者」として挙げられている[11]。



高踏派の韻文詩「酔いどれ船」
同じ頃、ランボーは、シャルルヴィルの知り合いポール=オーギュスト(またはシャルル)・ブルターニュに、彼がパ=ド=カレー県アラスに近いファンプー (フランス語版)で出会ったポール・ヴェルレーヌに詩を送るよう勧められた。当時27歳のヴェルレーヌはすでに詩集『サテュルニアン詩集』『艶なる宴』を 出版し『現代高踏詩集』第2集にも詩を発表していた。早速、ヴェルレーヌに「びっくり仰天している子ら」「うずくまって」「税関吏」「盗まれた心」「坐っ ているやつら」の5編の詩を送り、返事を待ちながら「酔いどれ船」の執筆に取りかかった。9月中頃にヴェルレーヌから返事が届いた。ランボーの才能を見抜 いた彼は「やって来たまえ。偉大な魂よ、われらはきみを呼び、きみを待つ」とパリに来るよう勧めた。手紙には高踏派の詩人たちから集めた旅費が同封されて いた[12]。こうして1871年9月、ランボーは「酔いどれ船」を携えて上京し、ヴェルレーヌの義父母のもとに身を寄せることになった。このときラン ボーは17歳であった。

ヴェルレーヌは当時のランボーの印象を「人としては丈が高く、岩畳で、ほとんど力士の如くであった」「流竄天使のように完全に卵型の顔に櫛を入れない明る い栗色のブロンド、目は淡い藍色で穏やかならぬ光があった」と『呪われた詩人たち(フランス語版)』で語っている。この時のランボーの身長は173cmで (後のオランダ軍入隊時には177cm)骨格の大きい少年であった。

12音節4行詩節全100行の長編韻文詩「酔いどれ船」をヴェルレーヌは絶賛した。この自筆原稿は現存せず、このときヴェルレーヌが筆写した原稿だけが残 り、今日に伝えられることになった。この詩では、乗組員を失ってあらゆるものから解き放たれ、海に漂う船そのものが「私」であり、その精神世界であり、未 知の世界の壮大華麗、怪異なイメージに酩酊する「見者」としての詩人である[13][14]。まさに高踏派・象徴派のイメージであり、同時にまた、高踏派 の詩人らが否定する政治的、思想的なメッセージが込められている。大島博光は、同年3月から5月にかけて起こったパリ・コミューンに対するランボーの熱 狂、旧秩序との決別、そして最終的に勝利したブルジョワジーに対する批判を読み取っている[15]。


アンリ・ファンタン=ラトゥール作『テーブルの片隅』前列左よりヴェルレーヌ、ランボー、ヴァラード、デルヴィリー、ペルタン、後列左よりボニエ=オルトラン、ブレモン、エカール(1872年、オルセー美術館蔵)
ヴェルレーヌ、バンヴィルと知己を得たランボーは、さらに二人が参加する「ヴィラン・ボンゾム(フランス語版)(お人好しの破廉恥漢ども)」の前衛芸術 家・文学者らと知り合った。1869年に結成されたこのグループには、詩人、劇作家のレオン・ヴァラード(フランス語版)、エルネスト・デルヴィリー(フ ランス語版)、カミーユ・ペルタン(フランス語版)、エルゼアール・ボニエ=オルトラン(フランス語版)、エミール・ブレモン(フランス語版)、ジャン・ エカール(フランス語版)、フランソワ・コペ、アルベール・メラらのほか、写真家のエティエンヌ・カルジャ(フランス語版)、画家のアンリ・ファンタン= ラトゥール、風刺画家のアンドレ・ジルらが参加していた。だが、翌1872年の3月2日に開催されたヴィラン・ボンゾムの晩餐会で口論になり、ランボーが アルベール・メラの仕込み杖でカルジャの手を傷つけた。腹を立てたカルジャはそれまでに撮ったランボーの写真のネガを廃棄した。残ったのは今日ランボーの 写真として目にする1枚だけである。また、このとき、ファンタン=ラトゥールはヴィラン・ボンゾムの晩餐会の絵を描くことになっていたが、ランボーの粗暴 な振る舞いに嫌気がさしたアルベール・メラが同席を拒んだ。このため、彼が座るはずであった右端(作品名のとおり「テーブルの片隅」)には花瓶が置かれて いる[16]。

ヴェルレーヌとベルギー、ロンドン放浪
グループから追放されたランボーは一旦帰郷したが、まもなくパリに戻り、ヴェルレーヌとともにベルギー、ロンドンを放浪した。情熱的で波乱に満ちた関係の 始まりであった。ブリュッセルでは「さくらんぼの実る頃」を作詞したジャン・バティスト・クレマン(フランス語版)や劇作家ジョルジュ・カヴァリエ(フラ ンス語版)などパリ・コミューンの亡命者に度々会っている。これはロンドンでも同様で、同地に亡命したコミュナールのウジェーヌ・ヴェルメルシュ(フラン ス語版)、ジュール・アンドリュー(フランス語版)、カミーユ・バレール(フランス語版)、『1871年コミューン史』(1876年刊行)[17] を著したプロスペル=オリヴィエ・リサガレー(フランス語版)らに会っており、二人がいかに熱心に革命を支持していたかがわかる[18]。

だが、マラルメに「途轍もない通行者」と称されたランボー[19] と違って、ヴェルレーヌはパリに妻マチルドと息子ジョルジュを置き去りにしていた。1872年7月21日、ヴェルレーヌからの手紙で彼がブリュッセルにい ることを知ったマチルドは母親とともに同地に向かった。彼を連れ戻すためであった。彼は二人の懇願に応じていったんは列車に乗ったものの、国境のキエヴラ ン駅で通関手続きのために全乗客が下車した際に姿を消してしまった。これがマチルドとの最後の別れとなった。


フェリックス・レガメが描いたロンドンのヴェルレーヌとランボー(1872年)
二人は2か月にわたってベルギーを放浪した後、9月7日にロンドンに向かった。ヴェルレーヌの旧友で後に日本文化を紹介した画家のフェリックス・レガメが 当時ロンドンに滞在していた。彼もまたコミュナールで亡命中であったが、このとき、ロンドンの街をさまよい歩く二人を描いた素描を数枚残している [20]。たまにフランス語の家庭教師をする程度で定職のない二人は、ヴェルレーヌの母親からの送金に頼っていた。このような生活を描いた詩が「飢餓の祭 り」である[18]。

Rimbaud dessiné par Verlaine, en 1872.

1872年12月末にランボーは母親の忠告に従って、一旦シャルルヴィルに戻った。ロンドンに一人残ったヴェルレーヌが孤独に苛まれて書いた詩が、堀口大 學訳「巷に雨の降るごとく、わが心にも涙降る」で知られる詩である[18]。翌1873年1月に、ヴェルレーヌは母親に手紙を書き、病気のため会いに来て ほしい、またランボーにも旅費を送って会いに来るよう伝えてほしいと要求した。こうして再び二人の放浪生活が始まった。二人はロンドン市街地だけでなく、 郊外や田舎、ホワイトチャペルやイーストエンド地区のような貧民街もくまなく歩き回り、詩に表現した。散文詩集『イリュミナシオン』所収の「都市」は霧と 煙に覆われた「生なまの近代都市」ロンドンを描いた詩である[21]。

二人は幾度となく仲違いと和解を繰り返したが、ヴェルレーヌにとっては『言葉なき恋歌』(1874年刊行)、ランボーにとっては『地獄の季節』(1873 年刊行)、『イリュミナシオン』(1886年に一部刊行、没後1895年に全編刊行)の制作につながる実りの多い経験であった。だが、二人の生活は結局う まくいかなかった。酒浸りの日々、取っ組み合いの喧嘩、数々の修羅場を潜り抜けた二人は、ついに互いに傷つけ合うだけの関係になる。1873年4月11 日、ランボーは一人、母、兄フレデリック、妹ヴィタリーとイザベルがいる故郷のロッシュ農場に戻った。このとき、彼は長い放浪生活で消耗しきったうえに精 神的な危機に陥っていた。友人のエルネスト・ドラエー宛に書いた手紙には『異教徒の書』または『ニグロの書』を書いている「私の運命はこの書にかかってい る」とある[22]。同年に『地獄の季節』として出版されることになる詩集である。



ブリュッセル事件

ブリュッセル事件後のランボー(ジェフ・ロスマン作、1883年、アルチュール・ランボー博物館蔵)
1月ほどロッシュに滞在した後、1873年5月25日、再びヴェルレーヌとともにベルギー(リエージュ、アントワープ)を経てロンドンに向かった。相変わ らず主にヴェルレーヌの母親からの送金に頼りながら読書と詩作を続けたが、二人の反目は深まるばかりであった。これはたとえば「放浪者たち」(『イリュミ ナシオン』所収)などにも見て取れる。7月3日、ヴェルレーヌはランボーの嘲笑的な言葉に腹を立て、突然部屋を飛び出した。ヴェルレーヌはランボーとの関 係を終わりにして妻のもとに帰る決意をしていた。無一文のランボーを一人、船着き場に残し、ヴェルレーヌはアントワープ行きの船に乗った。ブリュッセルか らロンドンのランボー宛に別れの手紙が届いた。妻と復縁できなければ拳銃自殺するつもりだと書かれていた。7月8日、ランボーはブリュッセルに向かい、 ヴェルレーヌに再会。ヴェルレーヌと別れて一人パリに戻るつもりだと伝えた。7月10日、ヴェルレーヌは酔った勢いでランボーに向かって拳銃を2発発砲 し、1発がランボーの左手首に当たった。ヴェルレーヌは逮捕され、ランボーは弾丸摘出のためにサン=ジャン病院に入院した。7月20日に退院したランボー は、ロッシュに戻って『地獄の季節』の執筆に専念した。8月8日、ヴェルレーヌは2年の禁錮刑を受け、プチ=カルム、次いでモンス(ベルギー・ワロン地 域)の刑務所に収監された[23][24]。

1873年10月、『地獄の季節』の自費出版のために原稿を託していたブリュッセルのポート書店により同書が印刷、製本された。ランボー自身が出版に関 わった唯一の詩集である。だが出版費用の残金が支払われなかったために、そのほとんどが倉庫に眠り続けることになった[25][26]。

ロンドン、シュトゥットガルト
1874年3月から12月末までロンドンに滞在した。これまでのロンドン滞在でもそうだが、ランボーは読書のために大英博物館の図書館に通った。この間、 夏に母と妹ヴィタリーがロンドンを訪れている。当初は、かつてパリで活動をともにした詩人ジェルマン・ヌーヴォー(フランス語版)と渡英し、ヌーヴォーが 『イリュミナシオン』所収の詩の清書を手伝った。このため没後1895年出版のランボー全集所収の「失われた毒」と題する詩が、ヌーヴォー作ではないかと いう論争が起こった。ヌーヴォーは多くの偽名を使っていたため、事態はいっそう複雑であったが、現在では「失われた毒」はヌーヴォー作とされている [27]。邦訳では、中原中也訳『ランボオ詩集』(野田書房、1937年、青空文庫所収)には「失はれた毒薬(未発表詩)」として収められているが、これ 以降に邦訳された他の詩集には見当たらず、粟津則雄編『ランボオの世界』(青土社、1974年)にはヌーヴォーの詩「喪われた毒」として掲載されている。

1875年2月13日から独語の習得のためにシュトゥットガルトに滞在した。フランス語の家庭教師をしながらドイツ語を学び『イリュミナシオン』の原稿を 完成させた。3月2日、1月16日に出所したヴェルレーヌが、シュトゥットガルトのランボーを訪れた。ヴェルレーヌがランボーとの放浪中に書いた詩は、す でに1874年に『言葉なき恋歌』として出版されていた。ランボーは『イリュミナシオン』の原稿をヴェルレーヌに託し、ブリュッセルにいるヌーヴォーに 送って印刷してもらうように依頼した。この原稿はこの後多くの人の手に渡り、1886年にようやくその一部が文芸誌『ラ・ヴォーグ(フランス語版)』に掲 載された。ランボーがすでに詩作を放棄し、貿易商人としてアビシニア(現エチオピア)にいた頃のことであり、全原稿が発表されたのは、没後1895年刊行 のランボー全集においてである。

ヴェルレーヌとはこれが最後の別れとなった。

風の靴を履いた男
放浪 1875-78年
1875年以降、ランボーは詩を放棄し、各地を放浪しては病に倒れるなどしてシャルルヴィル(ロッシュ)に戻るという生活を繰り返した。1875年5月に シュトゥットガルトを発って徒歩でアルプス山脈を越えてイタリアに向かった。ミラノに着くと病に倒れ、回復後に中央イタリアに向かってさらに南下したが、 6月にリヴォルノのフランス領事によって本国に送還された。ヴェルレーヌ宛のドラエーの手紙によると、スペイン語の習得のためにスペインの軍隊に志願した が、断念してパリに向かった。パリを訪れた母、妹ヴィタリーとイザベルとともに過ごした後、10月にはシャルルヴィルに戻った。12月18日、妹ヴィタ リーが17歳で死去。

1876年4月にウィーン、5月にブリュッセルを経てロッテルダムに向かい、ハルデルウェイクで6か月にわたってオランダ領東インドに駐屯する予定の外人 部隊に入隊。部隊は6月にジャワ島に向かい、バタヴィア(現ジャカルタ)に到着したが、8月15日に脱走。パリを経て12月にシャルルヴィルに戻った。

1877年、5月中頃にブレーメンで米海軍に志願するが許可されず、ストックホルム、コペンハーゲンを経て12月にシャルルヴィルに戻った。1878年、 10月20日、ロッシュを発ってヴォージュ山脈を越えてスイス、ミラノを経てジェノヴァ港に到着[28]。同港からアレクサンドリア(エジプト)行きの船 に乗った。キプロス島ラルナカのエルネスト・ジャン&ティアル社に雇用され、採石場の現場監督を務めたが、腸チフスによる発熱のため、翌79年5 月にロッシュに戻った。秋にキプロスに戻るためにマルセイユに向かったが、再び発熱し、ロッシュに戻った[23]。

貿易商ランボー

風刺文芸誌『レ・ゾム・ドージュルデュイ』の表紙画(マニュエル・リュック作、1888年)
1880年5月に再びキプロス島に渡り、しばらく土木工事現場で働いた後、主に皮革やコーヒー豆を販売する現地のマズラン=ヴィアネ=バルデ商事に雇用さ れ、アデン(アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市)にある代理店に勤務することになった。12月初旬にバルデ商事がアビシニア(現エチオピア)のハ ラールに新設した代理店に着任するために、隊商とともに同地に到着。1881年から84年にかけて、ハラールとアデンを行き来しながら交易に従事する傍 ら、同地を探検した。

一方、1886年に『イリュミナシオン』の一部が文芸誌に掲載される2年前の1884年に、ヴェルレーヌの『呪われた詩人たち(フランス語版)』第1版が 出版された。「隠れた名」トリスタン・コルビエール、「ほとんど未知の名」アルチュール・ランボー、そして「無視された名」ステファヌ・マラルメを世に知 らしめることになった書物である[29]。ヴェルレーヌは本書「アルチュール・ランボー」の章に「母音」「夕べの祈祷」「坐っているやつら」「びっくり仰 天している子ら」「虱をとる女たち」「酔いどれ船」の全文とその他数編の抜粋を掲載した。とりわけ「Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑」と母音(文 字)を色彩で表現した「母音」は若い象徴派詩人の関心を呼び、大論争となった。1888年には風刺文芸誌『レ・ゾム・ドージュルデュイ(フランス語版)』 にランボーに関するヴェルレーヌの記事が掲載され、マニュエル・リュック(フランス語版)作の表紙画には、文字に色を塗るランボーが描かれている。


ハラールのランボー(1883年頃)Autoportrait photographique d'Arthur Rimbaud à Harar, envoyé dans une lettre à sa mère, 1883, musée Arthur Rimbaud
バルデ商事は経営難のためにアデン代理店、ハラール代理店を閉鎖し、新代理店再開後に再びランボーを雇用したが、彼は1885年10月にバルデ商事を辞職 し(1856年によりエチオピアに併合された)ショア(フランス語版)王国の貿易商ピエール・ラバチュと契約を締結し、紅海を渡ってタジュラ(ジブチ)に 着くと、ショアのメネリク2世との兵器取引のための隊商を編成した。様々な困難に遭い、タジュラを発ったのは翌86年の10月初めであった。隊商を率いて 4か月かけてアビシニアの砂漠地帯を越え、1887年2月6日にショア王国の首都アンコベールに到着した。だが、すでに同年1月6日にメネリク2世はハ ラールを併合して同地に住んでいたため、アンコベールから120キロ先のエントト山までさらに移動しなければならなかった。商取引は結局、失敗に終わった [30]。ランボーがハラール滞在中に住んでいた家は、現在も記念館として残されており、来館者は年間約26,000人、大半が外国人である[31]。

1887年7月末にアデンに戻り、その後、約5週間、カイロに滞在した。病気がちであったため仕事には就かず、地元紙やフランスの新聞などに旅行記やアビ シニアに関する記事を寄稿した。1888年に入ると再び兵器取引を企てたが失敗に終わった。フランス出身の貿易商セザール・ティアンと提携し、以後数年は 通常の商取引で生計を立てた。


妹イザベルが描いた瀕死のランボー(1891年)
1891年、数か月来、右膝の腫瘍に苦しんだ挙句、4月7日に担架でアラールからゼイラに運ばれ、船でアデンに移された。悪性腫瘍が疑われたために帰国。 5月にマルセイユに到着し、20日に同地のコンセプシオン病院に入院。25日に右脚切断の手術が行われた。7月に妹イザベルに付き添われてロッシュに戻っ た。8月23日に再びアデンに向かうためにイザベルとともにマルセイユ行きの列車に乗ったが、病状が悪化したため、コンセプシオン病院に再入院。半昏睡状 態が数週間続き、11月10日、全身転移癌により死去[23]、享年37歳。シャルルヴィルに埋葬された。



評価
ランボーは家出を繰り返して家族や大人の権威に反抗した詩人である。「ジャンヌ=マリの手」などに見られるようにパリ・コミューン、革命を支持して支配的 政治権力や、「音楽堂にて」のほか多くの詩に見られるようにブルジョワ道徳や既存の秩序に反抗し、そして韻文詩から散文詩、さらには自由詩へと文学の伝統 に反抗し、革命の精神を生きた[4]。

多くの評者がそれぞれの立場から多様な、時として矛盾するランボー論を著している。作家・文学研究者のルネ・エティアンブル(フランス語版)は、1952 年発表の『ランボー神話』において、すべての知識人がその思想、信条、趣味をランボーに負っていると評した[32]。カトリック詩人のポール・クローデル は、1912年刊行の『ランボー全集』の序文で、詩人ランボーのなかには「天使」が存在し、その作品世界は反逆児から見者、そして「神秘的な柔和さ」への 「信仰の道」であるとした[33]。一方、アンドレ・ブルトンは、1924年の「シュルレアリスム宣言」に、ランボーは「生き方においてもその他において もシュルレアリストである」と書いている。ランボーの言葉「私は一個の他者である」における「他者」とは、ブルトンにとって無意識の自我であり、したがっ て、ランボーの詩は自動記述の先駆である。ブルトン、スーポー、アラゴンが1919年に創刊したダダイスム、次いでシュルレアリスムの雑誌『リテラチュー ル (文学)』にも「淫猥詩篇」「ジャンヌ=マリの手」などランボーの詩が数編掲載された[34]。また、ブルトンが編纂した『黒いユーモア選集』でも紹介さ れている[35]。

日本においては明治末期の上田敏(『上田敏全訳詩集』[36])、永井荷風(『珊瑚集 ― 仏蘭西近代抒情詩選』から、昭和初期の小林秀雄、中原中也、戦後の堀口大學、金子光晴と、優れた文学者によって次々と紹介・翻訳された。これらの作家によ るランボー詩集は、現在でも改訂版・新装版が出されている。さらに、1960年代から70年代にかけて、思潮社から刊行された一連の粟津則雄訳のほか、人 文書院からは鈴木信太郎・佐藤朔監修『ランボー全集』全3巻が出版された。90年代には宇佐美斉訳『アルチュール・ランボー詩集』、清岡卓行訳『新編ラン ボー詩集』および青土社から平井啓之、湯浅博雄、中地義和共訳『ランボー全詩集』が加わった。

一方、小林秀雄は、詩を放棄したランボー、貿易商としてのランボーが残した書簡は「彼が往来した沙漠のように無味乾燥」であるとして、この時期の書簡を 2、3紹介しており[37]、実際「言葉の新たな可能領域への探検に乗り出すことは二度となかった」[38] としても、ランボーの「アフリカ書簡」から彼の全体像を理解しようとする研究も行われ、日本では鈴村和成の『書簡で読むアフリカのランボー』[39] の他、1988年にはアラン・ボレル(フランス語版)の『アビシニアのランボー』も邦訳されている。



作品
制作年順(正確に特定されていないものが多い)[5]

《初期散文習作》

プロローグ (Prologue)
シャルル・ドルレアンのルイ一世宛書簡 (Lettre de Charles d’Orléans à Louis XI)
僧衣の下の心 (Un cœur sous une soutane)
1869年

孤児たちのお年玉 (Les Étrennes des orphelins)
1870年 《前期韻文詩》

テオドール・ド・バンヴィル宛の手紙に書かれた詩
美しい夏の夜に(後に「感覚」と題する)(Par les beaux soirs d’été…)
オフィーリア (Ophélie)
一ナル女ヲ信ズ(後に「太陽と肉体 (Soleil et chair)」と題する)(Credo in unam)
ジョルジュ・イザンバールに送った詩
海の泡から生まれたヴィーナス (Vénus anadyomène)
三度接吻のある喜劇 (Comédie en trois baisers)
ニナを引き止めるもの (Ce qui retient Nina)
オフィーリア (Ophélie)
鍛冶屋 (Forgeron)
音楽堂にて (À la Musique)
ポール・ドメニーに託した《ドゥエ詩帖》
第一詩帖
ニナの返答 (Les Réparties de Nina)
海の泡から生まれたヴィーナス (Vénus anadyomène)
92年の死者たち (Morts de quatre-vingt-douze)
初めての宵 (Première soirée)
感覚 (Sensation)
首吊りの舞踏会 (Bal des pendus)
びっくり仰天している子ら (Les Effarés)
ロマン (Roman)
皇帝の怒り (Rages de Césars)
悪 (Le Mal)
オフィーリア (Ophélie)
タルチュフの懲罰 (Le Châtiment de Tartufe)
音楽堂にて (À la musique)
太陽と肉体 (Soleil et chair)
鍛冶屋 (Le Forgeron)
第二詩帖
冬の楽しみ (Rêvé pour l’hiver)
わが放浪 (Ma bohème)
戸棚 (Le Buffet)
ザールブルックの輝かしい勝利 (L’Éclatante victoire de Sarrebrück)
こまっちゃくれた娘 (La Maline)
みどり亭で (Au Cabaret-Vert)
谷間に眠る男 (Le Dormeur du val)
虱をとる女たち (Les Chercheuses de poux)
ビルマルクの夢(散文詩)(Le Rêve de Bismarck)
1871年

おれの心よ、いったいおれたちの・・・(Qu’est-ce pour nous, mon cœur ...)
ジョルジュ・イザンバール宛の手紙(見者の手紙1)に書かれた詩
拷問にかけられた心(「盗まれた心」)(Le Cœur supplicié)
ポール・ドメニー宛の手紙に書かれた詩(見者の手紙2)に書かれた詩
パリの軍歌 (Chant de guerre parisien)
ぼくのかわいい恋人たち (Mes petites amoureuses)
うずくまって (Accroupissements)
ポール・ドメニー宛の手紙に書かれた詩(6月10日付)
七歳の詩人たち (Les Poètes de sept ans
教会の貧者たち (Les Pauvres à l’église)
道化師の心(「盗まれた心」)(Le Cœur du pitre)
鐘楼 (Le Clocher)
年老いた王党派の愚痴 (La Plainte du vieillard monarchiste)
雑貨屋の愚痴 (La Plainte des épiciers)
テオドール・ド・バンヴィル宛の手紙に書かれた詩
花について詩人に語られたこと (Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs)
税関吏 (Les Douaniers)
盗まれた心 (Le Cœur volé)
坐っているやつら (Les Assis)
初聖体拝領 (Les Premières Communions)
パリの乱痴気騒ぎ、あるいはパリは再び大賑わい (L’orgie parisienne ou Paris se repeuple)
酔いどれ船 (Le Bateau ivre)
《ヴェルレーヌ詩帖》

正義の人 (L’Homme juste)
牧神の頭 (Tête de faune)
ジャンヌ=マリの手 (Les Mains de Jeanne-Marie)
母音 (Voyelles)
星は薔薇色に泣いた・・・(L’étoile a pleuré rose au cœur de tes oreilles)
夕べの祈り (Oraison du soir)
慈悲深い姉妹 (Les Sœurs de charité)
《淫猥詩篇》

昔の獣らは疾駆しながらも交尾した・・・(Les anciens animaux saillissaient)
おれたちの尻は女どもの尻とは違う (Nos fesses ne sont pas les leurs)
《アルバム・ズュティック》

偶像、尻の穴のソネット (Sonnet du Trou du Cul) ほか
1872年 《後期韻文詩》

恥 (Honte)
涙 (Larme)
カシスの川 (La Rivière de Cassis)
ミシェルとクリスティーヌ (Michel et Christine)
渇きの喜劇 (Comédie de la soif)
朝の良き思い (Bonne pensée du matin)
忍耐の祭り (Fêtes de la Patience)
五月の旗
いちばん高い塔の唄 (Chanson de la plus haute tour)
永遠 (Éternité)
黄金時代 (Âge d’or)
若夫婦 (Jeune ménage)
おお、季節よ、城よ (Ô saisons, ô chateaux)
飢餓の祭り (Fêtes de la faim)
聞け、牡鹿の切ない鳴き声のように (Entends comme brame)
記憶 (Mémoire)
彼女はエジプトの舞姫だろうか・・・(Est-elle almée ?...)
葉鶏頭の花壇がつづく・・・ (Plates-bandes d’amarantes jusqu’à …)
烏 (Les Corbeaux)
愛の沙漠 (s:fr:Les Désert de l’Amour/Les Désert de l’amour)
福音書による散文 (Proses évangéliques)
1873年

『地獄の季節』(Une saison en enfer)
かつては、私の記憶に狂いがなければ・・・(« Jadis, si je me souviens bien… »)
悪い血 (Mauvais sang)
地獄の夜 (Nuit de l’enfer)
錯乱 I - 狂気の処女、地獄の夫 (Délires I - Vierge folle. L'époux infernal)
錯乱 II - 言葉の錬金術 (Délires II - Alchimie du verbe)
不可能 (L’Impossible)
閃光 (L’Éclair)
朝 (Matin)
決別 (Adieu)
1872-1875年

『イリュミナシオン』
大洪水の後 (Après le Déluge)
子どもの頃 (Enfance)
おとぎ話 (Conte)
客寄せ芝居 (Parade)
古代風 (Antique)
美へのうごめき(ビーイング・ビューティアス)(Being Beauteous)
おお、灰白色の顔よ (Ô la face cendrée)
生活 (Vies)
出発 (Départ)
王権 (Royauté)
ある理性に (À une raison)
陶酔の午後 (Matinée d’ivresse)
断章 (Phrases)
労働者たち (Ouvriers)
橋 (Les Ponts)
都市 (Ville)
轍 (Ornières)
都市(いくつもの都市 !)(Villes « Ce sont des villes ! »)
放浪者たち (Vagabonds)
都市(公共のものである・・・)(Villes « L’acropole officielle »)
眠らない夜 (Veillées)
神秘的 (Mystique)
夜明け (Aube)
花 (Fleurs)
卑俗な夜想曲 (Nocturne vulgaire)
海の光景 (Marine)
冬の祭り (Fête d’hiver)
不安 (Angoisse)
首都の景観 (Métropolitain)
野蛮人 (Barbare)
妖精(フェアリー)(Fairy)
戦争 (Guerre)
売り出し (Solde)
青春 (Jeunesse
岬 (Promontoire)
献身 (Dévotion)
民主主義 (Démocratie)
場面 (Scènes)
歴史的な夕暮れ (Soir historique)
ボトム (Bottom)
H (H)
運動 (Mouvement)
精霊 (Génie)
夢(エルネスト・ドゥラエイ宛の手紙に記載)


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