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植民地科学と医療:人類学と慈善事業

Colonial Science and Medicine: Anthropology and Philanthropy

Anti-cholera Inocution in Caltutta in March 1894

Anti-cholera Inocution in Caltutta in March 1894, Simpson, W. J. (William John), Sir, 1855-1931.

池田光穂

2.  植民地科学と医療:Colonial Science and Medicine

2.3  人類学と慈善事業:Anthropology and Philanthropy

ロックフェラー財団は、1920年 以降英米を中心とした人類学者に研究基金を援助したこともまたよく知られている。当時財団は後に機能主 義人類学の指導的地位につくマリノフスキーやラドクリフ=ブラウンの理論に関心をよせていた。マリノフスキーはトロブリアンドで調査を行っていた当時から 民族誌調査の結果が「原住民」にふさわしい植民地統治に結びつくことを確信していた。1918年3月28日付の彼の『日記』は「統治のための民族誌研究の 価値」という論文構想について触れられている。彼は「土地所有、人材確保、健康、そして状況の変化(彼らを丘から引きづりおろすような)」の項目をあげ、 民族誌的調査の効用を「原住民の慣習を知ることで、彼らに対して共感を呼び、彼ら自身の観念によって彼らを導く」と述べている(Malinowski 1967:238)。マリノフスキーはその後、進化主義や伝播論にみられる学問的態度をあからさまに批判するようになり「現在の社会的関心」に力点をおい た実用人類学(Practical Anthropology)を標榜することになる(Malinowski 1929)。彼のこの提案はすでに1920年代の中頃には公に表明され、ロックフェラー財団に働きかけていたが、財団は学問的にも個人的にもマリノフス キーと反目関係にある伝播論の大御所エリオット・スミスに遠慮して、積極的な支援を見送っていた(Stocking 1992:193)。

しかしながら、機能主義人類学の旗手として1930年代には財団からの積極的な支援を受け、マリノフスキーはアフリカにおいて、彼の実用 人類学の実践を可能にした。植民地統治に関する調査を通して、彼は「原住民」の栄養問題に関心を寄せている。彼によると、現地の人びとの栄養状態はすでに 西欧文化との接触によって文化変容を受けている。そのために、現地の政治的、文化的状況にあわせて栄養状態を改善してゆくためには、人類学的な現地の情報 の収集がなされ、またそれが栄養改善計画のなかに積極的に活用されなければならない(Malinowski 1945)。このような「実用的な傾向」(practical bent)は、後には30年代から40年代のR・ファースやA・リチャーズなどの英国の植民地人類学者にみられる一般的な態度になってゆく(eg.  Firth 1934)。彼らは、文化相対主義的な眼をもって対象を知らなくては植民地行政は円滑に進まないと主張したが、とくに食事と衛生の問題に関心 をもった(キーシング 1975)。英国では人類学理論そのものが植民地統治の科学として組み込まれていると同時に、研究者たちはその実用においても還元可能、より積極的には還 元すべきものであるとみていた。

米国の応用人類学の起源にはいくつかの見解がある。リンド夫妻による『ミドルタウン』が公刊された1920年代末に遡れるという見解がそ のひとつである。リンド夫妻はフィールドで得られた知識を人びとの生活の改善に与する姿勢を表明していたからである。他方1930年代中頃のニューディル による不況の巻き返しの時期に、社会問題に対処する応用人類学という枠組みが出てきたという見解もある(Escobar 1991:652)。いづれにせよ20年代の終わりから30年代にかけての米国では、学問を社会に生かすべきであることは研究者のあいだでは一般的に受け 入れられていた。人類学においても、植民地、インディアン居留地、あるいは国内のマイノリティを対象とした行政、社会福祉という社会的な要請のもとに、文 化変容や同化の問題に対処する研究領域が確立されていった。30年代初頭のボアズ学派、例えばミードのサモア研究、ハースコビッツの黒人の自然人類学的研 究、カイネバークの黒人移民の知能研究など、は当時台頭しはじめた人種主義に対抗して科学理論を打ち立てるという野心があったが、それらをロックフェラー は支援した(Stocking 1992:186)。インディアン居留地では、近代医療が導入されて以降、人びとの宗教や信条にどのような影響を与えたか、さらには科学的な信条と伝統的 な信条の共存に関する民族誌的研究がおこなわれた(Leighton and Leighton 1945)。しかしながら文化変容の理論そのものは、戦後登場する技術変化論とはことなり、いまだ「歴史的個別主義」にとどまるものであった (Redfield et al. 1936)。米国では人類学調査はもっぱら国内が中心であり、海外植民地の統治の科学よりも文化相対主義にもとづく「科学的」理解に力点がおかれていた。


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★ クレジット:「健康の開発」史——医療援助と応用人類 学、文学部論叢(地域科学編),第49号,pp.41-72, 熊本大学文学会,1996年2月

リ ンク

引用参考文献

クレジット:「健康の開発」史——医療援 助と応用人類 学、文学部論叢(地域科学編),第49号,pp.41-72, 熊本大学文学会,1996年2月

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