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政策としての医療援助:第二次大戦と米国応用人類学

Medical Aid as an International Politics: World War II and Applied Anthropology in the United States

Anti-cholera Inocution in Caltutta in March 1894

Anti-cholera Inocution in Caltutta in March 1894, Simpson, W. J. (William John), Sir, 1855-1931.

池田光穂

3.  政策としての医療援助:Medical Aid as an International Politics

3.1  第二次大戦と米国応用人類学:World War II and Applied Anthropology in the United States

米国の応用人類学会は1941年に 創設された。1930年代後半以降、米国では科学者のあいだで学問的研究と科学者の社会的責務について 明白に意識されていたことはすでに述べた。第二次大戦時においてはその傾向がさらに強まり米国の人類学者の戦時協力は高い時で全体の9割以上に達した (Johannsen 1992:72)。R・ベネディクトは1939年に未開人の食物と食習慣に関する共同研究をおこなっていた。彼女は当時、栄養問題の解決に人類学的知見を 動員することに関心を寄せていた農務省のM・ウィルソンと接触し、国防を円滑に遂行するための総合的な栄養政策の必要性を説いていた(カフリー 1989:459-461)。彼女は1941年のウィルソン宛の手紙の中で、食料の配給、学校給食、ミルクやオレンジの有効利用を主張した。ウィルソンの 後押しもあって米国の国家研究会議(National Research Council)はR・ベネディクト、J・クーパー、M・ミードなどからなる食習慣委員会(Committee on Food Habits)を1942年に召集した。この委員会は、異なった土地において米国人が新しい食習慣の受容や栄養学的に有用な食物受容に関する答申をおこ なったほかに、人類学的な理論にもとづく食習慣研究マニュアルを作成した。日本の敗戦後の1946年10月にGHQが学校給食の実施を指示し、迅速に計画 を実行できたのは、このような研究成果があったからである。占領政策では、ほかに保健所法の1947年全面改正によって衛生行政を内務省から厚生省に移管 したり、保健所を全国に設置した(サムス 1986)。

米国政府がラテンアメリカ各国に技術援助の中に保健計画を組み込んだのは、応用人類学会の創設の翌年の1942年である(Foster and Anderson 1978:7)。政府は、インター・アメリカン事情研究所(Institute of Inter-American Affairs)を通して、戦争遂行のための情報収集と連合国の連帯強化を目的として、ラテンアメリカ各国への保健援助を計画した。この計画にはG・フォ スター、R・アダムス、C・エラスマスなどの戦後の医療援助に発言力をもつようになる人類学者たちが雇用された。地域に保健センターを設置し、環境衛生、 保健教育、マラリア防除などの活動をすることが計画の骨子だった。人類学者の仕事は計画に参加するとともに、保健センター設置の評価をおこなうことであっ た。米国がラテンアメリカでとった保健計画は、それまでの植民地における保健施策とは根本的に異なっていた。植民地住民は宗主国から「保護」される従属的 な対象とされていたのだが、米国がおこなったことは軍事力を背景にしながら人類学者が現地の人と「協力」するという先駆的モデルをつくりあげたことにある (Hill 1991:15)。


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★ クレジット:「健康の開発」史——医療援助と応用人類 学、文学部論叢(地域科学編),第49号,pp.41-72, 熊本大学文学会,1996年2月

リ ンク

引用参考文献

クレジット:「健康の開発」史——医療援 助と応用人類 学、文学部論叢(地域科学編),第49号,pp.41-72, 熊本大学文学会,1996年2月

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