ジョセフ・ニーダム『文明の滴定』考
Joseph Needham's The
grand titration : science and society in East and West, 1969
☆ノ エル・ジョゼフ・テレンス・モンゴメリー・ニーダム(Noel Joseph Terence Montgomery Needham, 1900年12月9日 - 1995年3月24日)は、イギリスの生化学者・科学史家。コンパニオンズ・オブ・オーナー勲章勲爵士(CH)、王立協会フェロー(FRS)、イギリス学 士院フェロー(FBA)。中国科学史の権威で、1983年11月29日に中国社会科学院より名誉博士号が授与される。中国では李約瑟(拼音: Lǐ Yuēsè)という中国名で知られる。ライフワークであった大著『中国の科学と文明』は中国文明のみならず非ヨーロッパ文明に対する知識人の見方を一変さ せるほどの衝撃を西洋世界にもたらした[1] [未公開版:grand_titrationXYZ.html]。
Joseph Needham in his office in Caius College Cambridge 1965
☆1900 年、ロンドンに医師の子として生まれる。ケンブリッジ大学で医学を専攻。在学中、ノーベル賞受賞者のフレデリック・ホプキンズとの邂逅をきっかけに生化学 を志し、発生生化学者の権威となった。1930年代後半より中国における科学発達史に関心を持ち始め、1942年から1945年まで蔣介石政府の科学顧問 として重慶に滞在した[2]。帰国後、ジュリアン・ハクスリーの推薦で国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の創立にかかわり、その自然科学部門を2 年間担当した[3]。1948年にケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに戻り、以後、前人未踏の中国科学史の研究に没頭する。『中国の 科学と文明』の最初の巻は1954年に出版された。当初7巻で完結する計画であったが[4]、実際にははるかに巨大になった。ケンブリッジ大学内のニーダ ム研究所で編纂が続けられ[5]、1995年の没時までに計16冊が出版され、12冊分はニーダム自身[2]によるもので、没後も出版が続けられた。 1965年、ニーダムはケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長に選出された。
☆
ニーダムは若いころからキリスト教社会主義者であり、また中国に対する関心は1949年の中華人民共和国成立後も続けられた。ニーダムは1952年に中国
政府からの朝鮮戦争の調査依頼を受け入れ[6]、北朝鮮と中国で米軍が生物兵器を使ったと証言したことが論争を呼んだ[7]。ニーダムは米国政府によって
1970年代までブラックリストに載せられており、2008年にニーダムの伝記[8]を著したサイモン・ウィンチェスターは、共産主義に共感を寄せたニー
ダムを共産主義者が利用したと論評した[9]。1964年には周恩来と会見し[10]、1965年には英中相互理解協会(英語版)を設立した[10]。
| 文明の滴定 : 科学技術と中国の社会 / ジョゼフ・ニーダム
[著] ; 橋本敬造訳, 東京 : 法政大学出版局 , 1974.6. - (叢書・ウニベルシタス ; 50): Noel Joseph Terence
Montgomery Needham, The grand titration : science and society in East
and West. 未公開ページ:grand_titrationXYZ.html | ||
| 第1章 中国科学の伝統における貧困と勝利 第2章 中国科学の世界への影響 第3章 科学と社会の変化について 第4章 古代中国における科学と社会 第5章 中国における科学技術と社会の関係 第6章 東と西の科学と社会 第7章 時間と東洋人 第8章 人間の法と自然の法則 Introduction page II I. Poverties and Triumphs of the Chinese Scientific Tradition I4 2. Science and China's Influence on the World 55 3. On Science and Social Change I23 4. Science and Society in Ancient China I54 5. Thoughts on the Social Relations of Science and Technology in China I77 6. Science and Society in East and West I90 7. Time and Eastern Man 218 8. Human Law and the Laws of Nature 299 CHRONOLOGY OF CHINA 332 INDEX 335 PLATES between pages 128-9 | ||
| 以下では、ヨーロッパの科学・発明の伝統と対比させながら、中国固有の
科学・発明の伝統の成長と発展における長所と短所のいくつかを記述しようとする。このタイトルの着想は、もちろん、前世紀のフランスの作家たちが生み出し
たある有名な言葉に由来する。私が言及しているのは、アルフレッド・ド・ヴィニーが書いた軍人生活の「Servitudes et
grandeurs(屈従と栄光)」、そして後にオノレ・ド・バルザックによって不朽のものとなった遊女たちの「Splendeurs et
misères(栄華と悲惨)」である。東西を問わず、旧世界のさまざまな地域において、人間による自然の理解と支配が辿った道のりを振り返れば、その長
所と短所は今やはっきりと見て取れる。私の目的は、純粋科学および応用科学における中国とヨーロッパの伝統の顕著な対照のいくつかを記述し、次に古典中国
社会における科学者や技術者の立場について述べ、最後に哲学、宗教、法、言語、そして商品の生産と交換という具体的な状況に関連して、科学の特定の側面に
ついて論じることである。 | ||
| まず第一に、古代・中世の科学と、現代科学との異なる点を明確に定義す
ることが不可欠だ。私はこの二つを明確に区別している。ルネサンス後期、ガリレオの時代に近代科学が西ヨーロッパでのみ発展したと言うとき、それは確か
に、当時、その地においてのみ、今日の自然科学の構造の根本的な基盤――すなわち、自然への数学的仮説の適用、実験法の完全な理解と活用、一次的性質と二
次的性質の区別、空間の幾何学的捉え方、そして現実の機械論的モデルの受容――が形成されたことを意味するのだ。原始的あるいは中世的な仮説は、近代的な
仮説とは極めて明確に区別される。それらの本質的かつ根幹的な曖昧さゆえに、証明も反証も常に不可能であり、空想的なグノーシス的相関体系へと結びつきが
ちであった。数値が組み込まれていたとしても、その数字は「数秘術」やア・プリオリに構築された数秘神秘主義の形式で操作されており、後験的に比較される
定量的測定の材料として用いられていたわけではない。我々は、原始的および中世の西洋科学理論――アリストテレスの四元素、ガレノスの四体液、気体生理学
および病理学の教義、アレクサンドリアの原始化学における相性・相性不和、錬金術師の「トリア・プリマ」、そしてカバラの自然哲学――を知っている。他
方、他の文明における対応する理論――例えば、陰陽という二つの根本的な力に関する中国の理論や、五行説、あるいは象徴的相関関係の精巧な体系――につい
ては、我々はあまりよく知らない傾向にある。西洋においては、レオナルド・ダ・ヴィンチは、その輝かしい発明の天才性を持ちながらも、依然としてこの世界
にとどまっていた。一方、ガリレオはその壁を打ち破った。だからこそ、中国の科学技術は遅くまで本質的に「ヴィンチ的」なままであり、ガリレオ的な突破口
は西洋でのみ開かれたとされてきたのだ。これが我々の第一の出発点である。 | ||
| 数学との融合によって普遍化されるまでは、自然科学は全人類の共有財産
とはなり得なかった。中世世界の科学は、それが生まれた民族的環境と密接に結びついており、異なる文化を持つ人々が言説の共通基盤を見出すことは、不可能
ではないにせよ、極めて困難であった。とはいえ、社会学的に極めて重要な発明が、ある文明から別の文明へと――実際には主に東から西へと――自由に広まる
ことがなかったわけではない。しかし、民族的に結びついた概念体系間の相互理解の欠如は、科学的アイデアの領域における接触や伝達を著しく制限していた。
これが、技術的要素が旧世界の隅々まで広く普及した一方で、科学的要素の大部分はそうならなかった理由である。 | ||
| とはいえ、異なる文明の間には、極めて重要な科学的交流が存在した。科
学技術の歴史において、旧世界は一つの全体として捉えられなければならないことは、今や明らかだろう。アフリカでさえ、その範囲内に含まれていた可能性が
ある。しかし、この普遍的な視点に立つと、大きなパラドックスが浮かび上がる。な
ぜ、自然に関する仮説の数学化であり、高度な技術へのあらゆる含意を伴う近代科学が、ガリレオの時代に西欧でのみ彗星のごとく台頭したのだろうか[Why did modern science, the mathematization
of
hypotheses about Nature, with all its implications for advanced
technology, take its meteoric rise only in the West at the time of
Galileo?]。これは多くの人が問いかけてきたが、答えを出した者はほとんどいない、最も明白な疑問である。しかし、これと全く同等
の重要性を持つ別の疑問もある。なぜ紀元前2世紀から紀元後16世紀にかけて、東アジアの文化は、自然に関する人間の知識を実用的な目的に応用する点にお
いて、ヨーロッパの西洋よりもはるかに効率的だったのだろうか。思想体系の大きな役割を忘れずに、東洋と西洋の文化の社会的・経済的構造を分析して初め
て、これら両方の事象に対する説明が最終的に導き出されるだろう。 | ||
| 伝統的な中国における科学技術のあり方 | ||
| 中国の科学という川が、他のあらゆる川と同様に、現代科学という海に流
れ込む以前から、数学の分野では目覚ましい成果が挙げられていた。十進法の位取りやゼロを表す空白は、黄河の地で他のどの地域よりも早く生まれ、それに
伴って十進法の計量法も発展していた。紀元前1世紀には、中国の職人たちは、十進法で目盛りが付けられたスライド式ノギスを使って作業の精度を確認してい
た。中国の数学的思考は常に幾何学的ではなく、極めて代数的なものであり、宋・元時代(西暦12~14世紀)には、中国学派が方程式の解法において世界を
リードしていたため、パスカルの名で知られる三角形は、西暦1300年の中国ではすでに古くから知られていた。この種の例は数多く見られる。我々がカルダ
ン式サスペンションとして知る、連結され軸で回転するリングのシステムは、カルダンの時代より1000年も前に中国で一般的に使用されていたのだ。天文学
に関しては、ルネサンス以前、中国人が天体現象について最も粘り強く、かつ正確な観測を行っていたと述べるだけで十分だろう。幾何学的な惑星理論は中国で
は発展しなかったものの、彼らは先進的な宇宙論を構築し、現代の座標系を用いて天球図を作成し、日食、彗星、新星、流星などの記録を残した。これらの記録
は、例えば今日の電波天文学者にとっても依然として有用である。天文機器の目覚ましい発展も起こり、赤道儀やドック駆動の発明などが含まれていた。そし
て、この発展は当時の中国技術者たちの能力に密接に依存していた。彼らの技術は地震学などの他の科学分野にも影響を与えた。というのも、西暦130年頃に
最初の実用的な地震計を製作したのは、中国の科学者である張衡だったからである。 | ||
| 古代および中世の中国では、物理学の3つの分野――光学、音響学、磁気
学――が特に高度に発達していた。これは、力学や動力学は比較的進んでいたものの、磁気現象はほとんど知られていなかった西洋とは著しい対照をなしてい
た。しかし、中国とヨーロッパの最も根本的な違いは、おそらく「連続性」と「不連続性」をめぐる大論争にあった。中国の数学が常に幾何学的ではなく代数的
なものであったのと同様に、中国の物理学も原初的な波動説に忠実であり、一貫して原子論を忌避していたからである。こうした好みの違いは工学の分野にも見
出すことができる。古典時代の中国の技術者は、車輪を水平に取り付けることができる場合は常にそうしていたのに対し、我々の先人たちは垂直設置を好んだ。
水車や風車がその典型的な例である。 | ||
| 中国の成果とヨーロッパの成果を比較する際によく見られる傾向として、
ギリシャ人と同時代の周・晋・漢の中国人は、ギリシャ人ほどの高度な水準には達しなかったものの、その後の数世紀において、中国にはヨーロッパの「暗黒時
代」に相当する時期は存在しなかった。これは地理学や地図学の分野において、かなり顕著に表れている。中国人は円盤状の宇宙図的な世界地図の存在を知って
いたものの、決してそれに支配されることはなかった。中国における定量的地図作成は、プトレマイオスの著作が忘れ去られつつあった頃、つまり彼の死後まも
なく、張衡や費秀によって始まったが、西暦17世紀にイエズス会士が到来するまで、直交座標系を一貫して用いて着実に続けられた。中国人はまた、高度な測
量法や起伏図の作成においても、この分野で非常に早い段階から取り組んでいた。地質学や気象学においても、同様の傾向が見られる。 | ||
| 機械工学、ひいては工学全般は、中国の古典文化が特筆すべき成果を収め
た分野であった。馬に効率的に装着する轡の形態――これは金具細工の問題である――はいずれも中国文化圏に起源を持ち、また水力発電が産業に初めて利用さ
れたのも、西洋とほぼ同時期(西暦1世紀)であった。ただし、その利用目的は穀物の粉砕というよりは、製錬用のふいごの駆動にあった。中国における鉄鋼技
術の発展はまさに壮大な物語であり、鋳鉄技術の習得は、ヨーロッパでそれが達成される約15世紀も前に成し遂げられていた。一般的な通説とは異なり、機械
式時計の発祥はルネサンス初期のヨーロッパではなく、東アジア文明が極めて農業中心であったにもかかわらず、唐代の中国であった。土木工学においても多く
の非凡な成果が見られ、特に鉄鎖吊り橋(図I)や、世界初のセグメンタルアーチ構造(図版12)である、西暦610年に李淳によって建設された壮麗な橋が
挙げられる。水力工学は、河川保全(洪水や干ばつへの対策)、灌漑、および税穀の輸送のために水路を管理する必要性から、中国では常に重要な位置を占めて
いた。軍事技術においても、中国人は顕著な独創性を示した。火薬の最初の登場は西暦9世紀の中国であり、西暦1000年以降、爆発性兵器はヨーロッパに現
れる約3世紀も前に、活発に開発が進められた。おそらく最も重要な発明は、西暦12世紀初頭に登場した「火槍」であろう。これは、竹の筒に詰められたロ
ケット用火薬を近接戦闘用の武器として用いたものである。その後のあらゆる材質で作られた銃身式銃や大砲は、間違いなくこれに基づいて開発されたものであ
る。技術の他の側面も重要であり、特に中国人が極めて早い時期から卓越していた絹の技術が挙げられる。ここで、極めて長い繊維を持つ紡織繊維の習得が、駆
動ベルトやチェーン駆動といった極めて重要な技術装置の発展につながったようだ。また、回転運動を直線運動に変換する標準的な方法が最初に現れたのは、前
述の冶金用送風機の後の形態に関連してであったことも示すことができる。紙の発明、木版印刷、活版印刷といった他のよく知られた発明や、磁器に関する驚く
べき歴史については、ここでは割愛せざるを得ない。 | ||
| 生物学の分野においても遅れは見られず、ここには古くから生まれた多く
の農業上の発明が見られる。他の分野と同様、同時代のヴァロやコルメッラといったローマ人の著作と並ぶ文献が存在する。紙幅が許せば、植物保護の例を挙げ
ることができ、そこには害虫に対する生物的防除の最古の事例も含まれるだろう。医学は、あらゆる時代を通じて中国人の関心を惹きつけ、その独自の才能に
よって発展を遂げた分野であり、その方向性は、おそらく他のどの分野よりもヨーロッパとは大きく異なる。ここでは、ただ一つの注目すべき事実、すなわち、
中国人は西洋で顕著だった鉱物療法に対する偏見から自由であったという点を指摘するにとどめるしかないと思う。彼らは、ガレノスの教えによる眠りから目覚
めさせるためにパラケルススを必要としなかった。なぜなら、そもそもそのような教えに触れたことがなかったからだ。また、彼らは接種技術の最大の先駆者で
もあった。 | ||
| 中国と西洋の対照 | ||
| それでは、私がすでに言及したいくつかの大きな対照について、さらに詳
しく検討していこう。まず第一に、中国の「哲学の永続性(philosophia
perennis)」が有機的唯物論であったことは、極めて詳細に立証できる。これは、あらゆる時代の哲学者や科学思想家たちの言説から裏付けることがで
きる。機械論的な世界観は、中国の思想においてはそもそも発展しなかった。その一方で、あらゆる現象が階層的な秩序に従って互いに結びついているという有
機論的見解は、中国の思想家たちの間で普遍的であった。とはいえ、それにもかかわらず、すでに触れた地震計のような偉大な科学的発明が現れることを妨げる
ことはなかった。ある点においては、この自然哲学がむしろ助けになった可能性さえある。宇宙に有機的な秩序が存在するとすでに確信していた者にとって、磁
石が極を指すことはそれほど奇妙でも驚くべきことでもなかった。もし、実際にそうであったように、ヨーロッパ人が磁極の存在すら知らなかった時代に、中国
人がすでに磁気偏角について頭を悩ませていたとすれば、それはおそらく、作用が生じるためにはある個別の物体が別の物体に影響を及ぼす必要があるという考
えに、彼らが縛られていなかったからである。言い換えれば、彼らはア・プリオリに「場」の理論に傾倒しており、この傾向こそが、彼らが潮汐の原因について
これほど早く正しい概念に到達した理由でもあるかもしれない。三国志の時代という早い時期から、広大な空間を隔てて物理的な接触なしに遠隔作用が起こると
いう驚くべき記述が見られるのだ。 | ||
| 繰り返しになるが、すでに述べたように、中国の数学的思考と実践は、一
貫して代数的なものであり、幾何学的なものではなかった。彼らの間ではユークリッド幾何学が自発的に発展することはなく、これは光学分野における進歩を間
違いなく阻害する要因となった。もっとも、光学の分野においては、光線が眼から発せられるという、かなり荒唐無稽なギリシャの考え方に、彼らが足を引っ張
られることは決してなかった。ユークリッド幾何学はおそらく元(モンゴル)時代に中国に伝来したが、イエズス会の到来まで定着することはなかった。とはい
え、こうした事情は、偉大な工学上の発明の成功を妨げるものではなかった。すでに2つ挙げたが、それは、偏心輪、コネクティングロッド、ピストンロッドを
用いて回転運動と直線運動を相互変換する極めて有用な方法と、最古の形態の機械式時計の完成である。これには、脱進機の発明が関わっていた。すなわち、一
連の歯車の回転を遅らせる機械的な手段であり、それによって人類の主要な時計である、天体の見かけ上の日周運動と歩調を合わせるためである。この点に関し
て興味深いのは、中国の実践が、一見するとそう思われるかもしれないが、純粋に経験的なものではなかったということだ。西暦1065年に開封で蘇頌が巨大
なドックタワーを成功裏に建設するに先立ち、その助手である韓公連が特別な理論的論考を執筆しており、そこでは第一原理に基づいて歯車列や一般的な機構が
導き出されていた。同様の試みは、西暦8世紀初頭、1-HsingとLiang
Ling-Tsanによるこの種の時計の最初の発明の際にも行われていた。これは、バーチ・アンド・フォリオット式脱進機を備えた最初のヨーロッパの機械
式時計が登場する6世紀も前のことである。さらに、中国にはユークリッドのような人物はいなかったが、それにもかかわらず、中国人は、現代天文学を完全に
席巻し、今日では世界中で使用されている天体座標を開発し、一貫して採用した。また、そこに設置できるのは照準管だけであり、まだ望遠鏡など存在しなかっ
たにもかかわらず、その結果として赤道儀を精巧に作り上げた。 | ||
| 第三に、波動と粒子の対立がある。秦・漢時代以降、中国人が関心を寄せ
てきた典型的な波動理論は、陰と陽という二つの基本的な自然原理の永遠の盛衰と結びついていた。西暦2世紀以降、特に仏教を通じてインドとの交流により、
原子論が幾度となく中国に導入されたが、それらは中国の科学文化に根付くことはなかった。とはいえ、この粒子論の欠如は、西洋で注目される何世紀も前に雪
の結晶の六角形構造を認識したといった、中国人の驚くべき成果を妨げるものではなかった。また、唐・宋・元の錬金術に関するいくつかの論著に見られるよう
に、化学的親和性に関する知識の基礎を築く上でも、それが障害となることはなかった。そこでは、粒子論的概念の欠如は、本来なら予想されたほど大きな阻害
要因にはならなかっただろう。なぜなら、これらの理論が近代化学の台頭にとって極めて基礎的なものとなったのは、結局のところヨーロッパのルネサンス期以
降のことだったからである。 | ||
| 中国人は根本的に実用的な民族であり、あらゆる理論を疑う傾向があった
という見解に、私は全面的に反対するつもりはない。しかし、この見解を過度に推し進めることには注意が必要だ。なぜなら、西暦11世紀、12世紀、13世
紀の北儒学派は、ヨーロッパのスコラ哲学の統合と奇妙なほど時期を同じくして、見事な哲学的統合を成し遂げたからである。また、中国人が理論、とりわけ幾
何学的な理論に取り組むことを嫌ったことは、ある種の利点ももたらしたと言えるだろう。例えば、中国の天文学者たちは、エウドクソスやプトレマイオスのよ
うに天体について推論することはなかったが、中世ヨーロッパを支配していた「水晶の天球」という概念を回避することはできたのだ。奇妙な逆説だが、16世
紀末にマッテオ・リッチが中国を訪れた際、彼はある手紙の中で中国人が抱く数々の愚かな考えについて言及しており、その中でも特に際立っていたのが「彼ら
は結晶状の天球を信じていない」という事実であった。そして間もなく、ヨーロッパ人もまたそれを信じなくなっていった。さらに、この根本的な実用主義は、
容易に満足する精神を意味するものではなかった。古典的な中国文化においては、極めて綿密な実験が行われていた。例えば、風水師たちが磁針の位置に細心の
注意を払っていなければ、磁気偏角の発見はあり得なかっただろう。また、陶磁器産業の偉業は、かなり正確な温度測定と、窯内の酸化・還元条件を意のままに
繰り返す手段がなければ、決して達成され得なかった。これらの技術的詳細に関する文献が比較的少ないという事実は、優れた職人たちが確かに記録を残してい
たにもかかわらず、その公表を妨げた社会的要因に起因する。『木経』(後ほど再び触れる)のような書名として残っているものや、福建の造船技師の手引書の
ような写本として残っているものなど、十分な資料が残っており、こうした文献が存在したことを示している。 | ||
| 伝統的な中国における科学者・技術者の社会的地位 | ||
| ここで、中国の封建官僚社会における科学者、技術者、職人の社会的地位
について触れておく必要がある。真っ先に思い浮かぶのは、純粋科学も応用科学も、比較的「公的」な性格を持っていたという点だ。よく指摘されているよう
に、天文学者は、ギリシャの都市国家のように社会の慣習の周縁に立つ市民ではなく、時には皇宮の一部に居を構え、官僚機構の不可欠な一部である局に所属す
る公務員であった。知的レベルがやや低いとはいえ、職人や技術者たちもまた、この官僚的な性格に加わっていたことは間違いない。その理由の一つは、ほぼす
べての王朝に精巧な宮廷工房や兵器庫が存在したこと、もう一つは、少なくとも特定の時期においては、最も先進的な技術を有する職業が「国有化」されていた
ことにある。前漢時代の塩鉄令がその例である。また、技術者たちが、彼らを奨励し、個人的な門下生として支援する有力な高官の周りに集まるという強い傾向
も見られる。同時に、時代を通じて、庶民によって、そして庶民のために独立して行われる手工芸生産の広大な領域が常に存在していたことは疑いようがない。
初期の水車や初期の機械式時計のような、大規模で新規、あるいは異常に複雑な機械が製造されたり、傑出した大規模な土木工事が行われたりした際には、これ
らすべてが宮廷の工房で行われたか、あるいは高官の厳重な監督下で行われたことは間違いない。宮廷の工房には多くの名称があったが、その中でも「尚房」が
最も一般的だった。時折、これらの工房で働いていた職人たちの名前が後世に伝わっている。例えば、紀元前4年に相当する日付が記された黒漆の箱の蓋に刻ま
れた銘文があるが、これは7人の技術者に対して5人もの管理者の名前が記されているという点で、極めて興味深い。古代中国においても、すでに「パーキンソ
ンの法則」のようなものが現れていたと結論づけられるだろう。 | ||
| 帝国の工房は、歴代王朝の首都だけでなく、行政網の要となる最も重要な
地方都市にも置かれていた。比較的民間部門においては、特定の地域が、天然資源の産地へと集中する傾向のある技術によって名声を博した。例えば、福州の漆
職人、景徳鎮の陶工、あるいは四川省の慈流井の(塩水や天然ガスを掘る)井戸掘り職人などが挙げられる。しかし、中国の技術は広範囲に広がっていく傾向が
あった。西暦2世紀のパルティアやフェルガナには中国の冶金技師や井戸掘り職人がおり、西暦8世紀のサマルカンドには中国の織工や製紙職人がいた。人々は
常に中国の技術者を求めていた。例えば、西暦1126年に金朝のタタール人が宋の首都・開封を包囲した際、あらゆる種類の職人が人質として要求され、遅く
とも西暦1675年には、ロシアの使節団が中国の橋梁建設者をロシアに派遣するよう公式に要請している。 | ||
| 身分に関する問題は極めて難解であり、現在もなお調査が進められてい
る。これまで言及してきた技術労働者の大半は、自由な平民(シュージェンまたはリャンジェン)であった。富の生産者として奴隷や半奴隷的な人々が言及され
るのはごく稀なケースに限られる。実際、漢代の製塩所のように、特定の古典の記述では自由な労働者が明記されている。もちろん、政府主導の生産の規模が時
によってどうであれ、国家は賦役(ヤオまたはコンユ)という形で、尽きることのない無償の強制労働に依存していた。漢代においては、20歳から56歳まで
のすべての男性平民が、年に1ヶ月の労役義務を負っていた。熟練労働者は、帝国の工房や国有工場でこの義務を果たしたが、これらの施設の主要な労働力は決
して奴隷ではなかった。やがて、労役に代わる賦役金の納付という慣行が定着し、その結果、「常勤の職人」(常商)という大規模な集団が生まれた。奴隷また
は準奴隷的な地位にある人々の間には、確かに一定数の職人がいたが、中国の歴史上のいかなる時期においても、その割合が10パーセントを超えたことは極め
て疑わしい。中国文明における隷属的・半隷属的地位の問題は依然として活発に議論されているが、ほとんどの西洋の学者は、それが常に主に家庭内での性格を
帯びており、その階級は刑罰的な過程によって形成されたと信じている。囚人となることは、数年間あるいは終身、国家に「隷属する」ことを意味し、その期間
終了後、囚人は高官の邸宅、あるいは皇室の工房や国営工場に配属されることとなった。 | ||
| 現在進行中の研究は、中国古典社会における奴隷制、準隷属状態、自由労
働、および賦役制度の実態について多くの知見をもたらすだろう。最終的にどのような結論に達するにせよ、古代および中世中国の労働条件が、ヨーロッパやイ
スラム圏で生まれたものよりもはるかに先行する一連の「省力化」発明の妨げにはならなかったという事実には、すでに注目せざるを得ない。この点について
は、後ほど改めて触れることにする。まず、古代および中世中国社会の著名な科学者や技術者の生涯が、おおむねどのような主要なカテゴリーに分類されるかに
ついて概観したい。こうした生涯は五つのグループに分類できる。第一に、高官、すなわち成功し実り多いキャリアを築いた学者たち。第二に、平民。第三に、
半奴隷的な地位にある者たち。第四に、実際に奴隷とされていた者たち。そして第五に、非常に重要なグループである下級官吏、すなわち官僚組織の階層で出世
できなかった学者たちである。我々の研究で発見された事例の数は、これらの異なるグループ間で非常に大きく異なっている。 | ||
| まず、高官のうちでは、すでに張衡について触れた。張衡は、あらゆる文
明において最初の地震計の発明者であっただけでなく、天文儀器の回転に動力応用を初めて導入した人物でもあり、当時の傑出した数学者の一人であり、天球儀
の設計における先駆者でもあった。彼は帝国宰相となった。地方の高官も、重要な技術的発展の功績を称えられることがよくある。例えば、水力を利用した製錬
用送風機の導入は、西暦31年に南陽太守を務めた杜実によるものとされている。時折、技術的進歩において顕著な役割を果たした宦官も見られる。最も顕著な
例は蔡倫(ツァイ・ルン)である。彼は当初、皇帝の側近秘書として仕え、西暦97年に宮廷工房の所長に任命され、西暦100年に紙の発明を発表した。 | ||
| 中国の諸王や皇族の遠縁者による科学への貢献については、興味深い単行
本を1冊書き上げることができるだろう。彼らは概して教養豊かであったものの、ほとんどの王朝において官職に就く資格がなく、それにもかかわらず相当な富
を手にしていたため、余暇を満喫することができた。彼らの大半は後世に残すような業績を何も残さなかったが、時間と富を科学の探求に捧げた、記憶に残る数
人の人物もいた。淮南王の劉安(活躍時期:紀元前130年頃)は、自然学者、錬金術師、天文学者らを従えており、中国史上で最も有名な人物の一人である。
もう一人の漢王子の劉忠(活躍時期:西暦173年頃)も、弩用の照準器を発明しただけでなく、その弩の達人としても知られている点で、ここで取り上げる価
値がある。唐代には、音響学や物理学に関心を持っていた邵王・李高(784年頃)が登場する。彼がここで注目されるのは、トレッドミルで駆動するパドルホ
イール式軍艦の開発に成功したためである。 | ||
| 不思議なことに、少なくとも明王朝以前においては、工部で要職に就いた
有力な技術者を見つけることは極めて稀だったようだ。これはおそらく、実際の作業は常に、読み書きができない、あるいは半文盲の職人や熟練工によって行わ
れており、彼らが工部の上層部にいる「ホワイトカラー」の文人層とを隔てる大きな隔たりを乗り越えることが決してできなかったためだろう。とはいえ、例外
も存在した。隋王朝の主任技師として30年間務めた于文開(西暦600年頃)がいた。彼は灌漑や水利保全事業を推進し、後に大運河の一部となる施設の建設
を監督した。また、大型の帆付き台車を製作し、鄺信と共に唐・宋時代の標準的な天秤式水時計を考案した。ここで、技術者たちが、彼らの後援者としての役割
を果たした著名な文官の側近に集まる傾向について、一言付け加えておこう。最初の水車や製錬用の送風機は、杜詩に仕えた技術者たちの手によるものであった
可能性が極めて高い。その顕著な例が、中国史上屈指の科学者であり、使節、そして重臣でもあった沈括(活躍時期:西暦1080年頃)である。彼の興味深く
多面的な科学書『夢池筆談』の中で、彼は西暦1045年頃に畢昇による活字印刷の発明について記述しており、この平民が亡くなった後、彼の活字の鋳型は
「私の門下生たちの手に渡り、彼らによって今日に至るまで貴重な財産として保管されてきた」と述べている。これは、重要な官吏の後援者の周りに集まった技
術者たちの姿を、鮮やかに垣間見せてくれるものである。 | ||
| 間違いなく、最も偉大な発明家たちの集団は、庶民や熟練の職人、そして
官吏(たとえ下級であっても)でもなければ、半奴隷的な階級に属する者でもなかった職人たちに代表される。先ほど触れた皮生に加え、偉大な仏塔建築家であ
る易浩も挙げられる。彼は、その名高い『木経』(木工手引書)を、間違いなく書記に口述させなければならなかったはずだ。易浩は西暦10世紀の人物だが、
どの王朝にも彼のような人物が見出せるだろう。西暦2世紀には、カルダン式サスペンションの先駆的な開発で知られる丁煥が活躍し、西暦7世紀には、すでに
触れたセグメンタルアーチ橋の建設者である李春が、そして西暦12世紀には、中国史上最大の造船技師である高賢が活躍した。高賢は、複数のパドルホイール
を備えた軍艦の建造を専門としていた。時には姓さえも不明な場合がある。この省略は、こうした人物たちが、姓を名乗る習慣のない半奴隷的な集団の境界地域
で暮らしていたのではないかと思わせる。例えば、紀元前1世紀に天文器具を製作した老工(lao
kung)や、西暦692年に皇后に、おそらくは複雑なアナフォリック時計を献上した「海州の職人」などが挙げられる。一般の平民の範疇には、下級軍人を
も含めるべきだろう。ここで言及しておきたいのは、道教の刀匠であるチウ・フアイウェンである。彼は「王作り」として知られる北チ王朝の創始者、高桓の軍
に仕え、その兵器庫を統括していた(西暦545年頃)。チウ・フアイウェンは、シメンス・マーティン式平炉の先駆けとなる製鋼法「コフュージョン法」の発
明者ではないにせよ、その初期の先駆者の一人であり、また刀の文様鍛造の著名な実践者でもあった。 | ||
| さて、ここで例外的な事例について触れておこう。歴史上、卓越した科学
者や技術者として名を残しながらも、当時における社会的地位は実に低かった人々である。我々の記録において、明らかに半奴隷的な身分にあった唯一の人物
は、方新都(活動時期:西暦525年頃)である。彼は若き頃、北魏の王子であるトパ・イェン・ミンの邸宅に「従者」あるいは「家臣」として入り込んだ。こ
の王子は、天球儀、天体地球儀、水圧を利用した仕掛けのある容器、地震計、水時計、風速計など、多くの科学機器を収集しており、また非常に大規模な図書館
も受け継いでいた。科学的な技能で知られた被扶養者あるいは給仕人として、方新図がトパ・イェンミンとの関係において占めていた立場は、わが国のトーマ
ス・ハリオットが第9代ノーサンバーランド伯爵に対して持っていた立場(西暦1610年頃)に似たものだったに違いない。王子は新都の助けを借りて特定の
科学書を執筆するつもりだったようだが、政治的・軍事的な出来事により、西暦528年に南方の梁の皇帝のもとへ逃れることを余儀なくされたため、新都・方
自身がそれらの本を執筆することになった。その後、彼はおそらく貧困の中で隠遁生活を送っていたが、やがて別の権力者である東山総督の穆中宝羅の宮廷に招
かれた。穆中宝羅の弟が、彼を(前述の「王作り」として知られる)高瑄に推薦したのである。彼はこの大貴族のもとで不動産管理人として仕え、その職務を通
じて測量や建築の才能を発揮した。彼は、いくつかの半貴族的な大名家のいずれかにおいて、従属者の地位を超えることはなかったが、それにもかかわらず、中
国の科学史において極めて高い評価を残した。このように、卑しい身分の才気あふれる人物であっても、動乱の時代において、たとえ公的な評価や相当な地位を
得られなくとも、並外れた貴族たちの邸宅に身を寄せることはできたのである。 | ||
| 文字通り「奴隷」であった技術者の例は極めて稀だが、すでにケン・シリ
ン(活動時期:西暦590年頃)について触れた。彼は当初、嶺南の知事の庇護下にあったが、その庇護者が亡くなると、故郷に帰る代わりに南方の部族民に加
わり、やがて彼らを率いて反乱を起こした。この反乱が鎮圧され、ケン・シーリンが捕らえられた際、王士琪という将軍は彼の技術的な能力を見抜き、死刑を免
れさせ、自身の家の奴隷として迎え入れた。そこでの彼の地位は、その間に宮廷天文官となっていた旧友の高志宝から指導を受けることができないほど低いもの
ではなかった。その結果、鄺希林は水力で連続的に回転する天球儀を製作した。皇帝はこの功績を称え、彼を官奴隷とし、天文暦局に配属した。次の皇帝は彼を
完全に解放し、彼は最終的に天文局の代理執行補佐官の地位にまで昇進した。彼の事例は、たとえ非常に高い地位とは言えなくとも、長期間の奴隷生活が官職に
就く上での障害にはならなかったことを示している。 | ||
| ここで、技術者グループの最後を飾り、かつ最も人数の多いグループの一
つ、すなわち下級官吏について触れる。彼らは、たとえ身分の低い出身であっても、官僚の列に加わるのに十分な教養を備えていたが、個人的な才能や性格ゆえ
に、輝かしい出世への望みはすべて打ち砕かれてしまった人々である。このグループには、李傑(活動時期:西暦200年頃)を含めるべきだろう。彼は、易浩
らによる先行研究を基に、中国建築と建築技術の千年にわたる伝統について、あらゆる時代を通じて最も偉大かつ決定的な論著である『営造法式』を著した人物
である。李傑は建築総監の地位を超えることはなく、地方の町の県令として官職生活を終えた。厳蘇(活動時期:西暦1030年頃)は、宋の仁宗の下で活躍し
た、学者、画家、技術者、そして技師という、レオナルド・ダ・ヴィンチを彷彿とさせる人物であった。彼は、その後も長く標準として用いられた溢流槽付き水
時計を設計し、特殊な錠前と鍵を発明し、静水圧容器、走行距離計、南指車に関する仕様書を残した。彼の著作には、計時や潮汐に関する論考が含まれていた
が、生涯の大半は地方の行政職に費やされ、龍朔楼の待詔学者にはなったものの、礼部尚書以上の地位には昇進せず、工部やその他の技術部門とは一切関わりが
なかった。これは、ヨーロッパ人が到来する以前の機械式時計の歴史において、実用上の重要性が最も高かった二人の人物についても同様であった。西暦8世紀
に李興の補佐を務めた梁凌贊は、兵部の下級官吏に過ぎなかった。また、350年後に蘇頌の主要な協力者となった韓公連も、吏部の代理書記に過ぎなかった。
中世中国の技術者や科学者の生活について、後世に伝えられている最も印象的な記録の一つを提供したのは、まさにこの下級官吏たちであった。技術者の馬致仁
(西暦260年没)は、並外れた創意工夫の持ち主であった。彼は引織機を改良し、水力で動く人形劇の舞台を製作し、その後中国文化圏全体で広く用いられる
ようになった四角パレット式チェーンポンプを発明し、(後のレオナルドと同様に)回転式アーチ型投石機を設計し、ほぼ間違いなく単純な形の差動歯車を駆使
して、南指車を成功裏に製作した。彼の友人である傅希廉は、彼の追悼として、我々が言及したあの傑出した随筆を捧げた。傅希廉は、馬致仁が古典文学の伝統
に育まれた洗練された学者たちと議論を交わすことなど到底できず、崇拝者たちのあらゆる努力にもかかわらず、国家の役職で重要な地位に就くことも、さらに
は自らの発明の価値を実証するための手段すら得ることができなかったと述べている。学者貴族の封建的・官僚的伝統から生じた、科学技術に悪影響を及ぼした
阻害要因について、これほど明快に明らかにしている文書は他にない。 | ||
| 封建官僚社会 | ||
| 次に、封建官僚制、つまり実質的には官僚制度が、実際にはどのような長
期的な影響をもたらしたのかという疑問が生じるだろう。古典的な中国社会では、ある科学は正統とされ、他の科学はそれとは反対と見なされていた。暦の制度
と、それが主に農業社会にとって、また程度は低いものの国家占星術への信仰にとっても重要であったことから、天文学は常に正統な科学の一つであった。数学
は教養ある学者が取り組むにふさわしいものと見なされ、同様に物理学も、ある程度までは、特に中央集権的な官僚制に特徴的な土木工事に貢献していたことか
ら、同様と見なされていた。中国の官僚社会が、大規模な灌漑・水利事業(洪水対策や税穀の輸送、図版2)を必要としていたことは、水力工学が伝統的な学者
たちの間で好意的に見なされていたことを意味し、また、それがひいては、彼ら自身が不可欠な一部をなしていた社会形態を安定させ、支える一助ともなってい
た。多くの研究者は、中国における封建官僚社会の起源と発展が、少なくとも部分的には、ごく初期の段階から大規模な水利工事の実施が個々の封建領主の領地
の境界を越える傾向にあり、それによってすべての権力が中央集権的な官僚制帝国国家に集中する効果をもたらしたという事実に依存していたと考えている。こ
うした応用科学の形態とは対照的に、錬金術は明らかに非正統的であり、世俗を離れた道教徒やその他の隠者たちの特徴的な追求であった。医学はこの点におい
てむしろ中立的であった。一方では、伝統的な親孝行の要求により、それは学者にとって立派な学問とされたが、他方では、薬学との必然的な関連性により、道
教の錬金術師や漢方医と結びついていた。 | ||
| 結局のところ、中央集権的な封建官僚制的な社会秩序は、初期の段階にお
いては応用科学の発展に好都合であったことがわかるだろう。すでに何度か言及した地震計の事例を考えてみよう。これと並行して、驚くほど早い時期に雨量計
や雪量計さえも存在していたが、こうした発明のきっかけは、中央集権的な官僚機構が将来の出来事を予見したいという極めて合理的な願望に由来していた可能
性が極めて高い。例えば、ある地域で激しい地震が発生した場合、民衆の反乱に備えて現地当局へ支援を送り、増援を供給できるよう、その事実をできるだけ早
く把握しておくことが望ましい。同様に、チベット高原の縁に設置された雨量計は、水利施設を保護するために講じるべき措置を決定する上で、極めて有用な役
割を果たしたはずだ。さらに、中世の中国社会は、他の中世社会に比べてはるかに大規模な遠征や組織的な科学的な現地調査を実施することができた。その好例
が、西暦8世紀初頭に、李興と宮廷天文学者である南宮儀烈の主導の下で測量された子午線弧である。この測地調査は、インドシナからモンゴルの国境に至る、
全長2500キロメートルにも及ぶ線状の範囲をカバーしていた。ほぼ同時期に、南天極から20度以内の南半球の星座を測量する目的で、東インド諸島へ遠征
隊が派遣された。当時、世界の他のどの国家も、このような活動を成功裏に遂行できたかどうかは疑わしい。 | ||
| 古くから中国の天文学は国家の支援を受けてきたが、それに伴う半秘密的
な性質は、ある程度不利な点でもあった。中国の歴史家たち自身も、時にこのことに気づいていた。例えば、晋王朝(西暦265年~420年)の王朝史には、
次のような一節がある。 | ||
| 天文観測器具はごく古くから使用されており、王朝から王朝へと受け継が
れ、宮廷の天文学者たちによって厳重に管理されてきた。そのため、学者たちがそれらを調査する機会はほとんどなく、これが、非正統的な宇宙論が広まり、盛
んになった理由である。 | ||
| しかし、これを過度に推し進めてはならない。少なくとも宋の時代におい
ては、官僚とつながりのある学者の家系において、天文学の研究が十分に可能であり、むしろ一般的であったことは明らかだ。実際、蘇頌は若い頃、自宅に小型
の天球儀の模型を所有しており、それを通じて徐々に天文学の原理を理解するようになったことがわかっている。約1世紀後、偉大な哲学者である朱熹も自宅に
天球儀を所有しており、蘇頌の水力駆動装置の再現に懸命に取り組んだが、成功には至らなかった。さらに、例えば西暦11世紀など、数学や天文学が名高い科
挙において極めて重要な役割を果たしていた時期もあった。 | ||
| 発明と労働力 | ||
| ここで、先ほど提起された問題、すなわち発明と労働力の関係について再
び考察することができる。中国の労働条件は、一連の「省力」発明の妨げにはならなかった。効率的な馬用軛(紀元前4世紀以降)や、さらに優れた首輪式馬具
の登場(西暦5世紀)、あるいは単純な手押し車(西暦3世紀、ただしヨーロッパでは1000年後にようやく登場した)を例に挙げても、
中国には一見して尽きることのないほどの人的労働力が存在したにもかかわらず、可能な限り運搬や牽引作業は避けられていたことが常に見て取れる。中国の歴
史全体を通じて、地中海に見られるような奴隷を漕ぎ手とする戦用ガレー船に相当するものが存在しないことはいかに際立っていることか――中国の海域の大部
分は内海であったとはいえ、帆は時代を通じて特徴的な動力源であった。そして、ザンジバルやカムチャツカへの大型ジャンクの到来は、長江や東湖で培われた
技術の延長に過ぎなかった。紀元1世紀に冶金用のふいごを動かす水車が現れた際、杜実に関する記録には、彼がこれを人力や畜力よりも人道的かつ安価である
として重要視していたことが明確に記されている。そして、ヨーロッパで同様の発展が見られる4世紀も前の紀元1300年頃、水力が織物機械、特に絹の紡績
や麻の紡績に広く応用されていたという事実は、深く考えさせられるものである。 | ||
| こうした状況は、技術的失業を恐れて革新を拒んだという典型的な事例が
知られているヨーロッパの状況とは、かなり対照的だ。最もよく知られている例は、神殿の柱を運ぶ機械の利用を、それが運搬人の仕事を奪うという理由で帝国
が拒否したローマの事例だろう。また、同様に定評のある事例として、西暦17世紀のフレーム編み機が挙げられる。中国の事例は、あらゆる文化において、労
働力不足が省力化発明の唯一の動機とは限らないことを示しているようだ。もちろん、ここでの問題は非常に複雑であり、さらなる調査が必要だ。 | ||
| 哲学的・神学的な要因 | ||
| 科学技術に対する……の影響については、いずれ本格的な比較を行う必要
があることは明らかだ。 |
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リ ンク
文 献
そ の他の情報
CC
Copyleft,
CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099