じめによ んでね!

児玉 作左衛門

Sakuzaemon KODAMA, 1895-1970

池田光穂

1895 児玉作左衛門(こだま・さくざえもん)は1895年12月3日東京で生まれる。その後、 父は秋田県鹿角郡柴平村(鹿角市)転居し眼科医を開業。以下の情報は、大矢(2017:30- 31)を中心に、まとめた(論文著作はアイヌ関係のみ)。

1900 父が眼科医院開業とクリスチャ ンとしての宗教教育を目的として、一家で函館市内に移住

1906 長谷部言人(1882-1969)が東京大学医科大学 を卒業。長谷部は小金井良精(1859-1944)の指 導をうける。翌年京都大学医科大学解剖学教室の足立文太郎教授の助手となる。

1913 函館中学を卒業。第二高等学校 に入学。

1916 7月東北帝国大学医科大学に進 学。布施現之助(1880- 1946)・教授と長谷部言人(1882-1969)・助教授 (1915年に赴任)について解剖学を学ぶ。

1919 医科大学は医学 部になる。

1920 長谷部言人・東北帝国大学医学 部解剖学教室の教授に昇進する。児玉は、医学士学位取得。同大学助手に採用される。熊本県轟貝 塚(縄文前期)を発掘する。

1921 鴨原とみと結婚。東北帝国大学 医学部助教授に昇進。

1922 12月25日〜1926年3月 31日チューリッヒ大学脳解剖学研究所に留学。Constantin von Monakow, 1953-1930.に師事。留学は私費に切り替えられ、6月27日に帰国。

1928 東北帝国大学医学部は医学博士 号を授与。

1929 5月北海道帝国大学医学部教 授。

1934 5月八雲町で発掘。6月長万部 超で発掘。勲四等瑞宝章受章。10月浦幌村で発掘。

1935 4月「北海道八雲アイヌ人頭骨 に於ける虫歯について」大阪帝国大学医学部第四回学術大会。7月森村で発掘。9月落部村で発掘。

1935 年8 月付北海道庁長官佐上信一宛の児 王作左衛門「人 骨処分許可願」——出典は北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書(追録)2018年北海道大学. 児玉は行政上の手続きについて知悉しており発見された遺骨ならびに副葬品を「処分」し,帝大研究室に「保管」することを願い出ている.処分は所有権の譲渡 を意味するが児玉の認識では彼は所有ではなく保管だと主張している.しかし戦前の天皇による視察(1936年)の際には自分のコレクションであるかのよう に——それゆえ児玉コレクションと表現されている——を自慢げに天皇裕仁に天覧させている(当時のフィルムが残っている).戦前の天皇家は新冠(にいかっ ぷ)御料牧場——皇室のための農畜産物の供給のため——を所有していた。

1936 7月樺太東海岸栄浜・内淵・魯 礼で発掘調査。9月陸軍大演習昭和天皇御前講演「アイヌ頭蓋について」。論文「八雲ユーラップに於ける アイヌ墳墓遺跡の発掘において」

1937 1月「アイヌ頭蓋骨について」 東京帝国大学医学部。4月「アイヌの頭蓋骨に就いて」東京人類学会・日本民族学会第三回連合大会第二回 記事。7月北千島シュムシュ島で発掘調査。8月北海道帝国大学北方文化研究室開設、委員に就任。

1938 

1939 3月論文「アイヌの頭蓋骨に於 ける人為的損傷の研究」『北方文化研究報告』1。10月余市で発掘調査。論文「アイヌ文身の研究」(伊 藤昌一との共著)『北方文化研究報告』2。札幌ハリストス正教会で千島アイヌのパニ ヒダ執行。

1940 

1941 

1942 

1943 1月講演「アイヌ民族に就て」 桑田講演第1号。2月北海道帝国大学 評議員。(時期不詳)論文「占守島に於ける人類学的発掘」『北の 会報』1(1)

1944 1月依願免任官(学生主事)。 2月学術研究会議 会員。3月論文「アイヌ」『東亞民族要誌資料』2。

1945 12月依願免北海道帝国大学医 学部長並付属医学専門部長。(時期不詳)北海道立女子医学専門学校 講師

1946 (時期不詳)北海道大学医学部  経理委員。北海道大学医学部 渉外委員。

1947 12月論文「モヨロ貝塚の民族 に就て」『新臨床』2(3)。

1948 3月北海道大学北方文化研究室  主任。4月『モヨロ貝塚』。(時期不詳)網走市モヨロ貝塚で発掘。10月北海道大学医学部付属病院厚 生女学部 講師。11月市立函館博物館 事務。第二回北海道新聞文化賞 受賞。

1949 6月講演「アイヌ民族の食生 活」第25回北海道医学会。5月桔梗村サイベ沢遺跡で発掘。7月礼文島船泊砂丘遺跡で発掘。11月論文 「北海道の先住民族」『北海道先史学』12。12月北海道立博物館設置準備審議会 委員。

1950 

1951 (解剖学論文3本)

1952 

1953

1954 

1955 3月論文「北大遺跡について」 『北方文化研究報告』10。論文「網走市大曲洞窟出土の遺物について」『北方文化研究報告』10。7月 遠軽町下社名淵遺跡で発掘。論文「アイヌ民族の生態」『日本農村医学会雑誌』3(4)。

1956 3月論文「根室国温根沼遺跡の 発掘について」『北方文化研究報告』11。7月論文「アイヌの体質」『日本文化財』15。道静内町で発 掘。8月白滝村白滝遺跡で発掘。

1957 3月論文「遠軽町下社名淵(家 庭学校)遺跡の発掘について」『北方文化研究報告』12

1958 3月論文「ラブレットについ て」『北方文化研究報告』13、※ラブレットはピアス様装身具。3月論文「湧別遺跡の発掘について」『北 方文化研究報告』13。9月静内町で発掘。

1959 3月「ドクロとともに-アイヌ 研究の三十年」1959.03.16付北海道新聞。4月北海道大学定年退官 北海道大学名誉教授。論文 「アイヌと日本人の大脳脳溝の形態学的比較」『日本の医学の1959年』Ⅰ

1960 11月紫綬褒章 受章

1961 論文「アイヌ民族について」 『日本薬剤師協会雑誌』13(8)。論文「アイヌ民族について」『日本数学教育学会誌 臨時増刊 総会特集号』43。

1962 (空欄)

1963 3月論文「アイヌと東日本」 『国文学解釈と鑑賞』28(5)。11月帯広市伏古で発掘。

1964 (空欄)

1965 3月医師免許証交付。11月北 海道文化賞 受賞。

1966 3月論文「江戸時代初期のアイ ヌ服飾の研究」『北方文化研究報告』20。4月「消えゆくアイヌの姿」『話』135。5月第二回北海道 観光大会北海道観光功労賞 受賞。8月北海道江別市対雁で発掘調査。11月勲二等旭日重光章 受章。

1967 (空欄)

1968 論文「阿倍臣比羅夫の渡島遠征 に関する諸問題-1-渡島蝦夷と陸奥蝦夷」『北方文化研究』3

1969 北海道教育委員会アイヌ文化保 存対策協議会委員。「緊急を要したアイヌ研究-私のあゆんだ道」『からだの科学』26.

1970 論文「阿倍臣比羅夫の遠島遠征 に関する諸問題-2-」『北方文化研究』4。論文「アイヌ頭蓋に見られる損傷問題」『北海道医学雑誌』 45(2)。"Ainu : historical and anthropological studies." 12月26日死亡

1971 学術書『明治前日本人類学・先 史学史-アイヌ民族史の研究(黎明期)』/北海道の開道100年を記念して北海道開拓記念館が開設。

1980 3月北方民族資料7千点が函館 市に寄託される。

1994 北海道立アイヌ民族文化研究セ ンター開設。

2015 2013年(平成25年)11 月4日から北海道開拓記念館は休館し、北海道が策定する「北海道博物館基本計画[3]」に基づき大幅改 装され[4]、北海道立アイヌ民族文化研究センターを統合し、名称を「北海道博物館」と改称し、2015年にオープン。

児玉 作左衛門(こだま さくざえもん、1895年(明治28年)12月3日 - 1970年(昭和45年)12月26日)は、日本の解剖学者・人類学者。北海道大学名誉教授。アイヌ研究で知られる。秋田県鹿角郡生まれ。

経歴
1895年、秋田県鹿角郡柴平村(現鹿角市)に生まれる[1]。1900年、父が眼科医院開業とクリスチャンとしての宗教教育を目的として、一家で函館に 移住[2]。函館中学校、第二高等学校を経て東北帝国大学医学部に進学[2]。解剖学を専攻し、スイス留学後の1928年に「中枢神経の解剖学的研究」で 博士学位を取得[2]。翌年、北海道帝国大学医学部解剖学第二教室教授に任じられる[2]。在任中には脳医学研究の傍ら、アイヌ民族の人類学的研究に関心 を持ち、和人とアイヌの脳髄比較研究、頭骨の比較研究などを行う、その後もアイヌ文化を巡る民俗学、アイヌの起源を探る考古学へと研究対象を広げ、学者生 活の大半をアイヌ研究に費やした。私財を投じて蒐集したアイヌに関する膨大な史料群は「児玉コレクション」と呼ばれる[2]。

児玉自身の広範な関心により、児玉研究室の業績は数百テーマにも及び、医学部生以外に理学部や文学部などの学生も薫陶を受けたといわれ、100名を越す弟 子を研究者として輩出している[1]。また、日本解剖学会、日本人類学会の重鎮として役員を歴任。1948年に北海道新聞文化賞、1965年に北海道文化 賞、1966年には勲二等旭日重光章を受章している[1]。

児玉とアイヌ人骨問題

かつて、北海道大学医学部の標本陳列棚には、動物標本と並んで1000体以上のアイヌ人骨が陳列されていた。これら人骨の大半は、児玉が1933年頃から 北海道大学医学部解剖教室の長として、その教室員とともに蒐集したものである[3]。

アイヌ民族は明治以来、国内外の人類学者の注目を集めてきた。児玉はアイヌの人類学的特徴に着目し、純粋な学術的関心からアイヌ研究を出発させた。その中 で、近代化によってアイヌと和人の混血がすすみ、純粋なアイヌがその数を減じつつあることに危機感を抱いた児玉は、「純粋なアイヌの骨格蒐集」を急務の課 題とすることとなった[4][5]。

純粋なアイヌ人骨を入手するために児玉が目をつけたのは、アイヌの墓地を掘り起こすことであった[6]。1930年代、北海道の森、八雲で大規模な墓地発 掘が行われ[注釈 1]、戦後も静内などでアイヌ墓地を掘り返す「調査」が行われている[8]。1934年(昭和9年)の八雲での発掘を皮切りに、1939年(昭和14年) までの間に、北海道・樺太・千島でアイヌの墓の発掘を行い、500以上のアイヌの人骨を収集した[8]。児玉自身は発掘数以外の「調査」の内容を明らかに しておらず[2]、僅かの金品を渡し形ばかりの慰霊を行って強行した事例[注釈 2]も存在する。だが、当時のマスコミや研究機関からの批判は為されていない[10]。

その後も、北海道新聞が当初から児玉の業績を讃える報道を行ったため、児玉の動向を報ずる記事は「偉大な児玉教授のその後」を広報する性格のものになって いる[11]。新聞報道においては児玉とアイヌ人骨を並べた写真が多く見られ、児玉にとって、頭蓋骨を手にした姿は敬遠するどころか、わざわざ好んで撮っ てもらいたかった構図だったと推測される[11]。

その後、アイヌや市民団体からの再三の指摘により、1982年になって北海道大学医学部は標本庫に保管されているアイヌ人骨1004体の存在を公表した [注釈 3]。ウタリ協会は人骨の慰霊と追悼を行うことを求め、世間の批判にも晒された北大医学部は、1984年に医学部構内に「アイヌ納骨堂」を建立し、以来毎 年、北大関係者も参列してアイヌ慰霊祭(イチャルパ)が行われている。しかし、北大医学部は現在も「人骨標本」の学術的成果を楯に、その蒐集過程で倫理的 な問題があったことを認めていない。
Kodama and the Ainu Human Bone Issue

In the past, more than 1,000 Ainu human skeletons were displayed alongside animal specimens on the specimen display shelves of the Hokkaido University School of Medicine. The majority of these human remains were collected by Kodama as head of the Department of Anatomy at the Hokkaido University School of Medicine from around 1933, together with his colleagues.

The Ainu people have attracted the attention of anthropologists in Japan and abroad since the Meiji era. Kodama focused on the anthropological characteristics of the Ainu people and started Ainu studies from a purely academic interest. In the process, Kodama became aware of the crisis that the number of pure Ainu was declining due to the increasing admixture of Ainu and Japanese people as a result of modernization, and he decided to make the "collection of pure Ainu skeletons" an urgent task.

In order to obtain pure Ainu skeletons, Kodama turned his attention to excavating Ainu cemeteries, By 1939, he had excavated Ainu graves in Hokkaido, Sakhalin, and the Kuril Islands, and collected more than 500 Ainu human remains. Kodama himself did not disclose the details of his "research" other than the number of graves he excavated, and there are instances where he was forced to do so by handing over a small amount of money or goods and holding a token memorial service. However, there was no criticism from the mass media or research institutions at the time.

Since then, the Hokkaido Shimbun has been praising Kodama's achievements from the very beginning, and articles reporting on Kodama's movements have been characterized as publicity for "what happened to the great Professor Kodama. In the newspaper reports, there were many photographs of Kodama and Ainu human bones side by side, and it is assumed that for Kodama, the figure with the skull in his hands was a composition that he not only shunned, but went out of his way to have it photographed as a favorite.

Subsequently, after repeated requests from Ainu and civil society groups, in 1982 the Hokkaido University Faculty of Medicine announced the existence of 1,004 Ainu human bones stored in its herbarium. The Utari Association demanded that the human remains be memorialized and the Hokkaido University School of Medicine, which was subjected to public criticism, built an "Ainu ossuary" on the School of Medicine campus in 1984, and since then an annual Ainu memorial service (Ichalpa) has been held, attended by members of the Hokkaido University community. However, to this day, the Hokkaido University School of Medicine still does not admit that there were any ethical problems in the collection process of the "human bone specimens" by challenging their academic achievements.
児玉コレクション

児玉コレクションの全容は『児玉資料目録 1・2』(アイヌ民族博物館 1991年)『児玉コレクション目録』(市立函館博物館 1987年)等の目録で知ることができ、考古資料7157件、民族資料5105件の合計12262 件、児玉教授収集資料については1014体分の人骨が知られている[2]。

しかし、目録未掲載の資料もあり、その全体像はいまだ不明瞭である[2]。コレクションの大半は、1998年(平成10年)に市立函館博物館と一般財団法 人アイヌ民族博物館に寄託・寄贈されている[2]。

前述の人骨問題に絡み、コレクション自体が人骨の副葬品であったり、盗掘や強引な収奪によって集められたものではないかとの疑念があり[注釈 4]、その学術的評価とは別に批判にも晒されている[注釈 5]。
The Kodama Collection

The entire Kodama Collection can be found in "Kodama Materials Catalog 1 & 2" (Ainu Folk Museum, 1991) and "Kodama Collection Catalog" (Hakodate Museum, 1987), etc. A total of 12262 items (7157 archaeological and 5105 ethnographic materials) and 1014 human bones from the collection of Professor Kodama are known. However, there are still some materials that have not been catalogued yet.

However, some materials have not yet been cataloged, and the overall picture is still unclear. The majority of the collection was deposited and donated to the Hakodate Museum and the Ainu National Museum in 1998.

The collection itself has come under criticism, apart from its academic reputation, due to the aforementioned human remains issue, as there are suspicions that the collection itself is a by-product of human remains, or that it was collected through pilferage or forced seizure.
『中枢神経系』小川鼎三共著 金原書店 1942 人体解剖図譜
『人体解剖図譜 第5巻 (中樞神経系)』西成甫,小川鼎三共編 日本医書出版 1948
『モヨロ貝塚』北海道原始文化研究会出版部 1948
『明治前日本人類学・先史学史 アイヌ民族史の研究(黎明期)』明治前日本科学史刊行会編 日本学術振興会 1971

^ アイヌ民族運動家の結城庄司は八雲町の郷土資料館の学芸員から、児玉が落部のアイヌ墓地を発掘して得た「研究資料」をイギリスに「輸出」し、それに対し落 部アイヌの弁開凧次郎が抗議をした、という話を1982年に聞いている[7]。
^ 椎久堅市は『北海道新聞』1982年10月10日において、児玉は発掘後に慰霊碑を建てる約束をしていたが木の墓標を立てただけですまし、亡くなったばか りの遺体も持って行ってしまったと語っている[9]。
^ 2013年3月に公表された『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書』の巻末資料3『北海道帝国大学・北海道大学医学部第1講座・解剖学 第2講座収蔵アイヌ人骨一覧(2012年12月4日現在)』によれば、1049体のうち35体は地域が引き取り、1004体となる。これには頭骨と一体化 できなかった体部骨484体分はふくまれていない[12]。
^ 『北海道新聞』1969年7月30日において、児玉は八雲町から1936年に「アイヌ名を刻んだ石碑」を持ち出して私蔵していたために、返還要求を受けた ことが報道されている[13]。
^ その死後にさえ、児玉がある女性に分娩をアイヌ式にやらせてその様子をフィルムに収めた、という証言も残っていた[14]。

脚注
^ a b c “児玉 作左衛門〜函館ゆかりの人物伝 - 函館市文化・スポーツ振興財団”. www.zaidan-hakodate.com. 2020年7月11日閲覧。
^ a b c d e f g h i 大矢京右「児玉コレクションの収集経過とその周辺」『市立函館博物館研究紀要』第27巻、市立函館博物館、2017年3月、1-40頁。
^ 伊藤昌一『日本人類学会・日本民族学協会連合大会 第8回紀事』日本人類学会・日本民族学協会連合大会事務所、1955年、P.89頁。
^ 植木哲也『学問の暴力』春風社、2008年、P.96頁。
^ 児玉作左衛門「アイヌ民族の生態」『日本農村医学会雑誌』第3巻第4号、日本農村医学会、1955年、1-6頁、doi: 10.2185/jjrm.3.4_1。
^ 小笠原信之『アイヌ近現代史読本』緑風出版、2001年、P.220頁。
^ 結城庄司『遺稿チャランケ』草風館、1997年、P.130頁。
^ a b 渡辺左武郎『北海道の文化21』北海道文化財保護協会、1971年、P.3頁。
^ 三木ひかる『アイヌ民族の遺骨は告発する』4大学合同全国集会実行委員会、2019年、P.22-23頁。
^ 植木哲也『学問の暴力』春風社、2008年、P.200頁。
^ a b 東村岳史「アイヌの頭蓋骨写真報道が意味するもの : 過去の「露頭」の発見と発掘」『国際開発研究フォーラム』第43巻、名古屋大学大学院国際開発研究科、2013年3月、1-16頁、doi: 10.18999/forids.43.1。
^ 三木ひかる『アイヌ民族の遺骨は告発する』4大学合同全国集会実行委員会、2019年、P.6頁。
^ 三木ひかる『アイヌ民族の遺骨は告発する』4大学合同全国集会実行委員会、2019年、P.25頁。
^ 新谷行『コタンに生きる人びと』三一書房、1979年、P.63頁。


関連文献
植木哲也『学問の暴力 アイヌの墓はなぜあばかれたか』春風社、2008年

https://x.gd/LVkZV

結城 庄司(ゆうき しょうじ、1938年2月20日 - 1983年9月3日)は、アイヌ民族解放運動活動家。

生涯
北海道釧路市に生まれる[1]。1958年、阿寒湖畔のアイヌコタン建設に関わる[1]。1968年、北海道ウタリ協会の理事に就任する[1]。

1972年のアイヌ解放同盟の創立に関わり、代表に選出される。この頃、元新左翼活動家の太田竜と知り合う[2]。

この年8月25日に札幌で開催された第26回日本人類学会・民族学会連合会の演壇に太田と実力で上り、公開質問状を読み上げてアイヌを「研究と解剖の客 体」と位置付けてきたことを非難する[2][3]。9月20日(15日とも)には、静内町にあったシャクシャイン像にあった「北海道知事・町村金五」の文 字を、太田や足立正生、新谷行らとともに削り取る[2][4]。同じく1972年ごろ、札幌のデパート五番館でのアイヌ民芸品振興会による民芸品販売事業 の運営委員長になる[要出典]。

この頃、アイヌ詩人の戸塚美波子は北海道百年記念塔をモチーフとした詩「1973年ある日ある時に」の中に、「アイヌ独立共和国設立!」を唱える「汚いヒ ゲのアイヌ」を(他のアイヌや和人5人とともに)風刺的に登場させ[5]、このキャラクターは「アイヌ解放同盟委員長を自称する人物のパロティ」と指摘さ れている[6]。また戸塚も刊行スタッフだった月刊新聞『アヌタリアイヌ われら人間』は、1973年の北海道ウタリ協会総会の席で目立った発言をほとんどしなかった結城に対する批判を寄せた[7]。

1974年、日本社会党のアイヌ民族政策作成に関わる。同年、クナシリ・メナシの蜂起の犠牲者を弔う供養祭「ノッカマップ・イチャルパ」の実行委員会初代 委員長に就任する。[要出典]

1974年10月、1972年のシャクシャイン像の台座文字での削り取りの件で、全国指名手配犯人に指定され、北海道警察に逮捕されるが起訴猶予となる [要出典]。結城は逮捕数日前に、太田の唱える「アイヌ革命論」とアイヌの主張や状況が乖離することを(仲間2人と共に)記者会見で訴えた[2]。釈放 後、結城と太田は互いに相手を批判・侮辱する論説を発表し、絶縁した[2]。

また、1975年アイヌ解放同盟の非喫煙者のメンバー山本一昭が、「ライター窃盗事件」で逮捕、起訴され、1976年5月に懲役1年の実刑判決が下りる事 件があるが、結城らは、冤罪事件と主張して、裁判闘争を闘い、全国紙でも警察・司法当局を批判する記事がでてくる。警察権力は、結城を始めとする「アイヌ 解放同盟」メンバーを「アイヌ過激派」として、当時勃発していた一連の爆弾事件と関連があるかのごとく見なしていたが、結城ら「アイヌ解放同盟」は爆弾事 件には一切関わっていないことが明白となる。結城は、1976年3月2日の北海道庁爆破事件に関して、爆破犯人を厳しく非難する声明を出している。[要出 典]結城は当時朝日新聞に対して「今回死者が出たことを知ったときはショックだった。アイヌ民族と爆弾が変な風にイメージされちゃうだろ」「道庁爆破が あってから、外出するのがいやで家にこもったきりのウタリの奥さんもいるよ」というコメントを述べている[3]。

1976年5月[要出典]をもって、北海道ウタリ協会の理事を退く[1]。1977年7月9日、北海道大学経済学部長であった教授の林善茂が北海道経済史 の講義でアイヌや女性に対する差別を繰り返しおこなったとして学生とともに糾弾のため、林を教室に封鎖した(機動隊が出動して林を救出)[3][1]。結 城は、12月14日に公開質問状を送ったが返答がなかったため、回答期限の20日から北大構内にテントを張って北大生2人と抗議を続け、翌1978年1月 9日より萱野茂が仲介して林は1月22日全面的に謝罪、「自己批判」し、闘争は終結した[3][8]。

1978年、当時の田村仙一郎登別市長が、助役時代の1971年、アイヌの伝統的な共同墓地を墓石がないことから空き地と誤認し破壊して、自分の家の墓を 建てたことが発覚した事件に関連し、市外に転居していた遺族の相談を受け登別市内のアイヌ民族有志とともに「ウタリ墓地破壊に抗議する会」を組織し、田村 市長への抗議運動と市民に訴える運動を行う。同年の市長選挙で田村は落選したが、墓はどかせなかった。しかし、この問題はウタリ協会登別支部の再興の契機 になった[9]。

1980年2月28日の札幌市白石区の小学校教師が、新一年生父母懇談会で「アイヌ勘定」を持ち出し、「アイヌの人たちが、昔多い数の概念が十分でないこ とをいいことに和人がだましたのです」という発言をする。現場にいた結城が、北海道ウタリ協会札幌支部と共に、札幌市教育委員会を相手に責任追及を開始す る。アイヌ語の数詞を取り上げ1万の数を表せることを挙げて、「アイヌ勘定」は和人側の無知と差別感情そのものと、結城庄司は論じている。教育現場でのア イヌへの理解を認識させるということで、札幌市教育委員会側は、善処することとなる。翌1981年3月に、結城は札幌市教育委員会のウタリ教育相談員に任 命される。このことは、結城のアイヌ民族の尊厳を守る活動が、札幌市の行政側から評価されたということである。[要出典]

1981年に、札幌アイヌ文化協会の副会長に就任する[要出典]。1982年、アイヌの儀式「アシリチェップノミ」(新しい鮭を迎えるための儀式)を札幌 市内の豊平川で復活させた[3]。この際に結城は「コンクリート・ジャングルのここ札幌で、アイヌ民族の伝統行事を行い、滅びることを拒否し続けているア イヌが多数参加すること自体が、声高に叫ばなくとも、鋭い刃物になる」と述べ、この活動は明治時代に禁じられた鮭漁の復活とも評価された[3]。結城らア イヌ民族活動家が文化継承活動に取り組んだ背景として、「アイヌの将来的な滅亡」という言説への対抗として文化の継承をその裏付けとする意識があったと新 井かおりは指摘している[3]。

1983年3月、横路孝弘の北海道知事選挙活動を応援し、アイヌ関係者に支援を要請するため、北海道内を精力的に動く。[要出典]同年9月3日、札幌市白 石区の自宅にて[要出典]、急性心不全で死去する[1]。当時の北海道ウタリ協会理事長で自民党員でもあった野村義一は、北海道新聞の取材に対し、「素晴 らしい才能の持ち主で、それが十分理解されず、不遇な面もあったと思う」とのコメントを残した。[要出典]

版画家の結城幸司は子息[10]。

『アイヌ宣言』三一書房、1980年。
『チャランケ ― 結城庄司遺稿』草風館、1997年、ISBN 978-4883230969。


01. 成田 & 川本 2022, p. 33.
 マーク・ウィンチェスター 2009, pp. 72–73.
 新井かおり 2014, pp. 230–231.
 成田 & 川本 2022, p. 30.
05. マーク・ウィンチェスター 2022, pp. 72–73.
 マーク・ウィンチェスター 2022, p. 85.
 マーク・ウィンチェスター 2022, p. 86.
 成田 & 川本 2022, pp. 33–34.
 成田 & 川本 2022, p. 34.
10. 結城幸司 - 八剣山ギャラリー

参考文献
新谷行『コタンに生きる人びと』三一書房、1979年。doi:10.11501/12148045。全国書誌番号:79031391。
マーク・ウィンチェスター『近現代アイヌ思想史研究:佐々木昌雄の叙述を中心に』(博士(学術)論文・社会学研究科専攻)一橋大学大学院、2009年。学 位授与番号:甲第507号。2023年3月11日閲覧。
新井かおり「戦後のナラティブ・ターンから眺めるアイヌの諸運動と和人によるアイヌ研究の相克」『応用社会学研究』第56巻、立教大学、2014年3月、 225-240頁、CRID 1390009224784327936、doi:10.14992/00009046、ISSN 03876756。
マーク・ウィンチェスター「いま、戸塚美波子「1973年ある日ある時に」を読む」、『思想』(2022年12月号(第1184号))、岩波書店 pp. 69-90
成田真由美; 川本思心『アイヌ遺骨問題に関する関係者インタビュー(3) : インタビューイー 竹内渉氏』(レポート) 5巻、3号、北海道大学 科学技術コミュニケーション教育研究部門 : CoSTEP、2022年。hdl:2115/84822。


関連文献
北大ACMプロジェクト「植木哲也「林善茂によるアイヌ差別抗議事件」」『北海道大学もうひとつのキャンパスマップ : 隠された風景を見る、消された声を聞く』寿郎社、2019年。ISBN 9784909281159。国立国会図書館書誌ID:029754652。
竹内渉『戦後アイヌ民族活動史』解放出版社、2020年。ISBN 978-4-7592-6793-8。国立国会図書館書誌ID:030465682。

https://x.gd/dvxFU


リンク

文献

その他の情報


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099