他人の人生

きわめて個人的なこと

現実は甘くないけどそれが現実の良いところ(?)

実技試験に落ちまくっている。

今回は3点足りなくて、でも試験は自分の持っている力の最大限出せた、というか、これが現状の実力だなと思える試合の進め方ができた。欲を言えばもっとこうしたい、もっと良くなるのに、と、気になるところはまだまだたくさんあるけれど、限られた時間の中で己の力が及ぶのはここまでだと悟った試合だった。それで、3点足りなかった。実力が合格ラインに3点足りない。いつもはできている人が試験当日にしくじったとか、緊張で上手くできなかったとか、そういうの無しで、シンプルに実力不足だったってわけ。腹が立った。自分に。あと3点ならどうにかして執念で勝ち取りにいけたやろ、と、かなり腹が立った。たかが3点、されど3点。一点一点が重い。あーあ、今回も駄目だった。こうやって負け慣れていってしまうのも良くないと分かっているけれど、負けを受け入れて切り替えて次に進まないと成長しないのも分かっている。腹が立った数時間後にじわじわ落ち込むのも知っている。どうしてできないんだろう。どうして。良いことないのにまわりと比べてしまう。どうして。こんな風に落ち込んでいる暇があるのなら練習をすればいいだけなのに。気持ちがどんどん下に向かって深く深く沈んでいく。

 

どうしてサボってる人が検定受かってるのに、頑張っても不合格になっちゃうんだろう。同じく今回試験に通らなかった子がつぶやいていて、私もずーんと悲しくなった。残念ながらそういう世の中だ。結果が全ての実力の世界だ。これから選ぶ社会や属するコミュニティが異なるとまた別の価値観で評価されることも分かっている。だけど今は、この実技試験をパスできないことが何よりも悔しい。

 

最近よく考える。あまり努力をしない人生だった、というと語弊があるかもしれないが、人並みに頑張れば人並みに結果がついてくる人生だった。血を吐くほどの執念で努力をしたことがない。なんというか、エネルギーの密度をパンパンにして臨む努力、みたいな形の努力ができない人間だった。地道にコツコツ、人と同じようなことを繰り返して、繰り返して、繰り返していくうちに人並みに上達して、まあまあ褒められて、そこそこ自分でも納得して、スカスカな中身を色んな要素で満たすために奔走して、何かが足りない隙間をちょっとした達成感や優越感で埋めるような人生だった。いつもちょっと得意げで、いつもちょっと寂しかった。

だから、今、この歳になって、頑張ってもなかなか結果がついてこない、うまくいかない毎日に苦しみながらも少しだけ安心している。頑張る方向が違うのだろうか、やり方が間違っているのだろうか、そもそもの心構えや素質が違うのだろうか、どれだけ考えてもやってみても、シンプルに習得していける周囲の人たちみたいにすんなりいかない。頑張ってもうまくいかないってこういうことか、それでもやり続けるって結構つらいんだな、と思う。それと同時に、ああ、すんなりこれができるようになる人も山ほどいて、そういう人たちは「頑張っても上手くならない」人の気持ちが(分かりたかったとしても)分からないんだろうなと気づいた。これまでの自分がそうだったから。やればできると思っていたから。すぐに答えに辿り着けた自分は、全てのヒントが揃っても答えに届かない人を見て、何故わからないの?と「分からないこと」が分からなかった。

今までの借りを返しているような気持ち。そうかこれか。私はこれまで、この悔しく腹立たしい気持ちを知らなかったんだ。だからいつも執念が足りないんだ、そこそこでそれなりにできてしまってきたから、一点を必死で死守するとか、どんな手をつかってでも勝ちにいこうとする勢いとか、そういうのが足りないんだ。さらっとしすぎている。私に足りないのは、他を犠牲にしてでも一つのことを追い求める集中力なんだ。

 

それが分かった今でも、染み付いてしまった習性はなかなか変えられなくて、もがいている。どうやって全集中すればいいか分からない。どうやってあと一点をもぎ取るために必死になればいいのか分からない。試合に勝ちに行くときの死に物狂いのマインドセットがうまくできない。

 

 

負けるわけにはいかない。努力し続ければなんとか形になると信じている。卒業までには人並みに力がつくように頑張りたいと思っている。自分が自分を諦めたら終わり。見放したらその瞬間にどんどん落ちていく。だから自分のことを諦めたくない。そう思って毎日やっている。だけど落ち込むこともどうしてもやる気が出ないこともある。どんなに頑張ったとしても、習得できる技術にはそれぞれの人間の天井があるんじゃないかとも疑い始めている。簡単に言えば向いてないってことかもしれない、とも思う。よくよく考えれば周囲と比べて自分には僅かにハンデもある。そういう理由をどれだけ重ねても、できない理由を探しても、それでもまだ今は悔しいが勝つ。自分を諦めない。いつもギリギリ自分が自分の手を掴んでいる。これを離したら終わる。

 

「夢を追いかける機会が与えられていることが当たり前ではない」と、ある人が言っていた。まっすぐに誠実に夢を追いかけている人で、その夢をたくさんの人が見守り応援していた。彼はまだその夢の途中だ。

私にはめちゃくちゃに大きな夢はない。たくさんの人が持つ、ありふれた夢、誰にも見届けられない夢、持っている希望なんてそんな小さなものだ。だけど、大人になってから、小さな夢を追いかける機会を自分に与えて、ギリギリだけどまだなんとか頑張れている。このギリギリがいつまで持ち堪えられるかは分からないけれど、私は案外タフなので、いけるかもしれない。いけたらいいなと思っている。ダメだったらそれはその時考えればいいからね。夢をみるのに遅すぎることはないというけれど、現実は甘くないし、遅すぎることはなくても、やや遅だなというタイミングは正直あると思う。それでもやってみたいことはやってみるのもありかもね、とも思う。私は日々苦しんでますが。

 

だけど苦しみと同じくらい楽しいこともあって、生を実感できる、死にかけで心を無にして働いていた頃よりも心は活性化している、たぶん。

 

 

暴れるくらい好きなら暴れろ

母「○○(私の元彼)さん、どがんしとらすかねぇ」

私「さあね〜全くなんにも分からん」

 

実家で母と話しているときに、話の流れでいにしえの元彼の話になった。親に彼氏の話なんて全くしなかった私が唯一ちゃんと付き合っている(あとたぶん結婚もする)と話した人。親にも友達にも「今付き合ってる人と結婚するから!!」と迷いなく言い切ることができた人。私のことも彼のことも知っている親友に、「人生でこれ以上ない関係のふたり」だと言ってもらえた人。それなのに別れてしまった人。もう随分と昔のことだ。別れた直後はひどく落ち込んだし、近所のコンビニでいるはずもない彼の残像を見るなどした。別れるときに言われた言葉はいまだに引きずっているし、気持ちはとっくに消えているのに痛みは鮮明だ。

 

衝撃が強すぎた。あまりにもでかすぎる愛だった。

疑いもなく、ずっと好きで、ずっと好かれていると思っていた。のに、あっけなく終わった。

 

 

だけど最近、思う。

私はあのとき、結婚しなくて良かった。

振られた悲しみや負け惜しみではない。本当に、あのときに結婚しなくて良かったと今では思える。未熟だった。まわりが見えていなかった。地に足もついていなかった。そんな状況で結婚を選ばなくて良かった。それに、あのときに別れていなければ、私はずっと自分の境遇を人のせいにして、不満ばかり抱えて、同じところにとどまってジタバタしていたかもしれない。別れた反動で仕事へのモチベーションが加速して、爆速で昇進して、燃え尽きて、退職して、まったく別の分野を学び始めて、住む場所を変えて、今は人生二度目の就活中。そんな予測不能な人生を歩むことができたのは、あのとき振られた瞬間に一人で立つ道を選べたからだ。

私はあのとき、結婚しなくて良かった。

 

でも、それも今にならないと分からなかった。答え合わせは6年後。良かった、正解にできて、踏ん張って歩いてきて良かった。

元彼がどうしているかとふと尋ねてきた母に、それを伝えた。母も、そうだねと言ってくれた。今の私を私が肯定しているから、母も嬉しいんだと思う。

 

 

今、幸せだ。大変なことも多いけれど、自分の道を自分で歩いている実感がある。

 

それでも私は、次はすがることを覚えようと思う。簡単に一人で立つ道を選択するのではなく、どうにかして何とかならないか粘ってみたいと思う。情けない姿を見せても、泣いても、どれだけ好きで一緒にいたいかを説明したいと思う。たとえそれでうまくいかなくても、それをするのとしないのでは全く違う。

 

私は彼と別れたときの自分の冷たさをよく覚えている。今でもそれが引っかかっている。どうせなら全て言えばよかった。どれだけ好きだったかを語り尽くせばよかった。花の名前とか、くだらない雑学とか、すきなダジャレとかを教えて、ふとした時に思い出す呪いくらいかけておけばよかった。

 

結婚のタイミングが合わなかっただけで、心から好きだった。ずっと一緒にいたいと思うのは彼だけだった。執着に近いくらいに好きだった。だけど、一緒にいたいだけではどうにもならないのが大人だから、仕方なかった、だけど、だけどだけど、もしもこの先とてつもなく好きで好きで離したくない人があらわれたら、その時はできる限り足掻こうと思う。私の人生に足りないのは、そういう馬鹿みたいな抵抗、一直線に気持ちを投げる経験、恥ずかしがらずに己をさらけ出す、そんな生き方だと気付いた。失うものはない。

 

 

 

 

 

 

オーバースペック

寝る前のコーヒーがやめられない。

SNSの徘徊がやめられない。

優しい人でありたいと思う。

嫌われたくないとも思う。

私は絶対に、君の「やめたい」に「やめないで」と言わないし、君の「消えたい」に「消えないで」とも言わない。

欲しかったものをたくさん手に入れた。

その代わりに諦めたものがいくつかある。

なんだよ、私の欲しかったもの何でも持っていて幸せそうにして、なんだよ。実際のところはわからないけれど、どうしてそんなに幸福そうにしているんだよ。

清らかな人は嫌い。

毒のない柔らかな花は選びたくない。だって、私が選ばなくても皆が選ぶだろうから。

嫉妬はいちばん醜い感情だと思う、でも出会ったときから嫉妬しかなかった。一緒にいると自分はダメになると思った。羨ましかった。ちゃんと生きていることが、真っ当に愛されて正しいことを言って正しく褒められているのを見るのが、とても辛かった。私は私の真っ当さや真面目さを憎んでいる。だから、それを自分自身で誇ることができて、それを誇れる環境で生きてこられた人を見ると心が暗くなる。

 

足を止めたら終わる。走り続けないと意味がない。がむしゃらに頑張っているふりをしていれば現実から目を背けられる。いくつもの矛盾を指摘されるのがこわい。逃げ続けて逃げ続けて、また水中に潜るのか。

 

欲しいもの、頑張って頑張って手に入れてきた。努力もした。全力で走った。人が遊んでいるときに勉強した。私は真面目だった。でも、その代わりに失ったものもある。離れていった人もいる。たまに、苦労して手に入れたもの全てを一度手放してみたくなる。軽くなりたい。リセット。リセット。リセット癖は治らない。無駄なものを搭載しすぎている方が生きづらい。

 

リアルの生活に羨ましい人なんていない。

だから早くSNSやめなって、私は私自身にずっと言い続けている。はじめから無かったものを無くすことなんてないのだから。覚えている。このまま一緒に息ができなくなっちゃえば幸せなままなのになって思ってしまった瞬間のこと、それは誰でもよかったわけじゃなく、「綺麗な他人」だから本音を言えたのだと思う。もう失うものがない。忘れていくだけ。何年経っても安全な居場所がない。帰るべき場所もない。行きたいところなんてないし、定住したい街もない。寂しさに依存しているのは、人に依存するよりも幾分マシだから。ひとり心穏やかな日々なのに、時折荒波が押し寄せる。助けてとやっと言えたのに、手を握ることができなかったこと。もう一歩踏み込みたかったのに、やっぱり大丈夫、と距離をとってしまったこと。問い詰めたかったのに、諦めてしまったこと。寝息が聞こえるまで泣くのを我慢したこと。「私の言動イコール相手の迷惑」だと脳が学習してしまっている。そんなことないはずなのに。後悔に溺れそうになりながら、なんとか眠ってしまえば無かったも同じ。私が書かなければ誰にもバレない、人はそんなふうに秘密を増やしながら、それを忘れながら生きている。

 

 

 

 

 

 

 

「なにもいらない」を欲している

平穏に、たまにざわざわとしながら、そのざわざわとも折り合いをつけて、幸せに、生活をしている。

 

泣きたいこともない(たまにしか)

投げ出すこともない(我慢する)

努力は当たり前(たまには褒めて)

嫌いな人もいない(無関心)

恋愛だってしたい(気持ちだけ)

自分なんてが付き纏う(遠慮がち)

 

 

随分と大人になりました。無いもの有るもの様々ですが、私なりに真っ直ぐに歩いていることに誇りを持っています。それでも、誇りを持っていることと日々にふと現れるむなしさのようなものは共存します。安心したいです。瞬間的なものでもいいから、吐きそうになるくらい私という人間を好きだと言ってくれる人に依存していたいです。馬鹿だとはわかっています。馬鹿になってしまえば簡単に恋愛のようなものができてしまうことを知っています。私はそこそこ汚い、ギリギリのいちばん狡いところにいつも立っている。大切にされにいってない。泥水を選んでしまう。恵まれていることに後ろめたさなんて必要ないのに、わざわざ後ろめたさがあることを確認してしまう。

 

 

「帰るべき場所がない」と、絶望している夢をみた。皆がそれぞれの場所に帰っていって、私だけが帰る場所が見つからずに、ぽつんと薄暗いどこかのアパートのベランダでスマホをいじっていた。急にスマホの電源が落ちて、本当にひとりぼっちになってしまった気持ちになった瞬間に、ああこれは夢だなあとどこかで安心する、それでも無帰属の不安に胸がしめつけられる、不思議な感覚だった。

 

どんなに満たされているつもりでも、いつもどこか空っぽで、一度うまれた消滅願望は消えることはないんだなと知る。私はしあわせ。でも、それはこの世に存在し続けたいという意味ではない。ずっとひとりぼっち。間違えた。たくさん。今ではもう、書くほどのこともない。何も言わない月がきれい

 

 

 

 

 

君の関心

てのひらを太陽に透かしてみたことがあるか?

本当に真っ赤に血潮が流れている。眼球に紫外線をもろに受ける。年々暑くなっていて、暑さで簡単に人の命が消えていく。

 

おう なつだぜ

 

 

「またね」というと次の約束みたいに聞こえるから、「気をつけてね」とか「バイバイ」と無意識で言葉を選んでいる。もう会うことはないんだろうなと思いながらさよならをする。週末の駅は歩くのも一苦労。誰にもぶつからないように息を止めて早足で歩きながら、どうしてこんなに沢山の人がいるのに人間はひとりに拘泥するのだろうと考える。どうしてこんなに沢山の人がいるのに運命みたいに共感できる相手に出会えないんだろう、とも。

 

 

おれは げんきだぜ

 

 

元気でありたい。願望。実際は「降ります」の声も目の前で大声で話しているスーツの二人組男性に届かないくらい細い。ただありがたいことに人並みに体力があって、人並みより少し我慢強いから、ちょうどよく社会に自分の形をフィットさせている。家にたどり着いた瞬間にドロドロに溶ける。

 

 

あまり ちかよるな

 

 

嫌いじゃないけどやっぱりさすがに気は遣ってしまうよ。それをどうやって言えば過不足なく伝わるのだろう。私はずーっと君の関心の外側でふらふらしておくよ。

私はいくつになっても私の心の中にかまきりりゅうじを生かしておきたい。きっといつか全部忘れちゃう日が来るんだろうけど、忘れてしまった後も同じくらいのマインドでいられるくらいに強い人間になっていたい。

 

 

さよならの日までさよならしない

INI 3RD ARENA TOUR [XQUARE] 愛知昼公演に行ってきた。

2023年のセカンドアリーナツアー、2024年のファンコンツアーに続いて三度目の現場。

 

初回のアリーナツアーは、ほぼずっと泣いておりほとんど記憶が無い。最初にたじくんが出てきてそのオーラに圧倒されて、たじくんってすごいんだなと思って、そこから豆粒くらい小さいけれど本当に実在していた11人全員を見て、ああINIって存在しているんだなと思った。そしてふぇんの優しいコメントに「生きててよかった」と号泣し、少しでも素直に清らかに優しい気持ちで過ごしたいなと思った。

 

二度目のファンコンは地元、熊本での公演だった。心が躍りすぎて(?)コンサート中の大半の時間、なぜか足がつっていた。半数くらいのメンバーが目の前を風のように駆け抜けていった。目の前を走り去っていた藤牧さんの纏っている雰囲気というか空気から、ああこの人はとても繊細なんだろうなと感じた。柾哉くんの歌が変わっていてそれに一番驚いた。くまモンを抱えて走る後藤さんの姿がSNSで流れてきて心がぽわっと温かくなった。

 

三度目の今日、幸運にもステージからとても近い席で、肉眼でメンバーのパフォーマンスを見ることができた。視界が許す限り、後藤さんを追い続けていたら終わっていた。相変わらず後藤さんは姿勢が良かった。伸ばすところは伸ばす、止めるところは止める、腕が長く見える、ずっと見ていたい踊りだった。ヘンテコな自己紹介と果敢なボケを繰り出していて安心した。佇まいから、後藤さんは王子様であり王様なんだなと思った。どうしてあんなに筋肉があるのにすらっと痩せて見えるんだろうと不思議に思った。Party Goes On がやっぱりすごく好きだった。「運命がCelebrate中」という超ハッピーキュートな歌詞を雄大くんが歌うのがとても良い。ステージから近い席だったので、ダンスの合間にメンバー同士でアイコンタクトを取っていたり、隅でわちゃわちゃとしている様子が見えたりして、今回はそこが一番嬉しかったかもしれない。

 

部活のような仲間がいることに憧れを感じる。それはもう、随分と昔から。同じクラスというだけでは友達にならなかったような人たちが、同じ目的・目標を持った部活で一緒に頑張って何かをつくりあげるということ。チームとしての仕事。INIを見ていると、ただの仲良しだけではなくて、そこに厳しさやリスペクトがあり、だけど楽しんでいるようにも見える。この道を選ぶに当たって諦めた道がそれぞれにあるだろうと思う。選ばなかった方の道を想像して苦しくなる日がありますか。私はいつも、「選ばなかった方」のことばかり考えて生きてきたから「選んだ方を正解にする」進み方をしようとしている11人を見ているとたまに眩しくて苦しくなる。

笑っていてほしいし無理しないでほしい。だけど、こちらの願望と本人の幸せは一致するとは限らない。人間なんてそういうもの。推しに依存するつもりはないし、推しが永遠だとも思っていない、自分が出来なかった覚悟や叶えられなかった夢を託そうとも思っていないし、アイドルを全うしろとも思わない。だけど、日々、推しにちょっとした希望をもらっているのも事実。だからこそ、彼らのちょっとした優しさや気遣い、柔らかな言い回しに安心することも多い。

 

 

人はそれぞれ違う。私とあなたは違う。分かっているけれど比べてしまう。自分はなんて何も無い人間なんだろうと思う。もっと器用になりたいし人に嫌われたくない。強い心でありたい。

人といるのは疲れる。一人は楽だ。でも、寂しい。面倒くさがりなのに誰かと居たいと思ってしまう。結局、人は一人では生きていけないんだよなとINIを見ながらたまに思う。「面倒」に関わるのをどれだけ楽しむことができるか。「面倒」と上手に距離を取る柔らかさを身につけられるか。優しさは気持ちの余裕から生まれること。言葉にするといつか本物になること。感謝を言葉にして伝えること。諦めないこと。できるだけ笑っていること。

 

 

この年になってもできないことが多すぎる。できないことが多すぎて落ち込むのはまだましな方で、何が分かっていないのかも分からずに困惑して立ち尽くす、みたいな日ばかりで途方に暮れる。

私は、何事も、人の何倍も時間がかかる。色んなことを試してみてそれなりに頑張ってみて何となく何となくやり過ごして「あーなんか違うなー」と思いながらずっと生きてきて、多分これが正解なんだろうとも思う。

そうやって生活が続いていくなかで、ふとINIのことを思い出して曲をきいたりコンテンツに触れたりする。そして、ああこの人たちができる限り楽しんでパフォーマンスをしてくれれば、そしてそれを少しでも幸せだと思っていれば良いなと思う。

 

今日は楽しかった。幸せな時間だった。

 

ぐだぐだ書いてしまったけど、何が言いたいかって、あの激しさだったのに今日もう1公演あったらしい。INIって体力すごいな。

 

頭痛のビートでレクイエム

人生やべ〜(笑)とヘラヘラした直後に人生やべ〜(絶望)となるのを繰り返している

あなたの未来は明るいと思いますか?の質問に、「はい」にも「いいえ」にも特大花丸をつけたくなるような毎日で

 

私は「足るを知る」を覚えた方がいい、そうすればずっともっと生きやすくなる

だけど「足るを知る」を覚えた私は今よりもっとつまんなくなる

 

そんなもんだよ、幸せって満たされることじゃないんだって 自分の居場所が、あるべきところが明確に分かることなんだって

 

 

当たり前に望んでいた普通を全て諦めるところから始めた、普通にできると思っていたことが出来ないのならば、理想の人生設計から外れてしまったのならば、私は何のために生きようか

 

詰め替え用のストックを買う、明日生きることの約束みたいな小さな決意、そういうのに疲れてしまう

当たり前のように明日も生きてるって信仰を持つことができるのが幸せなのか不幸なのかわからないよね

 

人間は一人じゃ未完成なの?

何も考えずにロボットみたいに働いてそれだけしていたいよ、多分そっちの方が楽だから

苦ではないけれど好きでないことが多いの辛いな

 

やけに星が綺麗に見える田舎の空を見上げてオリオン座の位置を確認している、地球はちゃんと回っているし、私は今日も生きている