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王吸

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王 吸(おう きゅう、? - 紀元前179年?)は、中国末から前漢にかけての将軍。前漢建国の功臣にして十八功侯の一人。爵位清陽侯諡号定侯

生涯

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中涓(近侍官)として沛県豊邑劉邦に従い挙兵し、霸上まで進軍し、騎郎将(騎兵の郎官を統率する武官)に任じられた。

高祖1年(紀元前206年)、劉邦が漢王に封ぜられると、劉邦に従って漢中郡に入った。同年8月、劉邦は将軍の王吸と薛欧を武関から出兵させ、南陽に駐屯していた王陵軍を経由し、沛県にいる劉太公呂雉ら劉邦の家族を迎え入れようと図った。しかし、項羽陽夏に兵を進めて守りを固めたため、漢軍は前進することができなかった。以後、劉邦の家族はしばらく人質としての生活を余儀なくされた。

楚漢戦争期には将軍として項羽軍を討伐し、戦功を挙げた。

高祖6年(紀元前201年)12月、甲申の日、清陽侯に封ぜられ、食邑3,100戸(『史記』による。『漢書』では2,200戸)を領した。

侯位には23年間在り、子の王疆の元年(清陽侯を継承した年)は文帝元年(紀元前179年)とあるため、王吸の没年は紀元前179年前後であると推算される。

評価

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前漢王朝の礎を築いた功臣一覧の功績と家系録を記した『漢書』高恵高后文功臣表では序列第14位に列せられている。

以下は後漢の歴史家・文学家として名高い班固の詩文集『班蘭台集』に記載されている王吸を讃えた頌詩である。

邑邑將軍,育養烝徒,建謀正直,行不匿邪,入軍討敵,項定天都,佩雀雙印,百里爲家。
邑邑たる将軍、徒党を養成し鍛え上げた、献策は正直であり、行いを隠すことなく邪心がなかった、軍勢に入り敵を討ち、項羽を討って天下の都を定めた、爵位の双印を帯び、百里の封土を家とした。

参考文献

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