芸人ごっこ 第10話 (創作大賞エンタメ原作部門)
私は毎日迫田君と一緒にいるようになって、彼は本当に横松尚志になれるかもしれないと思うようになっていた。
ネタの選抜クラスにいた人間は、コント演技の選抜クラスの人間より段違いにしゃべりが上手かった。
10組しかいないから、選りすぐりというのもあったが、やはりネタが面白い人間は、私以外はしゃべりも面白かった。
そして、その中でもフリーのトークでは迫田君と相方の川本君がずば抜けて面白かった。
私は接していくうちに、この2人は本当にファインファインになるかもしれないと思いながら、迫田君のネタ作りを手伝うようになった。
それは上に連れていって欲しいとかそういうことではなく、純粋に圧倒的な才能を持つ人間のネタを手伝える喜びからの行動だった。
迫田君からは変わりに日常会話におけるツッコミの細かい指導を受けていたが、一向に上達しなかった。
私はツッコミではなく状況説明をすることしかできなかった。
例えば、簡易的なボケでいうと私と迫田君が一緒に別の同期の家にいったときに、家に迎えいれてくれたその同期が《いらっしゃい》と言うべきシュチュエーションがあった。
そのシュチュエーションに対して同期は、2人市長のネタになぞらえて《また来てね》という風にボケた。
私は《なんでだよ》とか《今きたばかりだよ》という単なる疑問を強調した語句や単体の状況説明的な言葉を言うことしかできなかった。
迫田君は《また来てね》というボケに対して《なんですぐ帰らすねん》という、ボケの内容がもたらす行動に付随した言葉を言った後、例えツッコミと呼ばれる全く別の事象に例えるツッコミをいれていた。
迫田君は《また来てね》というボケに対するふた言目の言葉として《ほんで、また来てねって、キャバクラ嬢の営業メールか》という例えツッコミを言っていた。
その例えツッコミは100点満点の正解ではないかもしれないけれど、聴覚で入った《また来てね》という情報を、一瞬で視覚情報であるキャバクラ嬢の営業メールの《また来てね》に例えてツッコむという迫田君の能力に私は痺れるくらい聞き惚れていた。
千人舎との対抗戦ライブも無事立本側の勝利で終わった我々は、いよいよ養成所を卒業して4月から正式に芸人としてデビューすることになった。
養成所の噂では事務所所属になれるのは狭き門だと聞いていたけれど、実際には我々7期生は100組近くが所属することができた。
しかし、所属できた事務所は、立本は立本だったが、正式には立本エージェンシーではなく、その子会社の立本ミュージックという会社だった。
立本ミュージックは昔、立本エージェンシーが音楽部門を立ち上げようとした時に作られた事務所だったが、音楽部門はすぐに消滅して、我々がデビューした頃は若手の芸人の所属の受け皿として使われていた事務所だった。
我々7期生が100組近く所属できたのには理由があった。
それは、我々がデビューする4月と同じタイミングで立本エージェンシーが東京に新しい劇場を作ったからだった。
数年前に渋谷にあった立本エージェンシーの劇場が閉館されてから、東京には常設の劇場がなかった。
常設の劇場がないということは、出れるライブが少ないということなので、その数年の間に必然的に若手芸人の数が減っていっていた。
芸人は立本エージェンシーにとって、会社の利益を支える根幹であるので、その減少を危惧した上層部が新しい劇場を新宿のラミナという商業ビルの7階にオープンさせたのがちょうど我々のデビューと重なった。
新しい劇場で毎日公演を行うにはたくさんの芸人が必要になるので、我々7期生は大量に事務所に所属することができたのだった。
ラミナTheたてもと と名付けられた劇場では、毎日2部構成で公演が行われていた。
夕方の17時から18時の間に行われていた、5じから6じ という名前の公演は、我々7期生を含む芸歴5年目くらいまでの芸人が1分間のネタバトルを行い、19時から21時の間で行われていた、7じから9じ という名前の公演にはテレビに出ている著名な芸人が出演していた。
1分間のネタバトルは構成作家が合否を判断していた。
1時間のライブには20組から30組くらいの若手が出演していたのだが、合格できるのは1組か2組だった。
1回合格したら、ワンハンドレッド芸人と呼ばれ、2回合格したら、ツーハンドレッド芸人と呼ばれた。
ワンハンドレッドとは100円と言う意味だった。
そのゴングショーは5回合格してはじめてギャランティとして500円を貰えるという過酷なものだったが、5回合格すると立本ミュージックではなくて立本エージェンシーの所属になれるという特典がついていた。
立本ミュージックでは、数十組を1人で担当するマネージャーに名前と顔すら覚えて貰えないようなマネジメントの扱いだったが、立本エージェンシーになればそれは変わるし、確実に事務所から推して貰える。
立本エージェンシーは内部で勝ち抜くのは大変だけれど、推して貰える位置までいけば他の事務所より売れる確率は高かった。
我々がのし上がるにはこのゴングショーで勝ち抜くしかなかった。
ラミナTheたてもとで与えられたのは、週に1回の劇場出番でゴングショー突破への門は狭かったが、私のコンビである馬高畑は、はじまってから3ヶ月という割と早めな段階でツーハンドレッド、つまり2回の合格を果たしていた。
その時期には2人市長も2回の合格を果たしていて、私は相変わらず毎日のように迫田君と会っていた。
私は実家に寄生していて、ご飯を食べるのには困らなかったので、養成所時代はほとんどの時間をネタ作りに使っていた。
芸人としてデビューしてからは、迫田君と過ごす時間が増えたのと、2人市長のネタの手伝いに時間を使うことも増えたので、自分のコンビのネタに使う時間が減っていっていた。
私は毎日、迫田君と過ごすようになったが、そこにはいつも、もう1人の芸人が参加していた。
その人間は八木君という同期のピン芸人で、私が迫田君と一緒にいるようになる前はいつも迫田君と2人でいた人間だった。
八木君は3人でいるときはほとんどしゃべらなかった。
私と迫田君がしゃべっているときもずっと静かに聞きながら、面白いときだけ笑っていた。
八木君は迫田君が劇場出番などでいない、私と2人きりになったときはよくしゃべっていた。
流暢な関西弁で、例えツッコミなども器用にこなし、一向にしゃべりが上手くならない私よりも全然達者だった。
3人でいる時に全くしゃべらないのを不思議に思っていた私は、八木君と2人でいるときに、なぜ3人のときはしゃべらないかを聞いてみると
「鉄男は、知らんねやったな。俺が喋るとサコは全部否定すんねん。まあ、俺の喋りは全部サコに教えて貰ったもんやからしゃーないんやけど」
と言われた。
私はいつの頃からか、迫田君に鉄男と呼ばれるようになっていた。
その理由は、夜通し遊んだりすると私が鉄みたいな顔色になるからというよくわからない理由だったが、私は迫田君が ばん という ん で終わる呼びづらい名字を呼ぶたびに、自分でも気づかないくらいの微少なストレスを感じていたため、彼の無意識が精神衛生を健全に保つためにあだ名をつけさせたのだろうと理解していた。
八木君は、高校を卒業してすぐに養成所に入ったので、私よりも4つ年下で、迫田君よりも2つ年下だったが、私のことは鉄男と呼び、迫田君のことはサコと呼んでいた。
基本的に立本エージェンシーは年齢ではなくて、芸歴で関係値が決まるために、同期は何才離れていてもタメ口であったが、浪人を経て入学する人などもいる大学でも年齢ではなく学年で関係値が決まるシステムを経験していた私は違和感を感じることはなかった。
大学と違っていたのは、私がほぼ全ての同期を呼び捨てすることなく、君づけをしていたことくらいだった。
八木君のしゃべりが面白かったので、迫田君がいないときには私は積極的に八木君と一緒にいるようになっていた。
そして仲良くなってくると、八木君も私に本音を言うようになってきた。
ある時、八木君が
「本当は金村さんのポジションは俺がなるはずだったんや。今までサコが何人も候補になるヤツを連れてきてんけど、最終的にはヤッパリ八木やなと言ってくれて他のヤツを手放していたのに、お前が現れてからは、お前のいない所でも、ついに金村さん見つけたわってずっと言ってるんやで。信じられへんわ。ちょっと前まで、金村さんは八木やって言ってたんやで」
と言って、さらに
「2人市長はマジでファインファインになる奴らやから、鉄男がうらやましいわ。最初はお前の事ムカついていたし気に食わんかったけど、お前はええ奴やし、ネタに関してはマジですごいから、もう俺は金村さんになるのはあきらめたわ」
と言ったので、私が
「八木君、ハッキリ言うと君はネタはちょっと弱いけど、しゃべりは俺なんかより全然面白いし、誰かに連れていってもらうのを目指すんじゃなくて、自分が横松尚志になればいいじゃん」
と言うと、八木君は
「お前、腹立つわ。ええ奴なんがほんま腹立つわ」
と言った。
次の日、2人市長が同期ではじめて、ネタでのテレビ出演が決まったと迫田君から連絡があった。
そのネタは製作を私が手伝ったものだった。
つづく
第11話
