K_night Parade【第三話】
傷と絆
1
イクサは葦原中津國での最初の朝を迎えた。
百瀬家の奥座敷にも朝日が差し込む。
小鳥の囀り。
朝靄の匂い。
ふわりと木々の葉を揺らす微風。
縁側の廊下を裸足で走る足音。
「おはよう! イクサ!!」
元気いっぱいの少女の声。
魍喪は奥座敷の障子戸を両手で思い切り開いた。スパンと小気味の良い衝撃音が響く。
しかし座敷には人の気配がない。
来客用の布団は昨夜敷いた時のまま、四角い形に整っている。魍喪は八畳一間を見渡して、荷物がないことに気づいた。
「イクサ?」
まさかと客間に踏み入り、ゆっくり進みながら部屋の隅々まで目をやる。隅に避けた応接用の座卓の下から、生白い子供の手がそろりそろりと這い出てくるのを見つけた。
「騒々しいなぁ。」
「!!!!!!!」
魍喪は驚いて後ずさるも、布団に足を絡めて尻もちをつく。手元にあった枕を掴み、机の下で蠢くモノに投げつけた。
「痛っ!」
狙い通りに直撃し、机の下の何かはたまらず飛び出した。
「イクサ! そんなところで何してんの!?」
「酷いよ。寝てただけなのに。」
借り物のジャージに身を包んだイクサは、眠い目を擦りながら抗議する。
枕が直撃した右の頬がほんのり赤い。逆の左の頬には畳の跡がくっきりと浮かんでいた。
「布団で寝なさいよ。」
「どこでも寝られるのが特技なんだ。」
「お布団があるときは布団で寝なさい。」
「……落ち着かなくて。」
イクサは視線を逸らして呟いた。
魍喪が踏んずけてしまったので、証拠は既にないが、敷かれた布団に入ろうともしなかったことは明らかだった。
「私たちが守ってあげるってことで、話はついたでしょ。枕投げも避けられない所より安全だと思うけど。」
魍喪とイクサでは、「落ち着ける場所」の絶対的な意味合いが異なる。イクサにとって、身の安全の確保は大して重要ではない。魍喪にはそれが理解できないようだ。
「そういうのが落ち着かないって言ってるんだよ。」
「もしかして、私たちに遠慮してるの? 百瀬の弟子になったんだから、家族も同然だよ。」
昨晩も思ったが、魍喪の距離の縮め方は異常だ。
「家族じゃないだろ。」
「亡くなったパパさんとも血は繋がってなかったんでしょ。気になるなら名前変える? 百瀬……魎太郎とかどう?」
「魍喪にはデリカシーってもんがないのかな?」
「『魍喪』じゃなくて『姉さん』って呼んでみなよ。姉弟子って意味でいいからさ。そのうち気持ちが家族になるよ。ね!」
強引に詰め寄る魍喪からは、一切の悪意を感じない。無防備とは少し違う。踏み込んでも、踏み込まれても対応できるだけの強さが根底にある。無垢よりもたちが悪い。
「だから……」
「『そういうのが落ち着かない』? どうして?」
イクサは答えず、長すぎるジャージの袖に拳を隠し、内側でぎゅうと握る。昨晩覚えたばかりの安心という感覚に抗っていた。
居心地の良さも、幸福も、知っていたはずなのに感じていなかった。胸を締め付ける暖かな感情は、同時に後悔をもたらした。
それは新しすぎる傷跡だった。つい数日前、蒼柳惣右衛門が殺された。惣右衛門はイクサにとって、ただの養父のはずだった。しかし、父であると認め、家族であると自覚もしていた。大切な存在だった。
イクサはまだ子供だが鬼神として自身の存在理由を理解していた。いつかその役目のために、養父と引き離されることになることもわかっていた。油断はしていなかった。だがイクサは子供だったがために、敵が養父の方に危害を及ぼすことに思い至らなかった。
惣右衛門の死は、ないはずの感情の発露を促した。そして、ないはずの感情は二度と大切な人を失いたくないと訴えている。
百瀬一家とは逢ったばかりだというのに、ともにいて何故か安心する。大切な人になり得てしまう。
「怖いのね?」
長い、沈黙を優しい声が壊す。
「心配しなくても、私たちは強いんだから。ちゃんと守るし、私たちも死なない。」
無神経で凶暴なはずの魍喪の笑顔は、女神のようだった。
イクサを悩ませていた安心を否定する感情の正体をたやすく見抜いて言い当てた。
イクサは驚き、戸惑い、そして安堵を覚え、思わず顔を伏せた。
緊張が解ける。気を許してしまいそうになる。
「僕より弱いくせに。」
突き放すつもりで口にした言葉は、強がりのように震えていた。
魍喪はそれを聞かなかったことにして、イクサの頭を乱暴に撫でた。
「朝ごはんできてるよ。」
2
「おはよう。イクサ。」
昨夜と同じ食卓には、百瀬家の面々が待ち構えていた。
イクサは魍喪の背中越しに挨拶を返し、食卓に着いた。
炊き立てのご飯と味噌汁のやわらかい湯気が卓上を包む。その隣に並べられた名称のわからない生物の丸焼きとしばらく見つめ合った。
「よく眠れたか?」
「おかげさまで。」
家長の朱雀がぎこちなく尋ねるので、イクサもぎこちなく答えた。魑斬と魅狩もぎこちなく微笑んだ。
「イクサってば、落ち着かないとか言って、机の下で寝てたんだよ。」
すかさず魍喪が揶揄う。
「何のことですか?」
イクサはにっこりと氷点下の視線を向けた。
「さ……さてと。飯にしよう! 今日からさっそく修行だからな。鬼退治の修行は厳しいぞ! いただきます。」
「いただきます。」
明るく装っただけの気まずい空気の中、各々食事に手を付けた。
味噌汁、漬物、白米。温かな塊が喉を通って腹の内側に広がる。優しい出汁の余韻が二口目を欲しがる。
自然と箸を伸ばした先に、例の名称のわからない生物の丸焼きが待ち構えていた。体積の半分を占める巨大な眼球と大きく開いた口。皮を剥がされこんがり焼けた緑色の肉。百瀬家の人たちはためらいもなく、身を箸で解しながら口に放り込む。イクサはそれを真似た。
「コレ、現世にもいる?」
沈黙に堪えかねた魅狩が口を開いた。
イクサは咀嚼したまま首を振った。
「よくわからないものを食べるのって、怖かったりしない?」
「魅狩さんが調理したなら、美味しいんじゃないかと思って。」
不意に褒められた魅狩は、わかりやすく照れた。
イクサは言葉選びを間違えたと気付いて目を伏せた。お世辞で言ったわけではない。養父の料理の腕前が残念だったために、美味しいものは養父以外の妖怪たちに与えられて覚えた。未知の料理を口にすることに抵抗がない、という程度の意味合いでしかない。
「美味しい?」
「はい。見た目はアレだけど、現世の焼き魚みたいな味がします。」
ただし品種はわからない。惣右衛門が教えていないからだ。
そっけない回答でも魅狩は満足そうだ。
「わかる? 現世の料理を再現してるんだ。」
「……僕のために?」
「ううん、趣味。葦原中津國は鬼や妖怪の世界だから、人間の食べ物は食事っていうか、もはや餌なんだよね。」
魅狩は料理の話になると前のめりになる。昨晩もそうだった。
「補給できれば良いだろ。」
「鬼退治って、こう言う人ばっかりだから! 昔から!」
一方の魑斬は興味がないと言った様子で味噌汁を啜る。片腕でも食事の所作は丁寧で、食べこぼし一つない。
魅狩は兄に不満を抱きながらも、魑斬の食事には予め食べやすい加工を施している。
「私は美味しい方が好き!」
そして手と鼻先を米粒まみれにしながら満面の笑みを浮かべる魍喪。ねー、と言いながら魍喪と魅狩は笑顔を交わす。
「そういうわけなんで、俺に現世のことをたくさん教えてね。」
イクサは兄弟のやり取りを見てみないふりをして、黙々と食事を続けていた。話題の矛先が向いた時にはちょうど、名称のわからない生物の目玉部分の、ブニブニとした食感を楽しんでいた。
数秒の沈黙。
イクサは目玉をごくりと飲み込んでから、笑顔を作って答えた。
「料理のことはよくわかりません。」
「別に、料理のことじゃなくてもさ。俺も魍喪も兄さんも、現世のことはほとんど何も知らないんだよね。何でも良いから聞かせてよ。」
肩透かしを食らった魅狩の方が取り繕う。
「何でも……? 特にないです。ごちそうさまでした。」
イクサは作り笑顔のまま、空にした皿と椀を重ねて立ち上がる。誰とも視線を合わせない。イクサらしくない行動だった。
気まずいどころか、空気が悪い。
「待ちなさいよ。もう我慢できない!」
魍喪は食卓を叩きつけて怒鳴った。握っていた茶碗が音を立てて割れた。
「さっきから何、その態度! 何で、敬語? 昨日は普通だったじゃん! 遠慮なんかしてもしなくても、迷惑かける時はかけるでしょ! 私たちが守るって決めたんだから、守りたい子になりなさいよ。一線引かれる方が迷惑なんだよ!」
魍喪は勢いのまま茶碗のかけらを投げつけそうになるのを、何とかこらえた。拳は震え、肩で息をする。
その隣で魅狩は、何も言わない父と兄の様子をちらりと伺った。目が合った朱雀に、何とかしろと視線で訴える。
「まぁまぁ魍喪ちゃん、落ち着いて。イクサは色々あってここにいるんだから、一晩で打ち解けられるわけないだろ。俺たちの方が、いつでも家族として受け入れられる心の準備を……」
「頼んでない。守らなくても良い。」
イクサは朱雀の台詞を食い気味に、無感情に言い放った。
「だったら何で、弟子入りしたのさ?」
「頼んでない。この人に無理やり連れてこられた。」
兄弟の視線が朱雀に集中する。朱雀はバツが悪そうに中空に目を逸らす。
「……あの時は、ああするしかなかったんだよ。」
「助けてくれたのは感謝してる。でもこんなところ……来たくて来たわけじゃない。」
作り笑いなど続けられるわけもなく、ぐっと俯いて拳を握る。心にもないことを口にしなければならなかったイクサの頭に、軽い何かがぶつかった。テーブルの上に箸が転がる。
「じゃあ出ていけよ。」
左手で箸を投げた姿勢のまま、魑斬は静かに冷たく言った。
「最初から気に入らなかったんだ。鬼退治は鬼のいる場所じゃない。」
冷たい、痛い。
言葉と違って箸くらいは避けられただろう。朝一番の枕もそうだ。何故それを甘んじて受けたのか、イクサ自身がわかっていない。
イクサは絞り出すように答えた。
「ごめんなさい。それはできません。」
「何故?」
「僕がここにいることを知られてしまったので。」
「誰に?」
「僕を奪いに来る誰か。」
矢継ぎ早の問いが止まったところで、イクサはほんの少し顔を上げた。
「不本意だけど、僕のことを欲しがる奴は、この世界を思い通りに書き換えたい奴だよ。また誰かを殺すかもしれない。最悪僕を差し出せば百瀬の家族は助かるかもしれない。」
パキン、と何かが壊れる音がした。
魍喪が投げ損ねた茶碗の破片を力任せに砕いた音だ。
「私たちが負ける前提で話さないで。」
血の滲む指先を握りこんで、今にも掴みかかりそうなほどきつく、イクサを睨みつけた。隣の魅狩が思わず魍喪の肩を抑えつける。
「じゃあ、何とかっていう雑魚王子が、鬼の軍隊を連れてきたら勝てるの……ですか?」
「「勝てる!」」
魍喪と魑斬は身の程もわきまえずに即答した。
イクサの言う雑魚王子とは、葬儀の後の集会でイクサが殴り飛ばした鬼王軍の総司令、一鬼である。名のある神獣たちでさえ頭を下げるほど高位の存在だ。冷静に考えれば、殴り飛ばした事実も百瀬家には不利に働く。
「朱雀さん、何とか言ってください。大体全部あんたが悪い。」
殆ど八つ当たりである。しかし、朱雀がイクサを連れ帰らなければ、巻き込むことはなかった。
「いつもみたいに『ざっくん』って呼んでくれたら、何とかしてあげなくもないよ。」
「呼んだことないよね?」
「ごめんなさい。」
朱雀がふざけたことで、ひりついた空気が和らいでしまった。
「あんたはいつもそうだ。存在がうるさくて、頼もしいけど、隠し事ばっかりの嘘つきで……。」
「嘘つきはイクサでしょ。お父さんは嘘なんかつかない。」
「魍喪さんは黙っててくれませんか?」
割って入った魍喪をきっと睨んだ。
強い言葉を投げ続けていた魍喪の目に、涙が浮かんでいる。いつから堪えていたのだろう。
「良くない態度をとってごめんなさい。朱雀さんに家族がいるなんて聞いてなかったし、良い人すぎて無理なんです。」
魍喪が傷ついた表情を見せるのは、茶碗を投げつけられるよりも痛かった。
「朱雀さんだけなら何とかするんだろうけど、あなたたちは真っ向勝負するつもりじゃないか。この先誰も死なずに世界が終わることはあり得ないことくらいわかってる。けど、僕のせいで誰かが死ぬのは嫌だと思ってしまったんだ。だからもう、ほっといて。」
イクサはいつの間にか、一線を引くための敬語を忘れてしまっていた。
都合の良いことを言っていることはわかっていた。それなのに、その言葉を受けて魑斬が立ち上がったことに、申し訳なさを感じてまた顔を伏せた。
「そんなこと言われてほっとけるわけないだろ。」
イクサの背中側から低い声が優しく響いた。
魑斬はイクサの頭を鷲掴みにして、乱暴に撫で回す。変わらない凶悪面相だが、眉間の皺だけは数ミリほど浅かった。
その光景を見て、魅狩は頬杖をついて微笑んだ。
「良いことを教えてあげよう。俺たちみたいなお人よしの前で、ほっといてって態度は逆効果だよ。」
言いながら、空いた方の手でイクサの頬をむにっと掴む。
「絆されて、懐いて、家族ぶってるふりでもしとけば、俺たちも安心してほっとける。イクサは得意なんじゃない?」
「そんなことしたって、やばい奴は来るし、あんたらは僕のために命を張るでしょ。」
イクサも思うように開かない口で抵抗するが、頭と頬にかかる圧力が増すだけだった。
「しなくても張る。俺たちは鬼退治だから。」
「ふりでも懐いてくれないかな。それに、一線引いた態度取られると傷つくんだよね。それとも、本当に絆されるのが怖いのかな?」
イクサは何も言い返せなかった。
「イクサの負けだよ。俺は最初からそのつもりで、おまえを百瀬に迎えたんだ。」
朱雀の目尻に皺が浮かぶ。朱雀らしい、がさつで悪戯っぽいおっさんの笑顔だ。
「すざくんが勝った気になってんのが一番解せないんだけど。」
気まずかった食卓が、作り笑いではない笑い声に包まれた。泣けないイクサの代わりに、魍喪が無言で涙を溢した。
「誰も死なせないって約束してくれるなら……」
イクサの言葉を遮るように、からんからんと神社の鈴のような音がした。
「お客さんかな?」
魍喪は泣き腫らした眼を擦り、立ち上がる。
鈴は玄関のチャイムの様なものだろうか。
「イクサ。」
魍喪不在の空間で、朱雀はいつもより真面目な顔をしていた。
「惣右衛門はお前のせいで殺されたわけじゃない。」
気休めでも心が軽くなった。
頭と頬も解放されたというのに、何故か家の中全体に緊張感が走る。
数秒の沈黙の後、玄関の方から破壊音が響いた。
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