幽世畸人伝ー伴久筆記ー 其之六【花街に踊る】
序.
幽世に至りて幾年、綴りし世の畸人の記が思いがけず売れたという。
祝着至極、筆を携え向かうは花の街。
香に酔いしれ舞い惑い、夢に溺れて諸行無常。
これは浮かれ文人が一夜に見た、幻の桃源郷の記なり。

一.
目が覚めた。
実に清々しき朝である。
幽世に下りて幾年、
これほどまでに冴えた朝があったろうか。
頬をつねればひりりと、安堵の痛み。
まこと結構、夢ではない。
髭をぴんしゃんと整え、朝餉の支度。
釜の蓋がかたんと開けば、昨夜の飯のほのかな名残。
文太郎――我が相棒も、尾をぴぃと立てては上機嫌。
鼻先をぴくり、魚の匂いに目を細めておる。
「ふむ、今日は格別、ハレである。
メザシを丸々とらせよう。」
今朝ばかりは念仏烏の囀りも祝詞の如し。
調子っぱずれの音が端々まで心地よい。
それもひとえに、拙の気分のせいであろう。
なればこそ、この浮かれの理由を話さねばなるまい。
――それは昨夜の事である。
届いたのは、金主からの一通の文。
啓 伴久筆殿
御著述「幽世畸人伝」、衆生の評判実にめでたく候。
右、売れ行きの趣、お知らせ申上候。
手の目 拝
不肖、伴久筆――
筆の身にして幽世に在っても筆を擱かず、
幽世の畸人たちを綴りて幾年。
それがついに読まれ愛され、評判を呼んでおるという。
祝着至極、まこと天晴也。
文人と銭は縁遠きもの、と拙が申したか。
されど拙の綴りし言の葉が、あまねく衆生の胸に落ち、
わずかばかりの銭を対価に得るのは、まこと悪い心持ちに非ず。
今宵はその祝い。なんと座敷へ招かれるという。
いやはや愉快この上なし。
隣家の軒先には軋む縄の音。
ぎりりぎりりと、今朝はとみに調子が良い。
良いのだ。その心根まで明かさずとも、
音の響きを聞けば、ただただ小気味が良い。
二.
待ち侘びて夕刻、ついに迎えの者がやってきた。
えいほえいほと駕籠人足、毛むくじゃらの山童ども。
その足どり、巨躯に似合わず妙になめらか。
尻に垂れるは錦のふんどし。
なにやら狐の尾にも似て、
いよいよ化かしではあるまいかと、ぴぃと頬をつねる。
「――いざ、花街へ。」
目指すは高瀬川沿いの花街。
幽世随一と名高き、色街である。
そこに招くとはさすがは金主、心得ておる。
駕籠はするりするりと川沿いを走る。
簾の隙間より流るる川を眺むれば、
妙なものが流れていた。
川面にぷかりぷかり、腹である。
みっちりとふてぶてしく、大黒天の福袋の如し。
腹が水をかきわけて、
その後ろには赤い鼻がぷかり。
風流である。
おおかた花街帰りの浮名の成れ果て。
腹と鼻だけで浮名を流すとは、いっそ潔い。
滑稽かな、拙は迷わず筆巻きをばらり。
帳面には、こう書きつけた。
【浮名流 肚鼻(うきなり はらはな)】
高瀬川に流れ者ひとり。
ふてぶてしき腹につづき、赤鼻がぴょこり川面に覗く。
その有様、大黒天の腹をも揺らす。
嗚呼、吉兆かな吉兆かな。
名の由来を申すまでもなし。
その肚を知る由もないが、
流れに身をゆだねるその諦観。
見事、見事。
まことに気分が良い。
やがて駕籠は、白檀の香の烟る高瀬川沿いの茶屋へと辿り着いた。
朱塗りの格子戸、仄かな灯に浮かぶ紙燈籠。
囃子に鼓、夢の音。
「せんせ、今日はようけ楽しみましょな。」
金主が笑みを浮かべ掌を差し出す。
掌には目玉がひとつ、今日は殊更よい目をしておる。
ゑびすの如く福々しきその手を取り、いざ座敷へ。
「ようこそお運びくださいまして。
どうぞ今宵は、ごゆるりと。」
女将の声に誘われ、障子の内へ。
そこはまことにうつつの夢。
こぢんまりとした座敷には、控えめな馳走が色とりどりにならび、
器のひとつひとつには侘びと寂びが滲む。
やがて襖の奥より出でたるは、桃の振袖、花盛の簪を揺らす舞妓。
その奥には、うるし紅をひいた芸妓たちが扇を手に手に控えておった。
鼻をくすぐる酌の香りは、酒か花か。
やがて見事な小唄も終わり、拙の心はいずこなりや。
思わず筆を執りては一句。
わびぬれば 花は酌やく 艶の音よ
夢もうつつも 酒面に揺るる
盃に満つるは花の雫か、拙はしばし感慨にふける。
桃源郷とはうつつに在らず、やはり幽世にこそあったのだ。
されど、幽世こそはうつつの写し鏡。
影の裏返しではないか。
なればここは夢かうつつか——。
などと禅問答に耽れど、尚も筆は止まらぬ。
滴りて 襟はそぼつる うるし紅
芸妓がふとこちらを見て微笑んだ。
拙の眼はほうぼう泳ぎ、おぼつかぬ。
そこへ流し目がちらり。
「まぁ、せんせ。お上手やこと。」
囁くは、扇に隠れたうるし紅。
拙はこれまた、目が離せなんだ。
隣では金主が「こんぴらふねふね」と上機嫌。
ああ、吉日なり。
拙は今、まぎれもなく幸福である。
酒は進み、花やぐ香にこの身は揺蕩う。
ここははたして竜宮か、桃源郷か。
扇の舞が月輪を描き、
琴の音のような妓の声が、手の内の盃に揺れる。
「せんせ、よう笑ろてはりますな。
ようよう気に入りはったんですな。」
もはや金主の笑い声すらも遠い。
盃を重ね笑みが咲き、目の前には夢の霞。
いっそ、このまま桃源郷に揺蕩う身となれれば——。
ふと舞妓の袖がひるがえる。
視界に舞うのは、幾枚もの落ち葉。
――やがて筆先からは、ひとしずくの墨。
帳面に拡がったそれは、やがて黒い渦となり夢を呑んだ。
三.
「……売れっ子の文人さんらしいけど、さすが文人やな。
お寒い財布やこと。」
「こっちの手の目はさすがやな。
はぁ、見てみぃこの鈍色の銭束。眼福眼福。」
まどろみの中、声がする。
目を開けば、眼前をふさりと尾が横切る。
頬をつねる。
……ひりりとした痛み。
「……うむ。」
まことに遺憾ながら、あばら屋である。
床には薄く落ち葉が積もり、破れ障子より木枯らしがひとすじ。
嗚呼、桃源郷はどこへやら。
ふと隣を見れば、身ぐるみを剝がされたばかりの金主が
呑気に寝言を垂れておる。
「……こんぴらふねふね……おや、つい手が触れて……うへへ。」
拙はぴしゃり、金主の禿げ頭を筆で打つ。
「目を覚まさぬか、この太鼓持ちめ。」
へぶ、と滑稽な声を上げて金主が跳ね起きる。
ようよう見渡せば見慣れた景色。
そこは伏水のはずれ、深草であった。
化かされた上に銭を失い、残ったのは名声ばかりとは。
どこかで野狐がぺろりと舌を出したような気がする。
まことに遺憾ながら、これもまた幽世。
ああ、滑稽かな 滑稽かな。
拙は本日も、この奇なる幽世に筆を執るばかり。
——了
次回 其之七
