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幽世畸人伝ー伴久筆記ー 其之三【執着の在り様】

序.

幽世に在るものは、皆等しきもの也。
その在り様は、なおも忘れぬ執着を映せり。

綴ることとは、その輪郭をなぞることに他ならず、
今宵もまた、拙はその痕を綴る。
――それこそが我がの執とも気付かぬままに。

一.

――朝

夢の淵から浮かび上がれば、耳に囁くのは烏の声。

幽世の烏と云ふものは、明け六つに般若心経を囀ったり、
夕暮ともなればアホウアホウと世の理を山裾に残す。

かようにいささか忙しなきものではあるが、
今朝ばかりは無明の悟りを得たのか、なんとも心地がよい。

烏どもが悟りを得たるは、まこと祝着この上ない。

この身はうつつに戻ったのではあるまいか。
そうして良い気分で、幽けき光射す障子をすぅと引けば、

……誠に遺憾ながら、やはり異界である。

嗚呼、返す言葉も見当たらぬ。

まぁ、筆もうつつより転ずれば人にもなるのである。
おかげ様で今、こうして文人を気取っておられるというものよ。

――拙は伴 久筆。

伏見の宵の酔いの戯れ、気付けば異界。
綴ることしか能のない、折れ損ないの拙なき筆である。

今この身は、如何せんうつつに在らず、
奇妙にして滑稽なる、この幽世に今日も在る。

着流しひとつ、墨染の羽織をさらりと纏い、
囲炉裏に火を入れ、粥を炊く。

冷飯に湯を張り、ぐつぐつと。
一夜干しの魚を炙り、香が立つ。

と、案の定――

抜け目なくも、足元には黒き獣の姿。
脛に絡みて尾をゆらり。その尾は火加減を測るかの如し。

「……文太郎よ、まだ火を入れたばかりぞ。」

分かっておるのかおらぬのか、
拙が独りごちれば囲炉裏のそばにぴぃと立ち、
尾はパタパタと催促の如し。

まったく、喰い気ばかりの獣め。
されど言葉ひとつで獣を御するは、拙が上手である証左よ。

くったくったと冷飯の煮える音。
ぱちぱちと魚は悲鳴を上げて。

椀には浅漬けをちょいと添え、朝餉となす。
質素にして、侘び。

ぷぅぷぅと息を吹きかけ静かに頂く。

幽世のものとて腹は減る。
ただそれだけの話である。

腹をさすっては茶を啜り、
文机にばらりと、筆を並べては面々に問う。

「さて各々方、今日この伴久筆に伴うはどのものか。」

筆である。答えるはずもあるまい。

されど、筆も過ぎればさもありなん。
独りごちる身を思うて、乾いた笑いが溢れる。

面々を手に取りて、毛先を整え筆を見やる。

「……これ細筆よ、昨晩はなんとも惚けておったな。
 艶を綴る時ばかりは妙にしなりよる。
 拙を差し置いて艶筆とはけしからん。」

とは言え、まさしく独りごちである。
文太郎がくぁと欠伸を浮かべてはこちらを見るゆえ、何やら面目もない。

このまま庵におっても、拙の独り相撲である。
拙は帳面を帯に差し、草履を鳴らして外へ出た。


二.

玄関より顔をのぞかせると、ぎぃ ぎぃと侘し気な音。
拙はただ頭を垂れて音の主、隣人を見る。


こやつは毎朝こうして自宅の軒先に縄を括り、
首を通し、ぶらりと浮いているのだ。

「おやせんせ、おはようござります。今日もええ音がしますわい。」

なんとも健やかな声である。

顔は土気色。目ばかりは妙に明るく瑪瑙の如し。
嗤うたびに縄が揺れ、軒下の影がぶらぶら揺れる。

曰く、
「どうにもこればかり思い出すんですわ。
 首を括った記憶だけが、わたしの原風景でしてな。」

ゆえにこやつは毎朝、こうして確かめる。
首に食い込む縄の具合こそが、生きたる証なのであろう。

「それはそれは、本日も大変祝着(しゅうちゃく)な事でございますな。」

拙の顔に張りついておるのは、えびす顔。
なにやら頬が引き攣るが、隣近所は大事にせねばなるまい。

されど、言葉は差さぬが筆は刺す。
懐より取り出したる帳面の端に、さらり。

  【ぶらり男】
  首をくくることで生を実感するという、幽世的逆説の体現者。
  その笑顔、祝着と執着のあわいに浮かぶ、まこと奇妙な均衡ぶり。
  曰く、日によりてその縄の具合にも善し悪しがあり。

……書き記したところで、拙の腹もぐぅと鳴る。
朝餉を下ろして時も経っておらぬというのに。

人ともなれば、理解の及ばぬ事に相対すると、
どうやら臓腑が先走るらしい。

今日はかけ蕎麦でも啜ろうか。
――否、一杯十六文であろう。

文人たるもの知足たれ。
無い袖は振れぬのである。

本日は、茶と団子でこの侘しい腹を慰めるとしよう。
やはり冴えぬ頭にはこれよ。

さて、竹垣を抜けた先に色狸庵という水茶屋がある。

軒先より漂う煎茶の香。
そして暖簾の奥より漂う香ばしき匂い。

「茶と団子、よしなにお頼み申す。」

待つ間に帳面と一筆、案思に耽っておると、
客席の一隅に静かに坐す女が見えた。

丸眼鏡に墨染の羽織。
女の手には煙管。

同じく帳面片手に、目の前にはなにやら銀色の細工。

それを眺める眼差しは、
まるで綴れぬ恋文を前にした女の如し。

頬をなにやら朱に染めて、潤んだ眼差しは艶を帯びる。
見るに、件の「下り物」であろうか。

眺めてはほぅと、くちもとより白煙はこぼれ、
その度に帳面に何かを書き込んでおる。

……なんとも、憑りつかれておる。
うつつの品にうつつを抜かすとは。

――その姿、まさに下り物狂ひ(くだりものぐるい)。

拙が筆に夢を見たように、
女もまた、うつつの品に恋慕しておるのだろう。

筆がさらり、帳面をなぞる。

  【下り物狂ひ】
    うつつの亡骸に耳を寄せ、
    その沈黙より声を拾おうとする者。

    その執着、うつつへの憧れか、己が癖か。

    なぞる指先は愛おしげ、その眼差しは狂気にも似て

    是なんとも、美しきものなり。
   
――
少し、書きすぎたのかもしれぬ。 

女がふとこちらを見た気がした。
拙は知らぬふりで、湯呑と団子を片手にえびす顔。


三.

夕暮れの庵。
文机に開かれた帳面にさらり書きつける。

ぶらり男の風の揺れ。
かの女史のあのまなざし。

執着の在り様とは、様々なもの。
生前の記憶、うつつへの憧れ。

そしてほれ、拙の膝の上で丸まっておるこの黒き獣も同じ。
暖をもとめて丸まるこれもまた、執着の在り様。

「……文太郎よ。お主は温ければどこへでも潜り込むのぅ。」
その重みに難儀しながら、なにやら心地は悪くない。

「お主も今日の『畸人』に書き記そうか。」
そう独りごちて、灯をおとす。

帳面を閉じ、布団の中へ。

暗闇の中、かの執着を思ふ。
なるほど――皆それぞれ、手放せぬ執着を抱き幽世に在る。

なれば拙もまた、綴るという行為を手放せぬ。
執着の在り様、か。

——拙もまた、とっくに幽世の一員なのだ。

明滅する灯の中、
筆は嗤い夜の帳は下りていった。

――了


次回 其之四


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