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幽世畸人伝ー伴久筆記ー 其之四【今邑の狐火】

序.

知足たりて、金糸に縋る。
肴に舌を鳴らし、金主の盃に媚びるようでは文人も終いである。

そこへ現れた赤き尾に、またぞろ筆がさらり。
これもまた、筆の性分というものよ。

一.

いかに騒がしき幽世なれど、霧に沈む夕暮ばかり幽けきもの。
拙は宵を待たず、メザシをぱちぱちと囲炉裏で炙る。

——なんと下僕よ、今日は早いではないか。
そういわんばかりに黒き獣が足を擦る。

今宵、珍しくも拙は浮かれておった。

文人が浮かれるとは、筆が冴えるか、腑が満ちるか。
はたまた侘しき筆の人生に、一本の金糸が垂れ落つるか――

今宵はなんと三つ巴。

曰く「せんせの草紙、読みましてなぁ」と、手をかざしてはえびす顔。
曰く「どうにも魂にしゅうっと沁みまして」と、こそばゆき感涙。
曰く「ぜひともせんせの御作のご支援を」――つまりは、金主。

文人と金は縁遠きもの。

知足も美徳も知る拙としては、
甘んじて施しを受けるほど筆は曲がっておらぬ。

されど人さまのお情けを袖にしては、野暮というもの。
そして今宵、このえびす顔の金主が馴染みの店へ招くという。

なんと塩梅の良いことに、拙の腑には若干の余白がある。

酒と肴を前にして文人たる矜持を語るなど、不徳不遜。
是なんとも致しかたなし。

故に御相伴にあずかることとし、
その夜は酒に肴に、酔い宵となったのである。


二.

そうして連れられたのは、三嶺稲荷の鳥居前町。
これみよがしに灯る社の火も届かぬ、裏路地の奥。

霧の向こうにゆらり浮かぶ、一軒の小店。
名を「今邑」という。

暖簾は手拭いほどの幅。
細々と灯る明かりに、僅かばかりの香の匂い。

――これはなんとも通好み。

かような店、往々にして外れであった試しがない。
これは知足たるまで、無事には帰れぬであろう。

まったく、金主というものは妙に通な場所に通ずるものよ。

さて、暖簾を捲れば店内は八席ばかり。

調度も控えめ、香は芳しく、
なんなら主も居らぬかと錯覚するほどの静けさである。

すると板場の奥より、男が一人。
白前掛けに麻の羽織。

髻に一点のほつれも見当たらぬ、五十ばかりの男。

「ようおこしやす。お連れさんのように口の肥えたお方には、
 うちのようなんは退屈かもしれまへんけど、
 ようけ楽しんでっておくれやす。」

物柔らかに、口は洒脱。

されどその手つきは寸分の違いもなく、
まずは一杯と注ぐ所作には、思わず喉も唸る。

なるほど、板場の男とはかようでなくてはな。

まずはぬる燗、香は立ちて、盃温し。
小皿には、ひとつまみの塩。

金主とふたり、互いに頷き塩をちょいと舐め、
くいと流し込めば、腑に沁みる。

続いて供されたのは、
鮎の山椒煮、焦がし味噌の田楽、炙りたての油揚げ。

いずれも筆を置かせるに足る。

「いやはや、筆の進まぬ料理というのはかえって罪深うございますな。」

などと独りごちては、早々にえびす顔。

そんな折、暖簾を捲る手がひとつ。

細白き指がずいと暖簾を押し分けたかと思えば、
現れたるは赤い小袖の町娘風情。

赤に赤。ふるり揺れる赤毛もなんとも場違い。
拙がひとつ鼻を鳴らせば、その鼻先を白菊の香が掠める。

町娘の腰元に揺れるは、ひとふさ――否、よふさの赤い尾。

なんと、狐である。
よふさともなれば、並の狐ではあるまい。

女は飄々とした声色で、
「熱燗ひとつ。お揚げはよう焼いてな?」
と主に告げ、実に馴れた様子で席についた。

つまりどこぞの神使、お忍びであろう。
なるほど、通好みの店なればこその光景。

では僭越ながらこの拙が、お忍びの所作も神使たるか。
この眼でしかと見届けてくれようぞ。

ことり、と主が皿を差し出す。

女はもの言わず、燗の盃をきゅうと空けると、
おもむろに醤油をちょいとたらし、炙りたての揚げを口にさくり。

「ん~……これや、やっぱ、これがないと、
 うちは宵を越されへんのよ。」
と、頬をふにゃりと緩ませた。

揃ってふるり、よふさの尾。
染まる頬は狐火の如し。

尾が揺れるたび漂う、かの白菊の香。
神域を思わせる残り香である。

されどまぁ、なんたる奔放さよ。

もはやその奔放すら隠す気もないと見え、
見目愛らしくその姿に拙はなにやら黒き獣を思い出す。

大変結構。
それが娘姿ともなれば尚の事。

結構な事ではあるが、
この女がどこぞの社ですましておる顔を思えば、
なんともおかしきことよ。

尾の揺れる様を見ては、
拙の口も綻ばずにはおられなんだ。

かくして帳面を開いては、筆をさらり。

  【狐火姫(こびひめ)】

    油揚げに恋慕するともり火。
         可憐にして、食い意地ばかりは逞しいこと、この上なし。

    緩んだ顔を見れば、普段のすまし顔が目に浮かぶようで、
         そんな娘が狐火の如く灯る場所――それこそ今邑である。

……すると横から、一本の手がぬぅと伸びた。

拙の目を、目が見返す。
その掌に、眼がぎょろりと瞬いた。

嗚呼、如何せん異界なのである。
この金主、よもや古典的怪異の類であったか。

まぶたもないぎょろりとした掌の瞳が、
拙の帳面を覗き込む。

「おや、せんせ。もう新作ですか!
 いやぁ、今夜中に一篇拝めそうや!」

拙は喉まで出かかった笑いを、酒でぐびりと封じ込める。
堪える拙を肴に、嗤う金主の顔。

そのとき、からりと玉がこぼれ落ちた。
ガラス玉である。

誠に遺憾ながら、幽世ではよくあることだ。

「これは失敬、どうにも頬が緩むと落ちるんですわ。」

満足げに玉を拾い上げる金主を前に、
拙は盃をもう一度傾けた。

しかし、かような異形の盛り合わせに、
箸ならぬ筆はなおも止まらぬ。

まったくこれでは、通な店にお呼ばれの甲斐もなし。
夜は緩やかに、酔いの香とともに流れていった。


三.

酔いどれの宵の帰り道。
帳面をひらひら、千鳥足。

庵へ戻る途中、拙はふと思う。

「幽世の風情とは、なんとも無情。
 一夜の情けも化け物風情にかかれば筆が走る。
 されどあの赤狐の媚び顔よ。
 狐火のすまし顔ときたら、如何なものであろう。」

手を高らかに掲げてはふさりふさり、よふさの舞。
霧の向こうで灯が揺れる。

媚びに酔ひしれ想い馳せ、筆の夢見る狐火ひとつ――

こうして案思に耽るというのも、拙の業なのであろう。

――了


次回 其之五

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