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幽世畸人伝ー伴久筆記ー 其之五【貌無しの鏡花】

序.

鏡が映すは、己が在り様。
曇天を映すは、我が眼の曇ゆえ。

何もない貌の女、ないまぜの酒。
それを映す拙もまた持たざる筆なれば、
筆は綴る。この珍妙なる幽世を。

一.

それは、やけに骨身に沁みる朝であった。
表の戸をがらりと引けば、曇り空。

風は冷たく墨は凍え、筆先はからりと割れて
硯に浮かぶ薄氷を見る。

——これはいかん。
布団をずいと引き摺れば、その裾より黒き尾がぱたり。

嗚呼、文太郎よ。
いと気高き獣なれどもこうも寒くては、
やはり布団が恋しいと見える。

拙はぽんと膝を打ちその股座を空けれども、
気に喰わぬのか近寄りもせぬ。

毛玉のぬくもりを当てにしたのがどうにもいけ好かぬと見える。
かくして拙の股座にはすきま風。

かような骨身に、さらに鞭打つのは軒先の烏共。
寒空の下の童の如く、今日も今日とて念仏三昧。

拍はそろわず節はまったく調子っぱずれ。
下手な物売りの節にも似たり、諸声に合唱――否、合掌。

隣家の軒先では相も変わらずぎっちらこ、ぎっちらこ。
なにやら陽気な縄の軋む音。
ぶらり男の縄の具合、本日も祝着この上なし。

何故かように騒々しく、愉しげでおられるのか。
嗚呼、幽世の空ばかりが我が心の写し鏡よ。

囲炉裏にぷぅと息を吹けば灰をかぶり、
ちろり、灯る火にあぶられ髭は黒焦げ。

拙は危うく文人の燻製と化すところであった。

筆は冴えず案思は干ばつ、空はただ曇天。
その流れゆく様を、拙は恨めしそうに見るばかり。


二.

さて文人と銭は縁遠きものと、誰かが言った。
されど、今日ばかりは銭が欲しかった。

ままならぬ宵に、文人は何を求めるか。
答えはひとつ――酔いである。

宵に酔いを迎えるためには銭が肝要。

なれど我が財布ときたら具合でも悪いのか、
腹と背がくっつかんばかり。

なんたる在り様。
その腹をみっちり膨らますのがお主の務めであろうに。

まぁ、独りごちたところで
腹は立てども膨れるわけもない。

そうして思い出したのは、川べりに佇む赤い灯。
屋号もなければ暖簾もない。
巷の呼ぶところ、「赤提灯」。

安酒を供する居酒屋であり、
「継酒屋」として知られておる。

文人たるもの、一杯の茶にこそ侘びを知れども、
安酒で腑を満たすは愚昧と知る。

されど、噂によればこうである。

曰くうつつより流れ来たる酒瓶。
その底の僅かな一滴を懇ろにかき集め、
惜しげもなく混ぜ合わせる因果な酒。

下り物、となれば拙の興をそそるのも無理もない。

そうして川べりには、ぽつねんと影法師がひとつ。
破れ障子を引けば、煤けた板間に焼き杉の香り。

火鉢は一つ、灯もひとつ。
愛想と縁遠き、朴念仁の店主が一人。

客が一人。またしても女。

目深に被った頭巾。
盃にその影を落としては、語り口ばかりが愉しげに踊る。

「ねぇ店長、聞いてようちの悩み。」

口調はさながら井戸端のおかみ。
甘やかなる声ばかりが妙に艶めく。

「うちな、自分の顔が思い出せへんのよ。」

その言葉にふん、と拙の鼻が鳴る。
顔が思い出せぬなら、鏡を見ればよいではないか。

女は続けた。
「昔はほんま、綺麗やったんよ?
 通りを歩けばみぃんな、鼻の下伸ばしてさ。
 そらそうよ。だってなんべんも『整えた』んやもん。
 ここやろ?ここと、あと顎も。
 ちょっと削って、入れたり抜いたり。」

己が貌を、能面でも彫るかの如く語る女。
店主も店主で、聞いておるのかおらぬのか。
時折頷いては手だけは休めぬ。

まぁ、幽世の女の戯言である。
聞いたところで今更ぞっとせぬ。

それにこういう手合いは関わらぬに限る。
一杯ひっかけお暇するとしよう。

「でもね、美人やったことだけはちゃんと覚えてるんよ。
 —―うふふ。嘘やおもてる?こればっかりは、おおまじめ。」

揺れる火鉢の向こうで、
女のくすくすと笑う甘やかな声。

思い出せぬのに断ずる女とはいかな者であろうか。
美人というからには、目鼻立ちから口元の形まで、
とくと評してやろうではないか。

すると女がこちらを向いた。
「ねぇ、文人さん?」

いかん。
心を見透かされたのか、先手を取られるとは。

「あんたも気になるやろ?うちの顔。」

そう言われては返す言葉もない。
拙はただ目を細め、ごくりと頷いた。

「ふふ、ほな特別ね……。」
そういって女がするりと頭巾をおろす。

「――こんな顔。」

……嗚呼、愉快。
女の顔には何もない。

評するべき目も口も鼻すらも。
薄明りに照らされたのは、一点の曇りもなき白磁。
またしても古典的怪異とは――。

拙は震える肩をおさえて、筆をさらり。

  【貌無しの鏡花】
    鏡に美醜を問うては作って壊し、
    作っては壊して、果てに残るは白磁の顔と自惚ればかり。
    貌も思い出せぬ癖に朗々と己が美を語る、その曇りなき白磁こそ、
    まさしく記憶の中の写し鏡。

「うふふ、めっちゃウケてる~。
 これね、鉄板なんよ。」

笑い女が、咽せ返る拙の背をさする。
なおも笑いの止まらぬ拙の前には、最初の一杯。

店主が差し出したのは「ばくだん」と云ふ酒。

赤玉の描かれた葡萄酒と、焼酎の混ぜ物。
下り物のないまぜの、得体のしれぬ液体。

一口呑めば、甘やかな液が喉を焼く。
二口呑めば、足がふわり。
三口呑めば、筆が踊る。

――さながら蜜漬けの火鉢。

一杯、また一杯。
宵の更けるより先に酔いは巡り、
足元はふらり、おぼつかぬ。

店を後にすれば、冷たい風がなんとも心地よい。
ゆらり歩みて、唄がこぼれる。

「……かっぽれかっぽれ、甘茶でかっぽれ~」

川べりに揺れる影法師がなにやらふたつに見える。

あぁ、幽世が踊っておる。
そうして拙は千鳥足で帰路についた。


三.

帰って参ったぞと戸を開けば、
するりと足元には黒き獣の尾。

座り込めば膝に乗り、ぐるぐると喉が鳴る。
その重みに、ほぅと吐息を零せばまたも逃げよった。

安堵である。
これぞ我が筆庵である。

筆を執りて文机に向かえば、
やがて喉にこみ上げるのはばくだんの熱。

――ひとしきり腑が落ち着いたころ、
思い出すのは白磁の顔とあの笑い声。

貌を失ってもなお、あのように笑えるものだろうか。
あの女は、持たざることすら笑いに変えて、己が在り様とする。

それに引き換え拙とくれば、
騒がしいだの髭が焦げただのと、情けないことこの上ない。

いっそ髭なんぞ燃えてしまえば、
拙とてあの白磁になれるやもしれぬ。

そう思えば、なんとも滑稽な事か。
どうにも曇っておったのは拙の眼であった。

嗚呼、本日も晴朗なり。

拙が再び帳面を開けば、墨が走る。
誰に読ませるでもない。
ただ己の滑稽を忘れぬために。

珍妙にして奇。
幽世とは実に面白い。

――了


次回 其之六

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