幽世畸人伝ー伴久筆記ー 其之一【胡蝶の夢】
序.
人の夢に筆が迷ったのか、筆の夢に人が落ちたのか。
宵に酔いて、気付けば異界——否、幽世。
これは夢中の筆が記した、一夜のうつつ也。

一.
荘子曰く。
ある夜、胡蝶となって舞いし夢を見たり。
目覚めて思ふ――
「果たして、わたしは胡蝶の夢を見た荘子か。
それとも、荘子を夢に見ている胡蝶なのか」と。
さて、ならば拙は如何。
己が何者かなどという問いは、若気の至りか詩人の錯乱。
そのように言い捨ててきたはずの拙がよりにもよって、
こんなところで己の輪郭をなぞり直す羽目になるとは思わなんだ。
確かに先ほどまで夜の伏見の鳥居前町を
浮かれ気分で歩いていた。
酔いの戯れに月をなぞらんと筆を一本、
川に落としてそれっきり。
流れゆく川のせせらぎに目を閉じ――
目を開けばそこは、伏見に似て伏見にあらず。
灯の霞む路地を行き交うのは、
角に尾に、枯れ尾花の如く煤けた者ども。
誰彼も名を知らず、ましてや人にも非ず。
――誠に遺憾ながら、異界である。
などと言うたところで、心は不思議と波立たぬ。
むしろ、心地は月の泉に揺蕩うが如し。
まるで筆の先からこぼれた一滴の墨が、
硯の海に溶けゆくような――
そう思えば、先程までの現こそ夢ではあるまいか。
呆けておるのは拙なのか、夢心地であるから呆けておるのか。
なにやらぞっとせぬ考えが、胸をよぎる。
二.
さてその夜、拙は「闇市」と呼ばれる場に迷い込んだ。
粗末な天幕に粗末な茣蓙。
先程の角やら尾やら、煤けた枯れ尾花やら、賑やかなることこの上ない。
これは、縁日であろうか。
されど並ぶ品は、見れば見る程くだらぬものばかり。
霞む灯のもとに並ぶのは、壊れた鏡、沈黙したからくり、
奇妙な装束、書ともいえぬ、言葉を書き連ねた帳面。
されど、くだらぬものにこそ筆が疼くのが文人の業。
うつつの残渣のごときそれらの品を、拙は眺めながら歩を進める。
すると市の隅に白布を巻いた老婆がひとり、
目を閉じて座っておった。
ぶつぶつと呟く経は、古びた草子をめくるかの如し。
甘やかなる白檀の香としゃがれた声に誘われ近づけば、
その老婆が目を開かぬまま笑っておる。
「おや……これは珍しや。
お主の魂のかたち、まるで和御魂のようじゃが
なにやら奇(くし)んでおるのう。
まるでうつつと夢があべこべじゃ。」
あべこべ――であるか。
「これお婆どの、拙は文人 伴 久筆(ばん きゅうひつ)と申す。
筆を以て世を綴り、曇りなき眼で畸を写す者なり。
あべこべなどと、魂に歪みなどあろうはずがあるまい。」
なにやら老婆がくつくつと、喉の奥で笑っておる。
「そう思うておるのじゃな。
じゃが、ここは幽世(かくりよ)。
命を終えた者、御使い、畏れられし物の怪、
未練を引きずる魂……皆ずるずるとここへ流れ着く。」
「生きたまま迷い込む間抜けもおる。
使い古された茶碗や草履まで、いけしゃあしゃあとな。
どなたもこなたも、居場所のない流れもんばっかりじゃて。」
そして老婆は、こう告げおった。
「お主のような魂も見覚えがあるわい。
誰かに使われ、重なる手垢の思念を吸い……
やがて己こそ主と錯覚した――そんな道具の魂よ。」
あべこべの上に自惚れとは。
拙が道具であるなどと、笑えぬ滑稽。
されどここは異界。笑うておる場合ではない。
成程、そも拙は果たして「伴 久筆」などという名であったろうか。
人にあらず道具などと言われては、先程口にした名すらも、
よもや己のうぬぼれではあるまいかと思えてくる。
その時の拙は、よほど腑抜けた顔であったのであろう。
なにやら老婆が手を伸ばしておる。
「さて、見立てはここまでじゃ。これ以上の見料はそなたの心づけ次第。
額によっては、祟られても知らんぞえ。」
あはれな迷い人を助けんとする気の良い御仁などと
思うたのが拙の浅はかであったか。
よもや客寄せのための施業であったとは。
異界とはいえ、やはり銭こそ資本なのであろう。
されど文人と云ふものは、えてして筆先こそ立てど財布は薄いもの。
むろん持ち合わせなどあろうはずもない。
「それはそれはなんとも、ありがたき申し出。
されど、拙はこちらに来たばかりゆえ、財布もこれこの通り。
きっとこのご縁はいつかお返しいたします。何卒今宵はこれにて。」
これ以上「見立て」をされて、
異界に迷い込んだ早々おけらにされてはかなわぬ。
拙がぺこりと頭を下げて、踵をかえそうとしたその刹那。
「では……その懐の筆巻をいただこうかの。」
筆巻――
気付けば懐にあった、拙の筆ども。
筆と、筆と、筆しか入っておらぬ、唯一の持ち物。
この筆までを取られては文人稼業もできぬではないか。
されど、対価を求められて支払わぬは文士の名折れ。
迷いながらも、拙は筆を一本取り出し差し出した。
なにやら老婆がしげしげと眺めて、申す。
「やはりの、これよ。魂の抜け殻じゃ。
お主を包んでおったものよ。
この器なくして、書き続けるというのなら――
お主は、書くために出でた魂ということじゃ。」
その見立てに、なにやら拙の心はぞっとせなんだ。
——筆ごときが拙の器であろうはずもあるまい。
されど、心ばかりはからりと冷えてゆく始末。
老婆がそっと、筆を懐にしまい込む。
「お主が手元に残した筆どもはただの筆じゃ。奇異てもおらぬ。
ようよう励んで、その筆どもで思うさまに書くがよかろうて。」
三.
老婆と別れ、あてどなくさまよう拙は、
どうにか一軒、人気もない古びた庵にたどりついた。
襖は野ざらし、畳などとうにない。
されど、からりと冷えた拙の心の裡には良い塩梅。
古びた文机を前に、筆巻をばらりと解く。
まずは資本である。
綴らねば、生活も立つまい。
——さて、その夜からどうにも筆が止まらぬ。
異界——ここ幽世に在る奇怪ども。
眺めれば眺める程に、滑稽なる者ども。
己が名前すら忘れたもの。その心の裡は情念ばかり。
拙がそれらを綴るたび、墨の香が輪郭を描きなおしてゆく。
拙は、伴久筆と云ふ者ではないのかもしれぬ。
されど、この筆が墨を書きつける限り――
この刹那だけは、確かに「拙」なのである。
筆の夢か、夢の筆か。
この際、どちらでもよかろう。
【胡蝶の夢】
かの荘子が蝶の夢を見たように、
これが筆の見る文人の夢であったとしても、
この筆先が綴る幽世こそが、それを証し立ててくれるはずだ。
墨の香は、この筆先にこそ香りけり。
――了
次回 其之二
