見出し画像

逢魔が時に、スレ違う-第四刷-|毒者《どくしゃ》の|聲《こえ》は沈黙に

吐き出されたばかりの朝刊を、震える手でひったくる。まだ熱を帯びた紙面から、鉛と油の匂いが立ち昇ってきた。

極太の見出し、

『黒田一郎、凄惨な死』。

その周囲を、夥しい数の歪な黒い染みがびっしりと覆い尽くしている。印刷時のボタ汚れじゃない。目を凝らすと、それはダニの死骸さながらに蠢く極小の活字の群れだった。


『記者のくせに態度がでかい』

『腹が立つ、目障りだ』

『不幸になれ』

『消えろ』

『死ね』

紙面の余白という余白が黒々とした怨嗟で埋め尽くされている。瀬中が俺に押し付けた、毒者どくしゃこえの成れの果てだ。顔も見えない鏡町の連中が、便所の底に吐き捨てた匿名の汚物が、インクの血肉を啜り、俺の死を蟲造ちゅうぞうしている。

俺は力任せにバールを握り直す。こいつの息の根を止めれば、明日の朝刊は白紙だ。だが、鉄塊の脳天へ振り下ろそうとした両腕が、中空なかぞらでつんのめった。


シャン、タン。


脈を打つたび、シリンダーの隙間から粘り気のある黒い液体が撒き散らされる。インクじゃない。機械油と錆が発酵した泥水だ。ゼェ、ゼェという不快な駆動音。底知れぬ悪意を無理やり口に押し込まれ、内臓を腐らせてえずいている。こいつは俺を殺そうとする化け物なんかじゃない。吐き気を催すほどの呪詛で膨れ上がった、ただの哀れな嘔吐ゲロ袋だ。活字の許容量を超えた呪詛が、シリンダーの軋む悲鳴となって漏れ出している。俺への恨み辛みが、この機械の限界値を突破しちまったのだ。

哀れな鉄屑はもう、街の悪意を呑み込みきれない。
これ以上泥水のようなインクを吐き続けるくらいなら、原因である記者の俺ごと、

『 ✂―――― 』裁ち落とし線


で切り刻み、全てを終わらせようと暴走している。明確な殺意じゃない。限界を迎えた排泄器官の、自傷行為に近い狂乱だ。

こいつの息の根をバールで止めればどうなる。行き場を失った怨念の泥水が、七階の底をブチ抜いて、このビル全体へと逆流し、連中全員が活字の海で溺れ死ぬだけだ。

喉の奥から、肺病病みのような掠れた息が漏れた。それは奇妙な笑い声となって暗闇に響いた。掌にこびりついた鉄の冷たさを振り払うように、俺は握りしめていたバールを埃まみれの床へ放り投げる。ガラン、と間の抜けた音が、版下の狂室に空しく響き渡った。


シャリ、と足元の活字が鳴る。


放っておけば、この鉄屑は腹に溜め込んだ怨念で弾け飛ぶ。匿名の汚物なんぞに、俺の輪郭を消させてたまるものか。更半紙の左手を、コートの内ポケットへ深くねじり込む。指先が掴んだのは、四百字詰めの原稿用紙。密かに温めていた、B港の密輸ルートを暴く『特ダネ』だ。まだ誰も知らない、生々しい血の匂いがする真実の塊。俺は原稿を引き抜き、ヘドロが煮えたぎるインク壺の中へ躊躇いなく放り込んだ。

途端に、機械のえずきがピタリと止む。シーンと、耳の奥が痛くなるほどの静寂。そして、シャン、とたった一度だけ重い音が鳴った。無骨な鉄の表面に、俺の書いた密輸ルートの文字が、青黒い痣のようにじんわりと浮かび上がってくる。


ゥ、ァ、ゥ、ァ。


規則正しい吸気と呼気。俺自身の肺腑の収縮と、一寸の狂いもなく重なるリズムで、冷たい鉄塊が呼吸を始めていた。同調の代償か。俺の体温が急速に奪われていく。冷たい悪寒と共に、輪転機の吐き出し口から音もなくゲラ紙が滑り落ちてきた。一枚、また一枚。否、落ちていない。それらは床に着く前に空中で重なり合い、奇妙な立体を構築し始めていた。インクの染みが脈を打ち、無数のゲラ紙が折り重なる。



組み上げられていくのは人間の骨格。
ただただ静かに、俺の特ダネという情報を素材にして、もう一つの存在……が出力されているのだ。

床の埃の隙間、いつから死んでいたのか、干からびたハエの死骸がひっくり返って細い脚を縮めている。黒田の靴底がそれを無造作に踏み潰した。プチリと乾いた微音が、静寂を汚した。

やがて、そいつはゆっくりと立ち上がった。黒いコートに乱れた髪。顔面には、俺が暴いた『B港の密輸ルート』の極太明朝体が、入れ墨のようにびっしりと刻み込まれている。インクの腐臭を纏った、もう一人の俺。いつぞや、ひび割れた姿見の奥底で俺を薄気味悪く嗤っていたあの影法師が、確かな存在を纏ってそこに立っていた。そいつは俺の顔で、ニヤリと唇を歪める。背筋に冷たい鉛が流し込まれた。


『お前の代役は、俺が引き受ける──』


聲はない。だが、活字で構成されたその嘲笑が、網膜を通じて脳髄に直接そう告げていた。活字の分身は、足音ひとつ立てずに暗闇の廊下へ姿を消す。七階の底から海馬ビルを降り、鏡町の現実世界へと侵入していく。特ダネを喰らった鉄屑は、こんな悪趣味な存在証明を吐き出しやがった。

俺がその場にへたり込んだ瞬間、シャン、と輪転機が最後のペラ紙を一枚だけ吐き出す。


『海馬日報記者・黒田一郎、存在を抹消され、七階の密室にて沈黙の死──』

特ダネは奪われ、死の形だけが静かに更新されていた。俺は埃まみれの床に放り投げたはずのバールを、両手で強く握りしめていた。拾い上げた記憶は、すっぽりと抜け落ちている。掌には、べっとりと生温かい雨水。窓もない七階の密室で、肌を打つ夜雨やうの感触だけがやけに生々しい。背後では、ネジを巻いた覚えもない柱時計が、カチ、カチと不規則な拍動を刻み始めている。


ジ…ジジ……ジジ……


唐突な視界の混線。赤と紫が滲む毒々しいネオンが、網膜へ無理やり割り込んでくる。右の眼球は四畳半の鉄屑を、左の眼球は安っぽい極彩色ごくさいしきの夜を舐め回す。奴の毒電波が、俺の視神経を焼き切り、強制的に回線を繋いできやがる。活字の分身が場末の扉を押し開けた途端、むせ返るような紫煙と安酒の匂いが喉の奥を犯した。奴がグラスの氷を鳴らすたび、俺の喉仏が勝手に痙攣するように跳ね回る。

左の網膜が捉えたのは、カウンター越しに煙を吐き出す瀬中の顔だった。スプリングコートの袖口から伸びた俺の手が、四百字詰めの原稿用紙を差し出している。さっきインク壺で泥に還ったはずの『特ダネ』だ。瀬中が原稿を一瞬見て、ニヤリと嗤う。

唐突に、密室にいる俺の腹の底から、ひどく耳障りな歓喜の笑い声がせり上がってきた。俺の意思じゃない。インクの皮を被った奴が喜んでいやがる。


『素晴らしい記事やないかい。明日の朝刊のトップ貼ろか──』


瀬中の声と完全に同期して、目の前の鉄屑がシャン、と重い音を立てた。輪転機の吐き出し口から、今のセリフが刻まれたゲラ紙がヘドロ状の唾と共に吐き出される。俺は暗闇の底で、自分の特ダネが他人の手で消費されていく様を、ただ活字として読まされるだけの紙切れに成り下がっていた。左の網膜で、分身が瀬中と祝杯のグラスを合わせる……。おいおい、勝手に組まれた活字の通りに、くたばってたまるものか。俺はバールを投げ捨て、熱を持つ目の前の鉄屑へ飛びかかった。

活字盤の上に並んだ小さな鉛の群れ。瀬中の言葉を刷り出した直後の、生々しい文字列だ。俺は更半紙の小指を、生インクが煮え滾るシリンダーの隙間へ強引にねじ込んだ。

骨が軋み、肉が裂ける。血と油で真っ黒に染まった指先で、『トップ貼ろか』という鉛の配列を力任せに毟り取った。代わりに、自分の血液を糊にして、手掴みした別の活字をその隙間へ無理やり叩き込む。


『祝杯の酒は、劇薬の喪ル非ネモルヒネ──』


左目の視界で、奴が激しく咽せた。カラン、と氷ごとグラスが床に砕け散る。奴の口から、真っ黒なインクの吐瀉物がカウンターへぶち撒けられた。暗闇の底に幽閉された俺が、現実のゲラに強烈な赤字を突きつけてやったのだ。

左目の網膜に映る分身が、凄惨な音を立てて崩れ落ちる。肉の輪郭を失ったインクの塊が、真っ黒な泥水へと還り、場末の床へ広がっていく。

瀬中は慌てる素振りすら見せない。煙草の灰を泥水へ落とし、ゆっくりとしゃがみ込んだ。奴の濁った眼球が、泥水に浮かぶ分身の左目を、いや、七階の密室にいる俺の視神経を真っ直ぐに射抜く。


「活字盤でも弄りよったか。相変わらず小賢しい真似しよって──」


網膜の奥で、鉛の針が粟立った。瀬中はこの異常事態を、ただの厄介な印刷ミス程度にしか捉えていない。この男もまた、鏡町の底なしの狂気に適応しきった、ただの醜悪なインクの染みに過ぎないのだ。


「……そこで見とるんやろ、黒田。お前の原稿は、ここで終わりや」


底冷えのする宣告と共に、左目の視界がぶつりと黒く塗り潰された。一方的な遮断、それは切断にも近い。誰もいないはずの暗闇の隅、湿気たマッチの頭が自重で潰れ、ツンとしたわずかな硫黄の臭いが漂って消えた。ただそれだけだ。ただ。

残された俺の右目には、静寂を取り戻した四畳半の鉄屑だけが映っていた。鼓膜の奥が痛くなるほどの無音。四畳半の暗闇が、湿った毛布のように肌にまとわりつく。さっきまで左の網膜を焼いていた歓楽街のネオンも、今は幻肢痛げんしつうのように遠い。

毒電波が途絶えた途端、活字盤にねじ込んだ左手から、脳髄を金槌で殴られるような激痛が這い上がってきた。小指の肉は裂け、ドロドロの生インクと俺の血が混ざり合って、鉄屑の隙間にどす黒い水溜まりを作っている。俺の血を喰らいすぎたのか。それとも、鏡町の機構に逆らった代償か。

不意に、目の前の輪転機が低い産声を上げた。ゴト、ゴト、と不整脈のような軋み音。吐き出し口から、一枚のゲラ紙が舌をだらりと垂らすように這い出てくる。そこに印字されていたのは、活字の羅列ではない。紙面を完全に埋め尽くす、ただの真っ黒なインクの塊であり、記事でも、死の宣告でもない。黒田一郎という存在の、完全なる塗り潰しだった。


紙面から滴る生インクごと、血まみれの右手で握り潰す。俺はただ本能のままに天を仰ぎ、腹の底から獣のような咆哮を吐き出そうとした……。


……だが、喉仏が震えても、大気は一切の音を奏でなかった。


声にならない絶叫は、手にしたゲラの暗黒へ真っ直ぐに吸い込まれていく。俺の放った劇薬喪ル非ネは、結果として俺自身の『言葉コトノハ』を完全に死滅させた。記事を書く指を潰され、真実を告発するこえすらも、この底なしの沼へ沈められたのだ。

圧倒的な無音の深海。俺は四畳半の暗闇で、誰にも届かない悲鳴を上げ続ける。活字の劇毒を飲み干した哀れな毒者どくしゃは、自らの聲を失ったまま、永遠の沈黙の中へと見事に折りたたまれていった。


#創作大賞2026
#ホラー小説部門

タイトル画・挿絵/胡貼こちょう 十夜とや

第五刷はコチラ☟


いいなと思ったら応援しよう!

宮悪戦車【ストロベリーソングオーケストラ、瀉葬文幻庫】 お憑かれ様デス!やってて良かったnote! アナタのお気持ち(サポート)宜しくお願いします! いただいたお気持ちは今後の執筆活動・創作活動にドバっと注いで逝きます!!褒めたら伸びる子なんデス(当社比)