歌舞伎揚げと日日是好日。
第一章 真夜中の反省会と冷えた麦茶
夜の十二時を過ぎ、部屋の明かりを消して布団に入ると、頼んでもいないのに頭の中で勝手に怪しい反省会が開催される。
昼間の光の中では気にも留めなかったような自分のマヌケな振る舞いや、実行に移せなかった計画の残骸が、暗闇の中でぞろぞろと湧き出してくるのだ。
スーパーのレジで小銭を落としてしまい、後ろに並んでいた買い物かごを持ったおじさんに「チッ」と盛大な舌打ちをされたこと。
今日こそは綺麗に整理整頓しようと心に固く誓っていたデスクの一番下の引き出しを、結局一度も開けずに一日を終えてしまったこと。
あるいは、夜の八時に「これが最後の一枚」と自分に言い聞かせながら、甘辛い醤油の匂いに負けて歌舞伎揚を袋の半分も貪り喰ってしまったこと。
天井のうす暗い照明をじっと見つめながら、私は何度も深い溜息をつき、自分という人間の意志の弱さと要領の悪さにうんざりしてしまう。
この真夜中の反省会というものはとにかくタチが悪く、議長も原告も裁判官も全員が私自身であるため、手加減というものが一切存在しない。
「なぜあの時、小銭入れを指先に全集中させて固く握っていなかったのか」
「なぜ引き出しの整理という数分で終わる作業すら後回しにするのか」
「なぜ歌舞伎揚のあの魅惑的な歯ごたえと油の旨味に、四十過ぎた大人があっさりと敗北するのか」
自らによる自らのための詰問に次ぐ詰問によって、心はすっかりへこみ、喉の渇きを覚えて冷えた麦茶を飲みにキッチンへ向かう足取りも、まるで鉛でも仕込まれたかのように重たくなる。
仏教の世界では、世の中の真理やものの本質に疎く、自分の勝手な妄想や執着にとらわれて暗い苦しみの中に沈む状態を「無明」と呼ぶらしい。
真夜中に冷えた麦茶をすすりながら、己のダメさ加減に打ちひしがれている私の姿は、まさにこの無明の渦中にどっぷりと浸かっている状態と言える。
自分の欠点や不手際ばかりを拡大鏡でのぞき込み、自分で自分を裁いて勝手に絶望しているのだから、我ながら世話がないと思う。
わざわざ暗闇の中で自分を被告人の席に座らせ、重罪を言い渡して暗い気持ちで眠りにつくなど、一体全体なんという無駄で不毛なエネルギーの消費だろうと感じる。
第二章 消しゴムカスと「出来たこと」の収穫祭
台所で麦茶を飲み干し、ふと自分の生活を思い返してみる。
私はなぜ、これほどまでに「出来なかったこと」ばかりを愛おしそうに拾い集めては、夜な夜な数え上げてしまうのだろうか。
机の上に置かれたシステム手帳を開けば、そこには朝の段階で鼻息荒く書き込まれた「本日やるべきことリスト」が鎮座している。
三十頁ほどの読書、十五分の筋トレ、英語の単語帳を十ページ分暗記する、そして風呂場の排水口を掃除する。
どれもこれも、見事なまでにチェックマークがつかないまま放置されており、まるで消しゴムのカスのように虚しくノートの隅に転がっている。
しかし、よくよく今日という一日を丁寧に巻き戻して観察してみると、私は手帳のリストには書いていない数多くの「出来たこと」を確かに遂行しているのだ。
たとえば、今朝六時三十分、目覚まし時計の不快な電子音が鳴り響いた瞬間、私は吸い寄せられるような温かい布団の誘惑に打ち勝ち、ガバッと起き上がって二足歩行を開始した。
これは人間の生存本能からしても、実に誇るべき偉大な第一歩である。
通勤途中の満員電車の中では、前に立っていた大きな荷物を抱えたおばあさんに、ごく自然な動作で席を譲ることができた。
昼食に入った古い定食屋では、少し耳の遠い店主のおじいさんが運んできてくれた熱いお茶に対し、心を込めて「ありがとうございます」と笑顔を添えて受け取った。
さらに、ベランダに干した洗濯物が不意の強風で飛んでいかないよう、洗濯ばさみを二重につけるという周到なリスク管理すら完了させている。
これらはすべて、今日という日を無事に生き抜く上で、立派に「出来たこと」のリストにカウントされるべき功績ではないか。
それなのに、私は「英単語を覚えなかった」「歌舞伎揚を食べた」という一部の落第点のみをもってして、今日という一日全体に「不合格」の烙印を押していたのだ。
これはあまりにも自分自身に対して不誠実であり、理不尽で残酷な評価を下している気がする。
仏教の「唯識」という深い教えによれば、私たちが認知しているこの世界というものは、すべて自分の心が作り出している映像に過ぎないという。
つまり、今日という一日が最高に素晴らしい日だったのか、それとも最低で惨めな日だったのかを決めているのは、外側の出来事そのものではなく、私の勝手な「見立て」に過ぎないのだと思う。
出来なかったことばかりに執着して自分を責めるのは、わざわざ自分で自分の心に冷たい毒を盛るようなものであり、実にバカバカしい自傷行為なのではないかと気づく。
第三章 不殺生の戒と腹八分目のうどん
自分を責めるという行為は、よく考えてみると非常にタチが悪い。
他人にむかって「なぜお前はそんなことも出来ないんだ」「相変わらずダメな奴だな」などと暴言を吐けば、当然ながら人間関係は崩壊し、下手をすれば裁判沙汰になる。
それにもかかわらず、私たちは自分自身に対してだけは、信じられないほどの猛毒を含んだ暴言を日常的に浴びせかけている。
しかもタチが悪いことに、誰もそれを止めてはくれないし、警察も飛んできてはくれないのだ。
しかし、仏教には最も基本的で重要な戒律として「不殺生」という教えが存在する。
文字通り「生き物を殺してはならない、傷つけてはならない」という教えなのだが、これは何も蚊や蜘蛛を殺さないことだけを指しているのではないはずだ。
自分自身の心や身体を、刃物のような言葉でグサグサと痛めつけないこともまた、立派な不殺生の実践なのではないか。
「今日もお風呂の掃除ができなかった」「またダイエット中に煎餅を食べてしまった」と自分を激しく責め立てるのは、自分で自分の心に傷をつけ、血を流させている心理的な暴力に他ならない。
そんな不毛な社内虐待のような真似はさっさとやめて、自らが行った小さな「出来たこと」を大げさに自賛する方に舵を切るべきだと思える。
「今日も無事に朝起きて、会社に行って、昼に温かいカツ丼を食べた。
実に偉い」
「脱いだ靴をちゃんと揃えて玄関に置いた。
なんという素晴らしい品格だろう」
それだけで、一日としては百点満点なのではないか。
禅の言葉に「日日是好日」という実に味わい深い名言がある。
毎日が良い日であるという意味だが、これは決して「毎日ハッピーで完璧な奇跡ばかりが起きる」という意味ではないらしい。
雨が降ろうが、小銭をレジでぶちまけようが、歌舞伎揚を食べ過ぎて少し胃が重くなろうが、その日その瞬間をありのままに受け入れ、面白がることができれば、それこそが最高の日なのだと解釈できる。
夜布団に入って「出来なかったこと」を数えて落ち込んでいる暇があったら、夕飯に食べたうどんの黄金色の出汁の香りを思い出し、「今日も無事に美味いものを食べられた」と満足するほうが、遥かに健全で豊かな生き方なのだと。
第四章 縁起の糸とささやかな小躍り
一日を振り返る時に、出来なかったことのリストを破り捨て、出来たことの小さな欠片を拾い集めて自分を評価するようになると、不思議と心の風通しが良くなる気がする。
「今日もちゃんと歯を磨いて虫歯を防いだ」「ゴミを決められた分類通りに捨てられた」と、自分に小さなハナマルをあげていると、なんだか明日という日も少しだけマシなものにできそうな、気楽な勇気が湧いてくるのだ。
出来なかったことで自分を責めると、心はすくみ上がり、次の行動を起こす気力さえ奪われてしまう。
しかし、小さな出来たことを喜んで自分を甘やかすと、心に余裕が生まれ、それが次の行動へのゆるやかなエンジンになるのだと実感する。
仏教の根幹にある最も重要な思考システムに「縁起」という考え方がある。
世の中のすべての事象や存在は、単独で独立して存在しているのではなく、無数の原因と条件が複雑に絡み合った繋がりの中で生かされているという教えだ。
今日、私が無事に一日を終え、こうして布団の中で呑気に文章を構想できているのも、実に無数の奇跡的な繋がりの賜物だと思える。
蛇口をひねれば当たり前のように冷たく綺麗な水が出ること。
電力会社の人々が不眠不休で送電線を守ってくれているおかげで、部屋の明かりが点くこと。
今日食べた美味しいお米を、真夏の暑い中で泥まみれになりながら育ててくれた農家のおじさんが存在すること。
そうした途方もない巨大なネットワーク(縁起)の支えがあって、私は今、ここで生きて息をしているのだと気づく。
そう考えてみると、自分が「英単語を十ページ覚えられなかった」とか「筋トレをサボった」などという失敗は、宇宙の壮大な歴史から見れば実にちっぽけで、むしろ愛おしいほどの小さなドジに過ぎないと思えてくる。
出来なかった事という幻影に縛られて自分を責め、暗い顔で落ち込むくらいなら、「今日も無事に生きて一日を終えられた!」という最大の出来たことを祝して、心の中で小さく小躍りするほうがずっと健康的でスマートな生き方だと考える。
過去の出来なかったことに執着して自分を痛めつけることもなく、まだ見ぬ未来の不安に怯えることもなく、「今」というこの瞬間を素直に喜び、目の前にあるささやかな幸せをしっかりと噛みしめる。
失敗したら苦笑いし、出来たことがあれば自画自賛する。
それこそが、煩悩だらけでマヌケな私たちが、この複雑な現代社会を機嫌よく、そして軽やかに生きていくための、一番の秘訣なのではないかと感じる。
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