コロッセオと土俵—演技を罰する祭り、螺旋を登る祭り
アルゼンチン対スイス。1-1に追いついた直後、スイスのエンボロが退場した。二枚目のイエローカードの理由は、シミュレーション——つまり、演技だった。
この一枚のカードに、私は立ち止まる。倒れてもいないのに倒れる。痛くもないのに顔を顰める。身体の演技を、審判が見抜き、制度が罰した。「身体は演技しない」とイングランド対ノルウェー戦で思ったが、今夜はその命題が、ルールブックの側から現れた。サッカーという競技は、演技を罰則として明文化している。ピッチは、嘘をつけない身体だけが立っていい場所だと、制度そのものが宣言している。
だが、ここに巨大な皮肉がある。
ピッチの上では、たった一度の演技が退場に値する。ではピッチの外では? 放映権の密室、開催地をめぐる取引、金の鍵の行き交う貴賓席——あちらの演技には、誰がカードを出すのか。FIFAの腐敗は都市伝説ではない。2015年の米司法省による一斉起訴という、実証済みの歴史だ。追いついた勢いを一枚のカードで失うスイスを見ながら、スイス人の会長の顔が浮かぶ。選手の演技は二枚で退場、理事会の演技は何枚でも続行。検証の非対称——これが、いまのワールドカップの構造だ。
観客席から、私はコロッセオを見ている気がした。
戦いを、慣習が囲む。ローマのコロッセオは、闘技を興行にし、皇帝の政治を観客の熱狂で包んだ。ヨーロッパや中東には、いまも円形闘技場がいくつも残る。翻って日本に残る「戦いの円」は、土俵くらいだろうか。コロッセオは戦いを見世物(スペクタクル)にし、土俵は戦いを儀式(道)にした——と、まず私は言いたくなる。
だが、ここで自分に摩擦をかけておく。土俵もまた、興行だ。大相撲は江戸の昔から木戸銭を取る商業であり、番付は金と名誉の階段であり、八百長という「演技」の歴史も抱えてきた。道と商業は、日本と西洋に振り分けられる二項ではない。どの文明の円のなかにも、両方が同居している。私が「日本人には駆け引きやずるさが理解できない部分がある」と感じるのは、半分は本当の気質の違いで、半分は自画像の美化かもしれない。マリーシアと呼ばれる駆け引きは、南の国々では卑劣ではなく技芸だ。文化の違いは、優劣の違いではない。——そう書き留めた上でなお、戦いを「道」へ昇華させようとする衝動が日本の古層に強くあることは、土俵という円が証している。
それでも、サッカー少年は夢を見る。
ワールドカップで名を売れば、移籍金が動き、クラブと契約し、物質的な豊かさが手に入る。家族を養い、故郷にピッチを建てられる。この夢を、商業主義の毒だと切り捨てる資格は、誰にもない。貧しい路地からこの祭りへ届く梯子は、確かに金でできている。だが問いは、その先にある。物質の豊かさは手に入った。精神の豊かさは、どうだろう。——いま、時代はちょうどこの問いの前に来ている気がする。祭りの器が金で膨らみ切ったとき、人は器の中身を問い始める。
だから私は、腐敗の露呈を、終わりの徴ではなく、螺旋の徴として見たい。
守破離で言えば、祭りはいま「破」の局面にある。コロッセオ型の興行——中央が仕切り、金が密室を流れ、観客は消費する——という「守」の形が、限界を露わにしている。きっかけは、FIFAの腐敗と、審判の限界だ。だがピッチには、すでに次の形の芽がある。VARという検証の文化。シミュレーションへのカード。攣りを信じダイブを疑う、九万人の集合的な視線。演技を罰する掟が、ピッチからせり上がって、いつか理事会に届く日を想像する。同じ円が、一段高いところに再び現れる——螺旋とは、そういう登り方だ。
エンボロの退場は、スイスにとって理不尽な追い風の喪失だったかもしれない。判定の質を問う声も、正当だろう。荒れる試合、割れる見解——これがサッカーだと言えばサッカーで、人間らしいと言えば、実に人間らしい。完全な検証も、完全な公正も、この祭りにはまだない。だが「演技には罰を」という原則が、曲がりなりにも円の内側で生きていることは、コロッセオには無かった希望だ。剣闘士の死は興行のうちだったが、現代の円は、少なくとも嘘を退場させようとしている。
それでも楽しむ人々は、必ず残る。
スポーツが感動を生むのは、身体の磨きと精神の磨きを重ねた者たちが、チームとして——つまり己を忘れて——一つの中今を生きるからだ。その核だけは、コロッセオの時代から、土俵を経て、マイアミの夜まで、一度も死んでいない。器は汚れ、形は変わり、興行は膨らんでは弾ける。だが円の中心で起きていることは、いつも同じだ。嘘をつけない身体が、全力で、いまに触れている。
祭りは螺旋状に形を変えて登っていく。私はそう信じて、次の九十分を待つ。

いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします!いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!