金の鍵—直感とバイアスの、剃刀の刃
トランプ大統領が自らデザインしたという「ホワイトハウスの金の鍵」という贈り物がある。ネタニヤフ、麻生太郎、イーロン・マスク、クリスチアーノ・ロナウド、そして韓国の李在明大統領。この五人が受け取った。事実はここまでだ。儀礼的な、大統領個人の慣習としての贈り物。それ以上でも、それ以下でもない。
けれど私の心は、この「五本の鍵」を見た瞬間に動きたがる。五人。鍵。開くべき扉。そこに「人類の行先を握る者たち」という物語を読み込みたくなる。ワールドカップを観ながらずっと考えていたテーマが、「直感とバイアス」だからだ。そして厄介なことに、この二つは内側から見るとまったく区別がつかない。
直感もバイアスも、体験としては同じ顔をしている。点と点がつながる。ふいに像が結ぶ。「わかった」という小さな光が差す。審判の判定に作為を感じるとき、ロナウドの金の鍵に符牒を感じるとき、私は「見抜いた」と思う。だが、それが世界に触れた直感なのか、既製の物語を世界に投影したバイアスなのか—感触だけでは、決して分からない。
複素数の器は、ここでひとつのブレーキをくれる。Re軸—検証可能性だ。いつか事実に錨を下ろせる直感は、信頼していい。だが、それ自身によってしか確かめられない模様—新しい事実がすべて「やはりそうだ」に回収され、何をもってしても否定できない物語—それはバイアスの署名だ。「すべては仕組まれた劇で、いま暴かれつつある」という語りが自己完結して閉じていくとき、私はそこに直感ではなく、アポフェニア(見たい模様を見てしまう心)を疑う。金の鍵は、そのどちらにも転びうる、ちょうど剃刀の刃の上にある。
先日スーパーで、アルゼンチンのユニフォームを着た少年を見た。彼は網を見ていない。陰謀も利権も見ていない。ただ、ボールと、歓声と、憧れの背番号を見ている。無垢だ。大人の私は、その無垢を「まだ何も知らない」と憐れみたくなる。だが、本当にそうだろうか。少年は今この瞬間、中今(なかいま)の試合そのものに触れている。私は網に触れている。どちらが世界に近いのか、にわかには言えない。
思うに、心には螺旋がある。意味以前の無垢(少年)。意味の過剰(網を見る大人=バイアス)。そしてもう一段のぼった先に、第二の無垢がある—事実を軽く手に載せ、その意味に触れながらも、物語へと握りしめない在り方だ。握りしめた鍵は、どの扉も開けない。すべての出来事を隠れた扉の手がかりとして握り続ける心は、鍵を溜め込むばかりで、ついに一度も扉を開けないのだから。
中今から見れば、金の鍵はもっと小さく、もっと人間的なものに見えてくる。人は「選ばれること」を喜ぶ。内側に入れてもらえた徴(しるし)に、胸が高鳴る。鍵を贈る側も、受け取る側も、そしてそれを記事で読んで意味づけたがる私も—みな同じ、「扉の内側にいたい」という願いに動かされている。暴くべき陰謀の前に、まず、この願いがある。
もし救いがいつも「偉大な誰かが劇を見せてくれること」であるなら、民衆は嵐を待つ観客のまま、眠り続ける。だが民衆の自立とは、一人ひとりが自分の検証者になることだ。秘密を知ることではなく、自分の直感と自分のバイアスを、自分で見分けられるようになること。あの少年がいつか大人になったとき、本当に必要になるのは、その力だと思う。
金の鍵は、外にはない。己の物語を一度手放して(忘己)、事実にもう一度触れ直す(利他)—その手つきのなかにしか、扉は現れない。
私は今日も、意味づけたがる自分の癖を、裁かずに観る。それが、剃刀の刃の上でまっすぐ立っていられる、たぶん唯一の方法だから。

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