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芸術がわかるようになる、そんな魔法。

 以前に記事で書いた、アートアレルギー発症のきっかけになった作家さん。実は、とっても仲良しだったのです。悪口だけを書いたみたいになってしまい少し心に引っ掛かっています。そういうわけで、その作家さんとの思い出を書いてみたくなりました。

 時々でしたが、いろんな展覧会に連れて行ってもらいました。美術館や博物館の前で必ず前売りチケットを渡されて「自分が観たい展覧会だから、チケット代は出す。」と言って、僕からは入館料を受け取りませんでした。芸術家とマイナースポーツ(アマチュア)選手、お互いにそれだけでは食べていけず貧乏でした。感謝の気持ちと、その厚意に甘えていた自分を悲しく思い出します。
 僕が超文系なのもあり、放っておいたら自然に文章(テキスト)の方に注目してしまう傾向があります。あの頃の自分はと言えば、まずキャプションを全部読み、その上で作品を理解しようとしていました。大きな国宝展なんか行った日には、キャプションを読むだけで疲れていた記憶があります。とはいえ、誘ってもらうと喜んでついて行きました。稀に僕から観たい展覧会を提案する事もありましたが、そこは興味がなければ容赦なく却下でした。芸術家らしい頑固さもあり、興味深い人物でありました。
 他の作家さんの個展へ行く事もありました。印象に残っているのは「作家さんが在廊していなくても、必ず来場名簿に名前を書いてあげて。」というお願いでした。それは今もできるだけ守っています(めっちゃ恥ずかしくてムリな時もありますが。)。
 ただ当時困ったのが現代アートで、キャプションのない場合があるのです。僕は遠慮もなく「これってどういう意味なの?」そうやって訊いていた気がします。説明を聞いて、それで僕は「ふーん」と曖昧に納得したような感じで終わっていました。本当のところは質問するのではなく、ただ感じて欲しかったのかもしれません。そうやって、自分(あの作家さん自身)の作品からも何かを感じとってくれるようになってほしい。もしかしたら、そんな期待を持っておられたのかもしれません。

「どうやったら芸術がわかるようになる?」
そんな質問をした事がありました。素人のくせに、芸術を「わからないといけない」と思い込んでいたのです。
「芸術は、美術史の知識がある程度ないとわからないよ。」
創作活動を続けるために美大で講師をしていたあの方なりの、真面目な返事だったのでしょう。そんな互いにとっての小さなズレの積み重ねが、最終的に「芸術はわかる人間だけわかればいい。」という拒絶にも聞こえるさみしい言葉に繋がったのだろうなと、今さらながら納得してしまいます。
 それくらい僕には芸術を自分なりに感じてみようという姿勢が足りませんでした。芸術がわかるようになる、そんな魔法はありません。いえ、魔法もいりません。「そんなに簡単にはわからない」だけど「わかる事だけが重要ではない」、両方のメッセージを本当は伝えたかったのではないでしょうか?

 ご本人の個展にも毎回足を運びました、その作家さんの作品が好きでした。一番好きな作品はアレ、今でも思い浮かびます。当時の僕なりに感じてはいたのです、ただそれを伝える術を知りませんでした。
 「作家は常に新しい表現に挑戦しているのに、過去の作品の方が好みとか言われても微妙」と芸術家としての本音を聞かせてもらっていたから、おいそれと感想なんて言えませんでした。でも、今の僕なら「今回の中ではコレが気に入ったかな。」そう素直に伝えると思います。
 最近、僕も芸術との向き合い方が変わったんだよ。芸術って楽しいね。

 今もう一度、あの方と一緒に何かの展覧会に行ったとして。まずは一周ぐるっと観た後に、お互いの気に入った作品の前に戻ってきて作品について語り合う。そんな芸術の楽しみ方ができたなら、と叶わない事を夢想します。せめておごってもらったチケット分の楽しみを、そうやってあちらにも返したかった・・・・・・
 美術館のチケット売り場は、あの作家さんを懐かしく思い起こさせます。


 僕のアートアレルギーについて書いた記事がこちら。


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