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東浩紀さんはなぜ謝らないのか? 「訂正」をめぐる自己矛盾

さすがにこのツイートには驚いた。

デマの拡散に加担したのだから、訂正して謝罪するのが当然のはず。

誤報を広めただけじゃなく、誤報に基づいて左派叩きをやってたのに、そこへの言及はなく削除して終わり。

『訂正可能性の哲学』『訂正する力』と、訂正について2冊も本を書いたばかりの人ですよ。

こんなあからさまな自己矛盾あります?

『訂正する力』にはこう書かれている。

日本には、まさにこの変化=訂正を嫌う文化があります。政治家は謝りません。官僚もまちがいを認めません。いちど決めた計画は変更しません。誤る(あやまる)と謝る(あやまる)はもともと同じ言葉です。いまの日本人は、誤りを認めないので謝ることもしないわけです。

東浩紀『訂正する力』

いまの日本人は「誤りを認めないので謝ることもしない」。

東浩紀さんは、誤りを認めても、謝ることはしない。

なぜ?

「誤りを認める」と「謝る」はセットじゃないの?

東さんの「削除しておきます」は、東さんにとっての「訂正」の定義に当てはまるのか否か。これははっきりしてほしい。

もしこれが「訂正」なのだとしたら、今後、左派がデマを流したときも削除だけして、修正ツイートも謝罪もしなくていいってことになる。

それでいいんですか?

再び『訂正する力』からの引用。

あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重し、議論を交わすことでおたがいの意見を少しずつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。

とくに最近の左派の一部は頑なです。彼らはどんな説明を聞かされても意見を変えません。むしろその頑なさが「ぶれない」として評価されている。そのため政府側も彼らをクレーマーとして扱い、真剣な議論を行わない。

東浩紀『訂正する力』

『訂正する力』では、主に左派を槍玉にあげているわけですが、東さん自身も「訂正する力」、欠けてません?

誤解なきように言うと、私は「訂正する力」は大事だと思っています。実際、東さんが言うように典型的な「訂正できない左派」というのもいる。

たとえば最近だと、この内田樹さんの明らかに根拠不明なツイート。

数々の指摘が寄せられているのにいまだに訂正もどころか何の補足説明もない。

この記事で紹介した『なぜ地方女子は東大を目指さないのか』に書かれているとおり、難関大学の男女比の歪さは複合的な要因によるものでしょう。

それを単一の要因で理解しようとするから「男子に下駄を履かせている」という陰謀論的なロジックに飛びついてしまう。

こういうの、勘弁してほしいわけ。だから、「訂正する力」を広めるために東さんには頑張ってもらいたいのに、言い出しっぺがこれでは……。

東さんは今回のツイートをちゃんと「訂正」しないと、もはや東さんのライフワークになっている左派叩きもこれからは満足にできなくなってしまいます。「訂正」したほうがいいと思いますよ。

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