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「批判なき批評」でいいのか?──三宅香帆さんの「批評の定義」への違和感と、「武器としての批評」に必要なもの

そもそも、批評ってなんなんだ。

三宅香帆さんの『考察する若者たち』を読んで、根本的に疑問を持ったのがこの点だ。

「令和は批評の時代ではない」と三宅さんは言う。

だが、たとえば映画『果てしなきスカーレット』の感想記事がnoteには大量に投稿されている。あれは批評ではないのか?

あるいは、やたら盛り上がっている「令和人文主義」論争は?

Twitter上でも、映画や漫画や小説、漫才や恋愛リアリティショー、政治家や芸能人の言動にいたるまで、あらゆる作品や人物に対して無数の意見が投稿されている。これも批評ではないのか?

悪口だって「批評」である

北村紗衣さんは『批評の教室』で、批評の役割を「解釈(隠れた意味を引き出すこと)」と「価値付け(位置づけや質を判断すること)」だと定義している。

この定義に従えば、悪口だって機能的には立派な「批評」だ。

たとえば有吉弘行は、品川祐を「おしゃべりクソ野郎」、ベッキーを「元気の押し売り」と評した。セールスポイントとされていた「おしゃべり」「元気」を、「ちょっとウザい特徴」に反転させた。ここには「解釈」と「価値付け」がある。

たった一言の悪口であっても、ミニマムな批評として成立しうるのだ。有象無象のツイートだって、(ほとんどは有吉よりはるかに低レベルだが)批評には違いないのだ。

なぜ批評は「流行ってない」ように見えるのか

では、なぜ批評は廃れたと言われるのか。

答えはシンプルだ。批評界隈では、「これは批評ではない」とレッテルを貼りが横行してきたからだ。

三宅さんですら、「三宅香帆の本は批評ではない」と言われるくらいなのだから。

一方で、「これは考察ではない」という物言いは聞かない。「クソ考察」と言われるだけだ。

要するに、批評の定義を、勝手に狭めて思い込んでいるだけなのだ。形式やマナーに拘らなければ、批評的な営みはそこらじゅうで行われている。

むしろ令和は、誰もが何かをジャッジしたくてたまらない「大批評時代」ではないか。

三宅香帆さんはなぜ「批判的視点」を定義から省くのか

ここで改めて、『考察する若者たち』において、三宅さんが「批評とは何か」を語った箇所を見直してみよう。

「批評には正解がない」
「批評とは作者すら思いついていない作品の謎について解釈を提示すること」
「批評は皆と違う感想を言っていい場」
「批評は人それぞれ世界の見え方は異なる、ということを教えてくれる」
「批評とは、世界の固有性を愛する行為」

なぜか抜け落ちている要素がある。それは、「批判的視点」だ。

批評は、対象を疑い、解体し、時に否定することもあるはずだ。だが、三宅さんの定義からはその「棘」がきれいに抜かれている。

三宅さんは若者の「批判アレルギー」を敏感に察知し、あえて批評の定義から「批判」という要素を取り除いて提示したのではないか。そう考えるのは勘繰りすぎだろうか。

『果てしなきスカーレット』叩きも「正解」への追従?

もちろん、私も今の悪口だらけのSNSが良い状況だとは思わない。

『果てしなきスカーレット』を叩くことも批評だ。だが、SNSのタイムラインを見て「今はこれを叩くのが正解だ」と空気を読み、安全圏から石を投げる行為になっている感は否めない。「令和人文主義」への批判もそうだ。三宅さんが危惧した通り「正解探し」に回収されてしまっている。

だからこそ言いたい。どうせ悪口を書くなら「ハチのように刺せ」と。

北村紗衣さんは、モハメド・アリの名言「チョウのように舞い、ハチのように刺す」になぞらえて、「チョウのように読み、ハチのように書く」ことが批評だと言っている。

「空気」という巨大な正解に安住せず、他人がまだ見つけていない急所を、独自の視点で突くこと。それこそが批評の面白さであり、意義ではないか。

「武器としての批評」こそが必要だ

北村さんは、批評を書くなら「人に好かれたいと思うのはやめよう」と言っている。

批評を書く時の覚悟として大事なのは、人に好かれたいという気持ちを捨てることです。批評というのは作品を褒めることではなく、批判的に分析することです。良いところはなぜ良いか考え、問題があればそれを直視してなぜダメなのか考えるのが批評であり、それを通して作品の価値や問題点が明らかになります。しかしながら問題点を指摘すると、作者は怒るかもしれませんし、またその作品のファンも怒るかもしれません。

こういう時に作者が可哀想だと思ったり、ファンの反応を怖がったりして手加減してしまうと、永遠に良い批評は書けません。

北村紗衣『批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書)

たしかに「批判」は敵を作る。私が前の記事で挙げた「ステルス批評」も、パッケージは「嫌われない」ための工夫だ。

だが、パッケージは優しくても、中身まで優しくする必要はない。

ハナから批判的視点を捨てるのと、ステルスであっても批判を忍ばせるのとでは、天と地ほどの差がある。

『考察する若者たち』や『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』だって、語り口やメッセージは優しいし、取り上げる作品は基本的に三宅さんが評価するものが中心だが、三宅さんの社会への批判的視点が込められていることはひしひしと伝わってくる。

(三宅さんがキレッキレにバッサバッサ斬り倒す批評も読みたいけど!)

批判なき批評では戦えない。

クソみたいな社会と戦い、自分自身の考えを守り抜くために。「ハチのように刺す批評」こそが、武器として必要なのだ。

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