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批評は死なない。「擬態」して生き残る。──三宅香帆、高比良くるま、紫藤春香に学ぶ令和の「バズる批評」の作り方

令和は考察の時代だ。批評なんて流行らない──。

『考察する若者たち』で三宅香帆さんは、この現状を「報われたい」という切実なキーワードで読み解いている。

今の若い世代は、ただ「楽しい」「面白い」という素朴な感情だけでは満足できなくなっている。それが「意味ある時間」に変わらなければ、不安で仕方がないのだ。

考察には「正解」がある=報われるゴールがある
批評には「正解」がない=報われるゴールがない

三宅香帆『考察する若者たち』(PHP新書)

正解のない批評を読むことは、ゴールが見えないマラソンを走らされるようなものだ。 一方で、作者の意図(正解)を当てる「考察」には、明確なゴールがある。努力が報われる。だからこそ、人々は批評よりも考察という「安全なゲーム」に熱中する。

わかる。すごくわかる。 でも、ちょっと待ってほしい。本当に批評はオワコンなんだろうか?

Twitterを見てみよう。そこらじゅうで「この映画のジェンダー観はどうなんだ」とか「あのキャラの行動は倫理的にアウトか」とか、みんなめちゃくちゃ熱く議論しているじゃないか。

そもそも、批評とは何か。北村紗衣さんの『批評の教室』には、こう書かれている。

ものすごく雑にまとめると、作品の中から一見したところではよくわからないかもしれない隠れた意味を引き出すこと(解釈)と、その作品の位置づけや質がどういうものなのかを判断すること(価値づけ)が、批評が果たすべき大きな役割としてよくあげられるものだと思います。

北村紗衣『批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書)

Twitter上の議論は、その精度はともかく、まぎれもなく「解釈」だし「価値付け」だ。つまり、私たちは批評的な営みに飢えている

実態はこうだ。「批評」という機能のニーズは消えていない。「批評」「批評家」という看板が嫌われているだけだ。

その証拠に、「批評」と名乗ってはいないが、めちゃくちゃバズった批評の実例を3つ挙げることができる。これらは、別の体裁に「擬態」しているが、まぎれもなく中身は批評である。

「自己啓発本」に擬態する三宅香帆──「役に立たない」という壁を突破せよ!

そもそも、なぜ批評は嫌われるのか。最初の理由はシンプルに「役に立たなそうだから」だ。小難しい言葉で、知らん昔の作品と比較されても、「で、それが私の明日の仕事になんの関係があるの?」となってしまう。タイパ重視の現代において、教養はコスパが悪い。

この壁を「自己啓発本」というパッケージで突破したのが、ほかでもない三宅香帆さんだ。

ベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、タイトルだけ見れば「ビジネス書」や「ライフハック」の顔をしている。

だが、文体こそ柔らかいものの、中身はガチガチの「労働史」であり「文芸批評」なのだ。

もしこれが『近代労働社会における読書文化の変遷』というタイトルだったら、絶対に売れていない。

三宅さんは、批評を「高尚な趣味」としてではなく、現代人の苦しみに効く「処方箋=役に立つもの」として再定義した。この戦略は、続く『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』でも用いられており、もはや三宅さんのお家芸だ。

「考察」に擬態する令和ロマン・高比良くるま──「上から目線」のアレルギーを回避せよ!

批評が嫌われる2つ目の理由。それは「偉そうだから」だ。

批評家と名乗った瞬間、そこには「教えてやる」という上から目線のニュアンスが生じる。この「マウンティング」の気配を、今のネットユーザーは敏感に察知して拒絶する。

これを「考察」という言葉でかわしたのが、令和ロマン・高比良くるまさんの『漫才過剰考察』だ。

通常、考察とは1つの作品の内部を深掘りするものだ。しかし、くるまさんの考察対象は「漫才というジャンルそのもの」に広がる。

M-1のトレンドという「歴史」、寄席と賞レースという「場」の違い、漫才師の東西南北による「地域」の特性まで、考察の範囲は拡大しているのだ。

三宅さんの定義に従えば、考察とは「作品内部のパズル」を解くことだ。しかし、くるまさんの視点は個々の漫才作品の外側に向けられている。 内部に閉じるのが「考察」なら、外部と接続して価値を測るのは「批評」だ。 『漫才過剰考察』は「考察」を名乗っているが、やっていることは明らかに「漫才批評」なのである。

だが、彼は決して権威を振りかざさない。M-1グランプリ覇者なのに、だ。あくまで「お笑いが好きすぎて狂ってしまったオタク」として振る舞い、上から目線で「教える」ではなく、「一緒に謎を解く」という読者との共犯関係を作っている。

『漫才過剰考察』は決して、令和ロマンのネームバリューだけで売れた本ではない。令和という時代の感覚にばっちりハマった文体だからこそ売れたのだ。

「推し活」に擬態する:紫藤春香(はるちん)──「冷たさ」を「切実さ」に変えろ!

そして最後の事例。紫藤春香(はるちん)さんのnote記事「福山雅治でいいのか」だ。1万8000超という驚異的な「スキ」を獲得したこの記事こそ、ステルス批評の真骨頂である。

批評が敬遠される3つ目の理由は、「冷徹さ」だ。客観的にジャッジを下す態度は、「何様だ」と反発されかねない。

しかし、この記事は違う。入り口が圧倒的に「主観」なのだ。長年のファンとしての愛と、それゆえのモヤモヤ。

エッセイの形式だが、福山雅治の過去の発言、歌詞、出演作を徹底的にリサーチされている。彼がいかにして「国民的スター」を演じ、また縛られてきたか。その分析は日本のジェンダー観にも踏み込む。これは立派な「福山雅治論」であり「社会批評」だ。

特筆すべきは、福山雅治についてのネガティブな評価を避けていないことだ。批判は、推し活やファンダムのノリと食い合わせが悪い。しかも、「男らしさ」「伝統的家族観」といった政治性を帯びた観点からの批評だ。それでも圧倒的に反発より支持が大きかった。極めて的を射た指摘だったからだろう。

冒頭で引用した北村紗衣さんは、「解釈」「価値付け」の前段階としての「精読」の重要性を強調している。紫藤さんは、主観的な思いを語っているが、それは膨大な福山雅治作品の「精読」に支えられている。

客観的なデータを、「1人のファンの切実な思い=当事者性」で包み込む。そうすることで、批評は冷たい分析ではなく、体温を持ったドキュメントに変わるのだ。

大事なのはパッケージとしての批評ではなく、「武器としての批評」

3者に共通しているのは、「パッケージの変換」だ。

外側には、みんなが大好きな「悩み解決(自己啓発)」「謎解き(考察)」「共感(推し活)」というパッケージがある。

読者は警戒することなく、それを手に取る。 だが、ひとたびフタを開ければ、そこには鋭い「批評的視点」が詰まっている。

読み終わった後、読者は気づく。「なぜ自分は本が読めないのか?」「なぜこの漫才は面白いのか?」 。その問いに対する解像度が、劇的に上がっていることに。世界の見え方が、少しだけ変わっていることに。それこそが「批評」が果たすべき役割だ。

もちろん、昔ながらの形式の批評にも存在価値はある。三宅香帆さんも参加したゲンロンの座談会でも議論されていた話だ。

しかし、小説には純文学だけでなく、大衆小説やライトノベルがあるように、「純批評」だけでなく、「大衆批評」「ライト批評」的なものが必要だと思うのだ。

本来、批評とは、世界を読み解き、自分の頭で価値を決めるための最強の「武器」であるはずだ。 この武器は、もっと多くの人に手渡されなければならない。 誰にとっても扱いやすいツールであることが重要だ。

「批評」という看板を下ろすことで、これまで届かなかった層にその面白さが届くなら、喜んで擬態すればいいのだ。「日記」でも、「考察」でも、「推し語り」でも、「自己啓発メソッド」でも構わない。 重要なのは、その箱の中に、鋭い「解釈」と「価値付け」が入っているかどうかだ。

「ステルス批評」こそが、令和という時代において、批評という武器を再び私たちの手に取り戻すための、最も有効な手段なのではないか?


(追記)
この記事、ただの「嫌われない批評の書き方」じゃねえかこんなもん、という自己反省を込めつつ続編を書きました。


(追記2)
とある「批評家」さんが、これぞ「令和に嫌われる批評のサンプル」とでも言うべき批評を書いてくれたので、その事実誤認を指摘しておきました。

このような人と同類とみなされないように、「批評」という看板は下ろしたほうが賢明、ということを、身をもって証明してくれています。

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