もし『花束みたいな恋をした』の麦くんが村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んでいたら
村田沙耶香さんの『世界99』が話題になっていて読みたいのだが、すぐにあの大著を読み切る時間が取れそうになくて『コンビニ人間』を読み返した。
やっぱり何度も読み返すべき傑作だと思う。世の中の「普通」に絡め取られないために、定期的に読み直したい。
で、ふと思ったのが、映画『花束みたいな恋をした』の麦くん、これ読んでたら違ったんじゃないかということ。
麦くん(菅田将暉)と絹ちゃん(有村架純)が付き合っていたのは2015年から2019年で、『コンビニ人間』の刊行と芥川賞受賞は2016年。あれだけ純文学好きなら読んでいても不思議ではないというか、読んでないほうが不自然。だけど、読んでないっぽい。作中に登場する本のリストにはない。
というか、2人が読んでいる作家のリストを見ると、社会派の要素が薄い。このころだったら津村記久子あたりを読んでいてもおかしくないと思うのだが、そういう労働者を描いた作品も少ない。もちろん新書も読んでない。
人の本の読み方にケチつけるのはどうかと思うのだが、麦くんと絹ちゃんの本の読み方は正直ちょっとヌルい! 読書と現実が接続していない。宇野常寛が言う「本が好きな自分が好き」という次元に留まっている感じ。
どうしても、坂元裕二の脚本に作為性を感じてしまう。結局、「文学は無力」って話になってしまっている。これは、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に感じている違和感と同じ。
なんか坂元さんも三宅さんも、「ネオリベ的」「ヤンキー的」「体育会的」な社会は変えられないという諦めがあるというか、打開策を提示するよりも自分から絶望しにいっている感じがしてしまう。
私は、文学は現実を問い直すために読むものだと思っている。クソみたいな現実と闘うための武器でありワクチンだと思っている。
『コンビニ人間』は、世間の要求する「普通」について、アクロバティックな設定で問い直していく作品だ。もし麦くんが『コンビニ人間』を読んでいたなら、イラストレーターを辞めて、就職して、「普通の人間」になろうと必死になる自分に疑問を抱けたのではないか。「働いていると本が読めない」状態になるのは、自分が悪いのではなく、社会や職場が悪いのだと気づけたのではないか。
(逆に言えば、もし『コンビニ人間』みたいな小説を登場させると、『花束みたいな恋をした』のストーリーは成り立たないから登場していないとも言えるのではないか)
ちなみに、麦くんが『コンビニ人間』を読んでいないのか確かめるために検索していたら、こんなツイートを見つけた。
「花束みたいな恋をした」で、菅田将暉がコンビニ人間を絶賛してたら有村架純が「コンビニ人間で村田沙耶香をクレイジーとかいう奴はにわか。あれは沙耶香がクレイジーをやめた作品でしかない。「授乳」から村田沙耶香ライフをやり直せ」って罵倒するシーン、めっちゃ興奮した。
— 大滝瓶太 (@BOhtaki) February 3, 2021
これは「有村架純と菅田将暉に『限界文芸オタクあるある』を言わせる大喜利をやっているだけ」のフェイクツイートだそう(ツイ主の大滝瓶太さんは小説家、連ツイすべて最高なので読んでほしい)。
実際、麦くんと絹ちゃんがこんな「限界文芸オタク」だったら別の結末になったのかもしれないと思いません?
