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サラリーマン競輪

 朝の通勤時間帯、交差点で右折待ちをしていると、ある種の競技を目撃する。

 競技名は、おそらく「出社」である。


 彼らは一列になり、車道の端を、あるいは歩道を、猛然と漕いでいく。

 ネクタイを翻し、リュックを背負い、イヤホンを耳に差し込みながら、彼らは一心不乱にペダルを踏む。

 その姿は、さながら競輪選手だ。

 もちろん本物の選手と違って、ピチピチの服は着ていない。

 代わりにくたびれた革靴でペダルを踏み、スーツの裾を風になびかせ、目標は表彰台ではなく始業時刻である。

 ただ、必死さだけはプロ顔負けだ。

 青信号の点滅が始まると、集団全体の空気が変わる。


 「渡れるか」ではない。


 「渡らねばならない」のである。

 誰かが速度を上げる。すると後続も続く。
 まるで逃げを打つ先頭選手に食らいつく集団だ。
 横断歩道には、遅れを取れば人生が終わるとでも思っているような緊張感が漂う。

 赤信号になった瞬間、数名が滑り込みで渡り切る。
 その顔には、締切を守った編集者のような安堵が浮かんでいるように見えた。

 そこまでして数十秒を短縮した先に待っているのが、メール確認と朝礼なのだから泣けてくる。

 なにをそんなに急いでいるのか、と毎回思う。


 しかし考えてみれば、彼らも別に好きで急いでいるわけではないのだろう。

 日本の会社員は、始業時刻には厳格だ。
 一分遅れれば「社会人としての自覚」が問われる。

 その一方で、終業時刻は概念として扱われる。

 「定時」というのは実在する制度ではなく、社内神話の一種である。

 だから会社員は、朝だけ異様に真剣だ。

 出社とは、単なる移動ではない。
 忠誠心の提出なのである。

 満員電車に押し込まれ、自転車を全力で漕ぎ、雨の日には靴下を濡らしながら、それでも定刻に席へ着く。
 あれは移動ではなく、すでに業務の一部ではないのか。

 いや、むしろ一日の労働の中で最も主体性を失っている時間かもしれない。

 会社に着く頃には、すでに疲れている人も多い。
 だが社会は、その疲労を「まだ勤務前」として処理する。

 不思議な話だ。

 往復二時間かけて通勤しようと、始業五分前に到着した時点で、労働はまだ始まっていないことになっている。
 まるでRPGゲームで、ダンジョンに辿り着くまでの道中はノーカウントだと言われているようなものだ。
 しかし現実には、その道中でHPの八割くらい削られている。

 交差点で右折待ちをしながら、私は今日も競輪集団を眺める。
 彼らは誰に命じられるでもなく、赤に変わる寸前の横断歩道へ突っ込んでいく。

 自由意思というより、条件反射に近いかも知れない。

 もしあの集団の中に、「今日は別に遅れてもいいか」と考える人間が一人でも多くいたら、たぶん日本の労働観は少し変わるのだろう。
 だが現実には、誰も減速しない。

 スーツ姿の競輪選手たちは、今日も無言で出社レースを続けている。

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