【1981年のYMO(その2)】ロマン神経症と出口主義
1981年のワーカホリック
1981年のYMOを考えるとき、音楽面でのキーパーソンとなるのは幸宏さんです。この年、ワーカホリックと言ってもよいくらい多くの仕事をこなしています。
重要なプロデュース作品として大村憲司『春がいっぱい』や立花ハジメ『H』があるほか、イモ欽トリオや中原理恵、シーナ&ザ・ロケッツ、SUSANなど、共同プロデュースや深くアレンジに関わった作品も多く、さらにはサンディーやRAJIEなどへの楽曲提供と、その活動は多岐に渡っています。
演奏による参加に至っては、加藤和彦『ベルエキセントリック』をはじめ、教授の『左うでの夢』や矢野顕子『ただいま』などのYMO周辺のアーティストから、Mやビル・ネルソンなどの海外勢まで枚挙にいとまがありません。これらは、ほんの一部です。
その中で、自らのリーダー作である『NEUROMANTIC』とTHE BEATNIKSの『EXITENTIALISM 出口主義』は、いずれも英国ニュー・ウェイヴへの共鳴を基軸としている点でYMOの『BGM』と共通しており、翻って見れば、そうした幸宏さんの志向が、そのまま1981年のYMOの音楽的傾向に大きく影響したと言っても過言ではないでしょう。
BGM=YTM?
『BGM』では、幸宏さん作曲の「バレエ」が、アルバム全体をそうしたニュー・ウェイヴの感覚で牽引するかのように1曲目に配されています。一聴して従前のYMOより暗く、曖昧で、テクノでありながらポップではない、YMOのニュー・ウェイヴ化を印象付けて有り余る一曲です。また、中期YMOの代表曲の一つで細野さんとの共作「CUE」は、ウルトラヴォックスを直接的に参照している点において、英国ニュー・ウェイヴへの共感を示す象徴的な楽曲と言えます。
思えば、サディスティック・ミカ・バンドが標榜したのは英国的なるロックであったし、幸宏さん自身もロキシー・ミュージックへの憧憬を公言して憚らない。そして、『音楽殺人』は、ザ・バグルスの「ラジオスターの悲劇(Video Killed The Radio Star)」に着想を得たものですよね。つまり、幸宏さんの英国志向は、70年代から継続中だったとも言えます。
そして、『BGM』のレコーディング終了後、ピーター・バラカン氏を伴い、満を持してニュー・ウェイヴ真っ只中のロンドンへ向かいます。
ロンドンを直接注入したロマン神経症
幸宏さんは、『NEUROMANTIC』について、『BGM』の世界線をソロ・アルバムとして拡張したかったのだと語っています。いわんや、前述の『BGM』の1曲目「バレエ」をアルバム・タイトルにするつもりだったというのですから、幸宏さんが如何にニュー・ウェイヴを深く志向していたかを物語っています。
このアルバムは、ロンドン市内にフラットを借り、延べ6か月の長期滞在中にレコーディングされました。JAPANやXTCを手がけたスティーヴ・ナイをエンジニアに、ニュー・ミュージックのトニー・マンスフィールドやロキシー・ミュージックのアンディ・マッケイ、フィル・マンザネラをゲストに迎えて制作され、彼の地のニュー・ウェイヴの空気感を直接注入した点が『BGM』にはない特異性。
幸宏さんは、トニー・マンスフィールドが持ち込んだProphet-5の音色の独自性について語っており、英国ニュー・ウェイヴ感覚の核となる要素であると同時に、80年代を前半の「ユキヒロ・サウンド」を方向づける先導的な役割を果たしたと考えられます。
また、初期YMOにおける「フーマンチュー唱法」とは明らかに異なる、デヴィッド・ボウイやブライアン・フェリーに端を発し、後にニュー・ロマンティック勢に継承された、英国ロック風の抒情的なヴォーカルにシフトしています。これも、その後の幸宏さんの歌唱の礎となるものと言えるでしょう。
80年代初頭には、「ほとんどビョーキ」という流行語がありましたが、病的なまでに緻密に構築されたバック・トラックに、メランコリックな歌心の組み合わせは、まさに神経症とロマンティックが同居した幸宏節の真骨頂。『BGM』で提示したニュー・ウェイヴ志向を、自身のコントロール下でさらに深化させた名盤です。
余談ですが、中学生の私が気がついたのは、この淡い水彩画風のジャケット・デザインが、『BGM』と共通しているということ。収録されたマシン・ミュージックと、ふんわりタッチのイラストのギャップに、一筋縄で行かないアート感覚を感じ取ったのでした。
「日本幻滅」からの出口主義
帰国した幸宏さんは、「クリスタル族」に象徴される中産階級意識に心酔する日本の若者を目にし、ロンドンとの落差にひどく幻滅したと言います。曰く「ニュー・ウェイヴはなかったことになっていた」と。
これを裏付けるように、'85年のインタビューでは「『Once A Fool』は、いかに普通に作るかという過激なアプローチ。僕が幻滅している日本の若者たちをもう一度奮い起こすために、最初から実験的なものではなく、じんわり浸透していって、徐々にこっちに引っ張ってこようという作業です。でも無駄に終わりそうです」と語っています。
ムーンライダーズの鈴木慶一氏と結成したTHE BEATNIKSは、こうした日本の現状に対する「怒り」が原動力になったといいます。
一方、盟友となる慶一氏の側から眺めてみると、ムーンライダーズにおいてもレコーディングにコンピュータを使い始め、『マニア・マニエラ』の制作に向かうというタイミング。30年以上にわたって断続的に続いたの活動の中で、THE BEATNIKSの音楽性は変化していきますが、この時点ではニュー・ウェイヴへの関心という点で、二人の音楽へのアプローチが一致したのでしょう。
かくして出来上がったアルバム『EXITENTIALISM 出口主義』は、暗く、重いトーンがアルバム全体を支配しており、「Ark Diamant」や「Mirrors」に見られる性急なビートや、「Une Femme N'est Pas Un Homme」や「Inevitable」のインダストリアルな効果音が「怒り」を具現化したかのように響き、『NEUROMANTIC』に比べて、より過激で実験的な仕上がりとなりました。
私事で言えば、このアルバムによってビート・ジェネレーションを知り、大学時代にケルアックやバロウズを読み漁り、卒論にギンズバーグを選んだのでした。意外なところで影響を受けているもんだなと、今回改めて気づいた次第です。
1981年のマスター・ピース
1981年を幸宏さんの活動を軸に見ると、『BGM』『NEUROMANTIC』『出口主義』の三作品は、いずれも英国ニュー・ウェイヴの感覚を共有していることがわかります。
自らの「バレエ」によって、YMOのニュー・ウェイヴ化を宣言したような『BGM』。ロンドン録音と英国勢の参加によって直接的に現地の感覚を注入し、緻密なプログラミングでニュー・ウェイヴ感覚を拡張した『NEUROMANTIC』。そして、日本の現状への幻滅と鈴木慶一氏との共同作業によって、よりダークで過激にニュー・ウェイヴを進化させた『出口主義』まで、一連のストーリーとして捉えることができます。
重要なのは、この三作品がいずれも歴史に残る傑作だということです。加えて、この一連の活動によって、その後の幸宏さんのレコーディングや歌唱法の基礎が築かれたこと、また、同時代のニュー・ウェイヴ・シーンに大きな影響を与えたことも特筆すべきでしょう。
そして、ここで言及しなかった1981年のもう一つの傑作『テクノデリック』については、次の機会に取り上げたいと思います。
*この投稿は、予告なく改訂することがあります。
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