【1981年のYMO(その1)】BGMと個人主義
原点回帰=変わらないテーマ
およそ8週間ぶりの音楽エッセイの投稿です。「毎週更新にこだわらず、気楽にやります」と宣言してからというもの、一向に書く気が起こりませんでした。「いかん、このままでは終わってしまう」と思い、どうやって再開しようかと思案しておりました。書きたいテーマはいくつかありましたが、やはり初心に帰ってYMOついて書くことにしました。
以前に「1982年のYMO」という記事を投稿したので、「1981年のYMOもやればいんじゃね?」という、いかにも安直な発想。でもね、YMOについて書くことは、「時代の記憶を、私の言葉で」という、このnote の本質であり、原点のようなものなんです。
さて、前置きが長くなりましたが、「1981年のYMO」との出会いから始めましょう。
出会いは入学式=変えられない記憶
1981年4月、中学校の入学式に向かうために乗せてもらった、同級生の父親の車のカーラジオから何やらテクノっぽい音楽が・・・。一瞬「YMOか?」と思いましたが、確かにシンセやリズムマシンっぽい音は聞こえるものの、それまで聴き慣れていたYMOの音楽とは明らかに違いました。
(同級生)これ、YMOかなぁ?
(私)え~? 違うんじゃない?
(同級生の父)これYMOだよ。
(二人)え〜っ!?
その日出会った1981年のYMOは、何やら暗く、不穏で、同時に冷ややかで、体温が低い感じを受けました。「ライディーン」のような明快なメロディーがない。あったとしても、ぼんやりしていて高揚感がない。その後、車中で聴いたその音楽は、『BGM』というYMOの新譜であることを知り、別の友人を介して全曲を聴くこととなりました。

発売から2週間後くらいに初めてカーラジオで聴いたことになります。
『BGM』に関しては、「浮動的なファンを切り捨てた」などというような言説を目にすることがありますし、私の周りにも「最近のYMOは難しくて・・・」と言って、離れていった友人がいたことも確かです。でも、私は不思議と『BGM』に嫌な感じを受けませんでした。「YMOは新たなフェーズに入ったんだ」という妙な納得感がありました。
それは、YMOに対する信頼ということもありましたが、中学生になった私がラジオを中心に様々な音楽を聴くようになっていたことも大きな要因です。ニュー・ウェイヴに傾倒し、YMOとの共通性を見出し始めていましたから、むしろ暗い音楽大歓迎でした。
初期YMOの残像=変わらなかったYMO
では、本当にYMOは『BGM』でガラッと変わってしまったのか? 人間の営みはデジタルではありませんから、'80年以前と全く断絶しているわけではなく、このアルバムにも初期YMOの残像が見え隠れしていると私は感じています。
その一つの例が、「バレエ」の間奏に載せられたフランス語です。温度感は異なりますが、まさに「中国女」や「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の方法論を踏襲しているものと言えるでしょう。こうした編曲上の演出は、『テクノデリック』以降は見られなくなります。
二つ目は、「U・T」の中間部で、3人がこの曲について語る部分です。これは、まるでスネークマンショーと共演したコント「若い山彦」を、3人だけでやってみたような感覚を受けませんか? 全体的にシリアスなトーンのアルバムの中にあって、この部分だけは従前のユーモアが垣間見える瞬間ですよね。
そして、問題は「千のナイフ」です。当時の私の印象はネガティブなものでした。「どうして今さら?」と思ったんです。せっかく新たなフェーズに突入したのに、ここだけ時代に取り残されたような印象を受けたんですね。
もちろん、TR-808と生ドラムの組み合わせや、最初のメロディーの短くノイジーな音色、アグレッシブな教授のリード・シンセなど、初期のライブとは明らかに異なるアレンジが施してはあるのですが、敢えて『BGM』に入れるべき曲なのかと。今思えば、田舎の中学生ごときが何を不遜なことをと気恥ずかしくなりますが、当時の素直な感想です。
個人主義の醸成=変わってゆくYMO
では、『BGM』でYMOの何が変わったのか? それはバンドでありながら、同時に、各メンバーの「個人主義」的な制作体制が確立されたという点です。
変化の要因の一つは、細野さんと教授の不仲。そのような状況下では、3人がスタジオに揃うことが少なくなり、MC4などの機材の進展も相まって、個人作業が多くなったといいます。1stアルバムや『ソリッド・スティト・サヴァイヴァー』では、バンドとしてのアンサンブルやアルバム全体としての統一感がもっと前面に出ていたと思いますが、『BGM』では作曲者が主導してその曲の制作に当たることとなり、まるで一つのアルバムの中に3人のソロ曲があるような、明確な個性が現れるようになりました。
メンバー間の不和が個人主導の制作体制を助長したことは、多くの関連書籍も指摘しています。『BGM』は、その変化の過程の記録であるといってよいでしょう。事実として、従前はYMOのヴォーカルは幸宏さんだけでしたが、このアルバムからは、3人が各々の楽曲のヴォーカルを担うようになりました。前述の「千のナイフ」についても、こうした状況が産んだ自然な成り行きと見ることもできます。
もう一つには、受け取る側の意識の変化があると私は思っています。YMOがあまりにも有名になってしまったため、メンバー個人の匿名性が失われたことも、『BGM』の個人主義的な様相の解像度を上げるのに一役買っています。
私自身も、小学生の頃には作曲者のクレジットに目を向けたりしませんでしたから、従前のアルバムまでは全部「YMOの曲」という認識でした。はっぴいえんどやミカ・バンドを知っていた人にとっては何をか言わんやでしょうが、「ライディーン」で初めてYMOを知った私のような小学生も、この頃までには、はっきりと個々のメンバーを認識するようになっていました。
このことは、教授にとっては相当なストレスだったようですが、NHK-FM『サウンドストリート』のDJを始め、わずか1年後には国際的な映画の主役の一角を務めるようになったことは、「毒を食らわば皿まで」ではないでしょうが、自身のキャリアに鑑みて、甘んじてその「記名性」を受け入れたものと考えられます。
Be a Great Musician=変わることのない評価
YMOがファンやレコード会社の求めに応じて、「ライディーン」や「テクノポリス」の路線を続けていたら、一体どうなっていたことでしょう。一過性の流行として、テクノポップとともに忘れ去られた可能性もあります。
『BGM』でYMOは、明るく華やかなポップスのフィールドから(一旦)離れ、暗く抑制の効いたノイジーなサウンド、欧州ニューウェイヴへの接近、ミニマル・ミュージックや現代音楽を踏まえた音響的な実験といった、およそ一般大衆には受け入れにくいアプローチによって、一気にアーティスティックな領域に踏み出しました。
「個人主義」の良し悪しは別として、『BGM』でのシリアス路線への移行は、結果として、YMOを長く後世に語り継がれる存在へと導く、そのターニングポイントとなったと言っても過言ではないでしょう。
昨年、初開催された「MUSIC AWORDS JAPAN 2025」において、YMOは「SYMBOL OF MUSIC AWORDS JAPAN」を受賞しました。加えて、オープニングショー として、ジャンルを超えた様々なアーティストが「ライディーン」をそれぞれの解釈でリレーしていく「RYDEEN REBOOT」を披露したほか、ゆかりのアーティストによるトリビュート・ライブも開催されました。『BGM』の発表から45年。未だ、YMOの音楽がリスペクトされ続けていることの証明です。
『BGM』とその次のアルバム『テクノデリック』があったからこそ、YMOは世界の音楽史にその名を刻み、今日に至るまで様々なアーティストやクリエーターに景響を与え続けているのだと思います。
*この投稿は、予告なく改訂することがあります。
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