【1983年のYMO】胸キュンと大衆化するエレ・ポップ
1983年のポップ・スター
このシリーズを続けていると、自分が「老害おじさん YMO編」のようなことになってやしないかと心配になりますが、若い世代を教化しようなどというつもりは毛頭ありません。あくまで「時代の記憶を、私の言葉で記録する」という、この note のテーマに沿って執筆しておりますので、悪しからずお願いいたします。
で、「君に、胸キュン。」を私なりの言葉で論述し、ある側面から1983年のYMOを捉え直してみようというのが今回のテーマ。リアルタイムで初めて聴いた時の感覚を起点に、この曲の立ち位置を測るところから始めたいと思います。
「君に、胸キュン。」のシングル発売は1983年3月25日ですが、それ以前にNHK-FM『サウンド・ストリート』火曜日で紹介されたと記憶しています。サビの「キュン!」っていう合いの手で、教授の声が目立って聴こえるなとは思いましたが、後述するとおり、「なんじゃこりゃ」っていう感じはなかったですね。
カネボウのCMソングとして大ヒットしたという側面もありますが、本稿の主題はそこではありませんので、多くは触れないこととします。ただし、クライアント側が「こんなに分かりやすくていいんですか」と言ったという逸話はとても重要です。すなわち、一般的な評価として、分かりやすくポップになったというのは、疑いもない事実でしょう。
その表層を捉えて、「YMOが歌謡曲になった」とか、「こんなのYMOじゃない」などという批判的な見方があったことも確かでしょう。しかしながら、私の感覚は少し違いました。「ははぁ〜ん、これは世界的な音楽シーンの流れと共通だな。イギリスのエレ・ポップ勢も段々ポップになってるもんね」と。明確に言葉にこそしませんでしたが、何となくそんな風に感じていたのでした。
エレ・ポップの大衆化
英国におけるシンセ・ポップ/エレ・ポップは、その初期にはポストパンクの実験的な土壌から誕生したものでした。ロックの伝統の拒否、演奏技術の放棄、アートスクール的知性、無機質な人工性・匿名性・都市感覚などを伴った実験音楽的な側面を持って出発しています。
これが、'81〜'82年頃になると、MTVの登場やニュー・ロマンティックとの接合による視覚的な華やかさへの傾倒、安価なシンセサイザーやシーケンサーなどの機材の発達と普及などの要因が重なって、実験音楽だったものが「新しいポップの中心」になっていきました。
最も分かりやすい例は、 The Human League でしょう。1979年の『Reproduction』や、80年の『Travelogue』は、かなり陰鬱でポストパンク色が強く、 Cabaret Voltaire や Throbbing Gristle に近い感覚すらあります。しかしながら、メンバーの脱退と女性ヴォーカルの加入を経て、1981年の『Dare』では、完全にポップ化します。「Don’t You Want Me」は、マシンビート、シンセ主体の構成を維持しながら、覚えやすいフックと明瞭なサビを擁して大ヒットしました。
例えば、Ultravox はどうでしょう。初期の John Foxx 時代は、かなりアート寄りで、冷たい都市感覚や実験性、クラウトロックからの影響などが強く感じられました。しかしながら、Midge Ure の加入後、1980年の『Vienna』以降は、壮大なメロディとロマン主義的な傾向へと向かいます。何より、MTVの登場と結びついたことのより、「Vienna」のように視覚込みで体験する音楽へと移行しました。
こうしたポップ化の傾向は、程度の多少はあるものの、実験的精神を持ってスタートした多くのシンセ・ポップ/エレ・ポップのグループに見られるものです。そして、1983年頃には、Howard Jones のように、もはや最初からポップ・スターとして登場するアーティストも現れます。
これは、「商業化」或いは「大衆化」とも取れますが、別の視点から見れば、前衛がポップそのものを書き換えたとも言えるでしょう。実験音楽が商業化したのではなく、実験的な技法によってポップが再設計される過程だったと捉えることもできます。
YMOの歌謡曲化
果たして、1983年のYMOによる「君に、胸キュン。」での歌謡曲化は、当時中学生の私が感じたように、英国のシンセ・ポップ/エレ・ポップのポップ化と同じ文脈で語ることができるのでしょうか。
例えば、The Human League が『Reproduction』『Travelogue』から『Dare』へと移っていった流れを、YMOの『BGM』『Technodelic』から『浮気なぼくら』への移行と比較してみると、最も暗く実験的な頂点を極めた後にポップへ反転したというプロセスが見事に一致します。これは、テクノが前衛ではなく、ラブ・ソングのような一般的なポップ形式に移行する過程として、非常に近いものと考えられます。
映像文化との結合という点においては、前述のとおり、英国ではMTVやニュー・ロマンティックとの接合にポップ化の過程が顕著に表れています。YMOの場合は、デビューから一貫してアーティスティックなビジュアル戦略やメディア横断性を標榜してきたものが、この「胸キュン期」には、特にテレビへの露出が増え、3人のキャラクターも広くお茶の間に浸透していった印象があります。英国とはやや異なる方向性ではありますが、ポップ化の一つの過程と見ることができます。
しかしながら、ここで決定的な相違点に言及しなければなりません。それは、YMOの「胸キュン」には「わざとベタな歌謡曲を」という自己言及性があるということです。すなわち、完全に素直なポップ化ではなく、歌謡曲化そのものを演じているという側面があります。
これは、ある種のパロディ、あるいは批評です。記号化されたポップさをまとうことで大衆メディアへ侵入し、その中心をテクノ的手法で乗っ取るという、極めて知的なメディア・ジャックであったと言うこともできるのではないでしょうか。
ポップのテクノ化
ここまで、「異端だったテクノ側がポップへ接近した」流れを中心に見てきましたが、実際には同時に「ポップ側がテクノ的手法を吸収した」という逆方向の流れも起きています。そして、80年代前半の音楽シーンの本質は、むしろこの「相互浸透」にあるのだと思います。
初期の段階では、テクノポップやシンセ・ポップ、ニューウェイヴは、まだジャンルとして目に見える形で存在しました。しかしながら、'83〜'84年頃になると、シンセ・ポップがジャンルではなく、標準的制作手法へと変わっていきます。すなわち、シンセ・ポップは、特殊性を失うほど一般化したとも言えます。
日本においても、Yellow Magic Orchestra の衝撃の後、アイドル歌謡やCM音楽、シティポップに至るまで、広く電子音が浸透していきます。'83〜'84年頃には、テクノっぽい音はもはや前衛ではなく、「現代的な商業音楽」の一つの典型になっていきます。
最初は「これは新しい電子音楽です」と強く自己主張していたものが、その手法が音楽業界全体へ拡散してしまってからは、あえてテクノと名乗る必要がなくなった状態、言わば「テクノポップ」の自己消滅と捉えることもできます。
これは、例えばヒップホップの手法が、チャートを賑わすポップ・ソング全般に広がっていったように、ポピュラー音楽史において繰り返し見られる現象でもあります。最初は異端でも、成功すると異端性そのものが主流へ吸収されてしまう。英国のシンセ・ポップ/エレ・ポップとYMOのポップ化の背景には、80年代の文化変動の大きな潮流を見てとることができます。中学生の私は、それを肌感覚で感じとっていたのかもしれません。
*この投稿は、予告なく改訂することがあります。
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