250504 皐月淀川河口観光
輪行ポタリング紀行 010
4連休初日、思い立って朝の散歩タリングに出かけました。万博会場へ行ってみたい。自転車で行くことができると知ったからです。もちろん中には入りませんけど。その後は、思いつくまま淀川河口あたりをぶらぶらすることにしました。

1 出発

出発は阪神電車で尼崎駅から二つ目の伝法駅です。万博会場最寄り駅。なのにホームに降り立ったのは3人でした。ここは大阪?と思いながらこの写真を撮りました。なかなか納得がいかず、つい時間がかかってしまいました。すると、通過する車が気付いて止まってくれるんです。なるほど、ここは大阪。優しい方が多いんですよ。0700時発。
2 万博会場
(1) 常吉大橋

奥に見えるのは舞洲清掃工場
簡単に行けると思っていましたが、ずいぶん迷いました。淀川の河口にある酉島、常吉は江戸時代に造成された埋め立て新田でした。古い街並みの中をあちらに行き、こちらに行きを繰り返しました。やっと工場地帯に出ると後は一本道。そんなに大きくない常吉大橋を越えると現代の埋め立て地、舞洲へ入ります。
(2) 夢舞大橋

右奥に万博のリンクが見えてきました
ポップなゴミ焼却場を左に、スポーツアリーナを右にして、舞洲はあっという間に通り過ぎました。もう一つ大橋を越えます。夢舞大橋は世界初の旋回可動式浮体橋です。浮体橋ということは、単純に言うと海に浮いた橋です。しかも、大きな船が通るときなどには、橋が旋回するというわけです。すごい技術に感心しながら越えるともう夢洲です。
(3) 会場前のバリケード

遠くに見えるのが通行止め箇所
8km40分ほどで、さあ万博会場!と思ったのに、入場ゲートまでも行けませんでした。なぜか通行止め。しかも、駐輪場は予約制。「すぐ帰ってくるから、ここ(歩道)に置いてもいいですか」とにこやかに尋ねましたが、冷たく「ダメです」。まぁ、当たり前か。現場のガードマンさんに責任はありません。ただ、急ごしらえのバリケードというものが万博の祝祭空間には似つかわしくないのが残念でした。
3 伝法
(1) 西念寺

伝法まで戻ってきました。変わった地名ですが、仏法が伝わったことにちなみます。大化元(645)年、天竺(インド)の僧が庵を結んだといいます。それがあの法道仙人。なぞの多い法道伝説が兵庫県以外で残っているのは珍しいと思います。西念寺は中世の頃は広い寺域を誇り、明治期には小学校があったそうです。
(2) 旧鴻池本店

洋館の玄関には「鴻池本店」の扁額がかかります
鴻池は兵庫県伊丹、鴻池郷が発祥の地です。今も石碑が残っています。清酒の製造で財を成し、清酒を江戸へ送る樽廻船の事業も営むようになります。そのため、伊丹から移転して淀川河口近くの伝法に本店を置きました。明治42(1909)年竣工。設計は辰野金吾の弟子、久保田小三郎。中には入れませんでしたが、「アールヌーボーの館」と呼ばれています。
(3) 澪標住吉八幡神社

延暦23(804)年、ここに遣唐使の航路安全を祈願して住吉神をお祀りし、一行の無事を願って澪標を立てたといいます。「澪」は「水路」のことだから、澪標とは水路標識のことです。「人生という航路で心のより所にする神社、との思いをこめて名づけられたのでしょう」とは、社内にあった解説です。いやいや、ボクの人生は陸路なんだけど、などという屁理屈はこねないようしたい。
4 姫島
(1) 遍満寺

伝法を徘徊した後は、どこに行くか?久しぶりに姫島神社に行きたいと思いました。淀川の対岸だからすぐそこです。伝法大橋を渡り、姫島通を大和田街道まで上がります。「街道」なんて古い言い方ですが、明治以降にできた産業道路です。姫島通との交差点に遍満寺は建っています。大阪大空襲でほとんどが灰燼に帰したお寺さんです。
(2) 姫島神社

アカルヒメが帆を立てた船で帰国したことにちなんで
大阪で最も好きな神社は?と問われたら、住吉神社や今宮神社と迷ったうえで姫島神社にします。理由は二つ。一つはアカルヒメをお祀りしているから。アカルヒメは、韓国の太陽神、アメノヒボコに嫁ぎますが、愛想をつかし、実家に帰りますといって帰朝した女神です。アメノヒボコは日本までアカルヒメを追いかけてきますが、但馬あたりで追跡を諦めたようです。
もう一つは、そういう縁起があるゆえに、「やりなおし神社」とされているから。人生はやり直しがきかないものですが、今、この瞬間から過去のしがらみを清算して新たに一歩を踏み出すことはできます。そう言う意味で、アカルヒメが新天地を求めて思いきる(思いを切る)ことを応援してくれます。今朝も、ボクよりも若い男性が二人、熱心にお参りをされていました。
和銅四年歳次辛亥(711年)、河辺宮人、姫島の松原に娘子の屍を見て悲嘆しびて作る歌
妹が名は 千代に流れむ
姫島の 小松が末に 苔生すまでに
5 福島
(1) 海老江八坂神社

さて、次はどこへ行くか、野田藤が咲いているかもしれないと思い、再度、淀川東岸へ行くことにしました。2号線淀川大橋を渡ると、すぐ北に当社があります。今は小さいので目立ちませんが、あの織田信長があの荒木村重を遣わして、戦勝を祈り陣馬陣刀を献じて先勝祈願した神社です。元亀元(1570)年の野田・福島戦いで、結局、信長側は敗れたんですけれど。
(2) 野田藤

日本全体で見た時、関西を境にして藤は大きく二つに分かれるそうです。東が山藤、西が野田藤です。つるの巻き方と、花の付け方が違い、右巻き(時計回り)で花房が長いのを野田藤とすると、連ドラでも有名な牧野富太郎先生が命名されました。かつては野田洲と呼ばれた当地が藤の名所となったのは、淀川によって運ばれた山々の藤の種が河口の洲で芽吹いたからだと言われます。
6 大物
(1) 残念さんのお墓

さて、そろそろ帰ることにしようと思いました。どこから電車に乗ってもいいんですが、阪神尼崎駅にしました。というのもその手前にある大物が好きだからです。まずは残念さんのお墓にお参りしました。野田からわずか8㎞30分ほどです。
元治元(1864)年に京都御所で蛤御門の変に敗れた長州兵は、一斉に故郷山口を目指して敗走しました。しかし、足軽の山本文之助は大物で尼崎藩に捕縛されます。「わずか4万石の大名に捕まったのは残念だ」と言って文之助は自決しました。憐れんだ尼崎の人々は墓を建て、お参りをして残念なことを願えば一つかなえてくれると言うようになりました。
(2) 大物主神社

残念さんのお墓から大物主神社まで行きました。ここは謡曲「船弁慶」の舞台です。源頼朝に追捕された源義経は大物浦から船に乗ります。これ以上はついていけない静御前と涙ながらに別れ、その後、海の上で平知盛の亡霊に襲われるというドラマチックな演目です。「そんなんシランわ」と、物言わぬ紫蘭が咲いていました。
(3) 旧尼崎紡績本社事務所

最後に少し西に戻って洋館を見に行きました。遍満寺や姫島神社が建っていた大和田街道は、大阪の梅田から尼崎の大物まで通っていました。その終点に尼崎紡績本社があり、明治33(1900)年に事務所が建設されました。一時は取り壊すと言われていましたが、保存されることになったようです。塀が壊され、公園として整備されていました。こんなに近づいて見たのは初めてです。
7 到着

1000時過ぎ着。尼崎も行きたいところがたくさんあるんですが、キリがありません。今日はここまで。阪神尼崎は立ち飲のメッカです。朝飲みでもするかとちらっと思いましたが、思い直しておとなしく帰りました。
