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レンタサイクルの彼女 (第六話/最終話)

【二十四歳の冬】

 カレンダーをみて、床がもう冷たいのを感じた。彼女が家を出てから一週間は経つだろうか。

 彼女が別れのスイッチを押した。でも、そもそも告白してきたのは彼女だ。スイッチは当然告白された側が持っているものだと思っていた。
 気持ちが落ち着かない。彼女への不満をリスト化しながら、何とか自分を正当化しようと努めた。
 でも一人には広すぎる部屋のせいで余計に虚しくなった。
「こんなことになるなら2LDKの家なんて借りなくてもよかったじゃないか」
 僕の独り言は2LDKの“L”で響いた。

 ただつけているだけのテレビは“世界かわいいアニマル映像百連発”が流れていた。ぼんやり眺めていたら、意外と面白かった。
 番組が終わり、とうとうやることもなくなった。久々に片付けでもしようと部屋の隅まで見渡すと、彼女の描いたエミューの絵と目が合った。こんなところで絵を描くから壁が汚れるのだと思いながら、絵を眺めた。

 でも、まぁ、いとも簡単に上手な絵が描けると感心する。
 しかし、よく見るとパレットの上には厚く絵の具が重なっている。絵の具の層を凝視すると、うっすらと別の構図のエミューが見え、何回も上書きした様子であった。

 彼女も僕と同じだったのかもしれない。何度も理想を思い浮かべては、うまくいかずに振り出しに戻される。正解などないはずのなのに、自分が不正解のように感じる。それでも苦しみながら、また理想を目指す。彼女は心をすり減らしながら絵を描き続けていたのだった。
 彼女が約束してくれた僕の青春はどうなっていたのだろう。思い浮かべたが、後の祭りだった。


【二十五歳の春】

 職場では今年、新入社員を採らなかった。昨年の新入社員が使えないとのことで、中途入社の募集だけでまかなうようにしたようだ。
 それをおしゃべりな先輩が平気で僕に話してきた。
 僕の存在意義はあるのだろうか。僕は会社にいることが耐えられなくなり、無断欠席するようになった。最初は鬼のように電話が来たが、四日も経てば、何も来なくなった。

 安心したのも束の間、家のドアノブがガチャガチャと音が鳴った。誰か会社の人間が僕の様子を見に来たのだろうか。急いでテレビを消し、なるべく気配を立てないように息を潜めた。なぜかドアノブが開き、足音がした。恐る恐る目を開けると、そこには出て行ったはずの彼女がいた。

 彼女は絵を抱えていた。絵の景色を見る限り、実家に帰っていたのがわかった。僕と彼女が出会った絶景スポットで描かれたあの山だった。
「あ、良ちゃん。いたんだ」
 まだ状況を掴めていない僕より先に彼女が話しかけた。僕を見ても気まずそうにしていないのが不気味だった。
「え、翔子ちゃんどうしたの?」
「良ちゃん、ごめん。急に出て行ったりして」
 彼女は何も悪くない。本当に謝るべきなのは僕だった。それなのに何も言えなかった。
「私、画家になるの諦めたの」
 僕は彼女の顔を直視できなかった。反射的に抱えている絵に視線を逸らした。
 絵をしっかり見ると山の一部が削られて、太陽光パネルが広がっている。
 一年間もあれば、ずっと同じだと思っていた風景でさえ変わってしまう。僕らも一年前はエアコンの風の強さだけで、仲良く文句を言い合っていた。
「なんか実家帰って絵を描いてたけどさ、全然ダメでさ。あのときは良ちゃんにいろいろ言いたいことはあったけどさ。結局、良ちゃんの言う通りだった」
 僕はまだ彼女の目を見れない。
「私ね、やっぱり才能がなかったんだと思う。それに気づかず二十五歳になっちゃった。でも、まだ普通に就活して別の道に探せば、なんとか間に合うかなと思って」
 本当は彼女には才能があったと思う。高校のときに初めてみた、写実的かつ幻想的な絵の衝撃をいまだに忘れられない。でも僕の貧相なプライドが彼女の才能に気づいていないフリをし続けてしまっていた。
 僕が彼女の夢を奪った。僕に青春を約束してくれた彼女に。
 彼女の絵の太陽光パネルの黒色が、ずっと目に焼きついて離れなかった。


 次の日、彼女は画材を売りにいくという。そこそこいいものを使っていたから、それなりの金額になるとのことだ。
「翔子ちゃん、これ、本当に売りに行くの?」
「うん、そうだよ。持っていても仕方がないから」
 ラウンド眼鏡ごしでも彼女の目が寂しそうなのがわかった。
「翔子ちゃん、結構荷物あるけど、何で持ってくの? 車?」
「そんなわけないじゃん。レンタサイクルだよ」
 彼女は当たり前のように言った。免許を持っていなかったかとの疑問はさておき、僕はもっと長年の疑問をここで聞いた。

「なんでいつもレンタサイクルなん?」

 彼女はなぜか呆れた顔をしながら、軽いため息をついた。
「いや、すごく便利じゃん。レンタサイクル」
「え?」
 僕が想像していた答えの全てを下回った。
「いや良ちゃん、よく考えてよ。便利以外に理由なくない? 好きなときに借りられて好きなときに返せるんだよ?」
「え、なんか金銭面で親から自転車買ってもらえなくてとか、そういう複雑な事情じゃなくて?」
「いや、全然。そもそもレンタサイクル借りた方がお金かかるし。レンタサイクルが便利だからに決まってるでしょ」
「いや、翔子ちゃん何か隠しているとかじゃなくて」
「いや、レンタサイクルが便利だから以外ないから」
 結局、何回聞いても“便利”以外の回答が出てこなかった。このままでは僕が死ぬときにみる走馬灯がレンタサイクルで埋め尽くされてしまう。
 理由を聞くことは諦め、レンタサイクルに乗るようになったきっかけを聞くことにした。
「翔子ちゃんがレンタサイクルを使うようになった、きっかけは何なの?」
 翔子ちゃんは楽しそうに語り始めた。

「レンタサイクル知ったときが小学生のときでさ。その日、絵のコンクールの表彰式だったの。でも、うっかり時間を間違えてて遅刻しそうになったの。走って会場に向かってたら、もう一人遅刻しそうな男の子がいて、その子がレンタサイクルを借りてくれて一緒に会場まで向かったんだよね」
 なぜかぼんやり僕も記憶が蘇ってきた。
 彼女はいい思い出を語るように話を続けた。
「あの日、私、金賞とったけど、銀賞とった絵の方が絶対によくて。絵自体はそこまで上手くはなかったんだけど、幻想的でさ。だって太陽が緑だったんだよ」
 間違いない。紛れもなく僕だ。そして僕の人生にピークの一つ上にいたのは彼女だった。
「私さ、良ちゃんと初めて会ったときに私、山の絵を描いてたでしょ。なんかそのときの絵の景色に似てると思って、一生懸命練習してたの。懐かしいなぁ」
 銀賞の男の子が僕であることを伝えたかったが、夢を終わらせる覚悟を決めた彼女には伝えない方がいい気がした。
「私、ずっとあの絵に憧れてたの。あのとき銀賞とった子みたいな絵が描きたくて、私、画家を目指したの」
 僕は不思議と涙が落ちた。彼女の前では初めてだった。
 僕は彼女の夢を奪ったけど、作り出すこともしていた。
「えー、良ちゃん、何で泣いてるの? レンタサイクルについて語ってただけじゃん」
 彼女の無邪気な笑い声が“L”に響いた。
 画材をまとめると彼女は
——レンタサイクルで去っていった。

 その夜、画材を売ったお金を元手に、二人で回転寿司に行った。
 彼女の長年の夢は“海老アボカド寿司”となって消えた。


【二十五歳の夏】

 彼女は大学時代の要領で就職活動を始め、複数の企業の最終面接まで進んでいる。
 僕も春に無断欠勤したことで、逆に周りが優しくなった。辛かった仕事もできることが増え、徐々に楽しくなってきた。

 風が心地いい。久々に桶屋の妄想を思い出し、僕は彼女に提案した。
「翔子ちゃん。今日さ、一緒に二人で出かけない?」
「え、いいじゃん。でも、どうしたの? 急に」
「いや、ちょっと二人で行きたいとこがあって」
「え、どこ?」
「オススメの絶景スポット」
 伝わるかはわからなかったが、初めて会ったときに彼女が言った言葉を引用した。
「あー」
 彼女の表情がゆるんだ。伝わったようで安心した。
「えー、でも良ちゃん、私このあいだ行ったけど、全然景色変わっちゃってたよ」
「それでも全然いいから、翔子ちゃんとあの場所に行きたい」
 彼女は僕の熱意を珍しそうにしながらも、提案に乗ってくれた。

 電車でしばらくゆられ、駅から少し歩くと、小道にちょこんとたたずむイスがあった。あのときより黒ずんでいる。
 初めて会ったときと同じようにイスに座った。太陽光パネルに埋め尽くされた山を眺めながら、僕は切り出した。
「翔子ちゃん、今までごめん」
「良ちゃん、どうしたの?」
「なんか、ずっと翔子ちゃんにひどいことしてたと思って」
「ううん、全然気にしてないよ。むしろ就活も上手くいきそうだし」
 太陽光パネルが光を吸収し続ける。
「翔子ちゃんに、ちょっと受け取って欲しいものがあるんだ」
 僕は大きめのリュックからラッピング包装された袋を取り出した。
「はい、これ」
「え、プレゼントなんて初めてじゃない?」
 彼女は嬉しそうにラッピングを開けた。
「え、絵の具と筆? どうして」
 彼女は僕の目を見つめる。
「翔子ちゃんが前に持っていたやつより全然安物だと思うけど」
「ううん」
「やっぱり絵を描いてる翔子ちゃんが一番好きだなぁなんて思って」
 彼女は下を向いた。
「自分勝手にいろいろ言っちゃったけど、翔子ちゃんは絵を描いていてほしい。部屋の壁を汚したっていい。別にプロの画家になれなくてもいい。別の仕事をしながらでもいい。ただ僕の隣で絵だけは描き続けてほしい」
 彼女はしばらく下を向いたまま顔を上げなかった。そして小さく頷いた。
 僕はずっと銀賞でいい。彼女には金賞でいてほしい。


【二十五歳の秋】

 久々に僕は、彼女をあの喫茶店に呼び出した。
 僕が先に店に入るとマスターはやはり初めましてみたいな顔をしていた。でも一か八か“いつもの”と注文したら、ちゃんとアイス珈琲が出てきた。
 氷を転がしながら彼女を待つ。彼女には一応、なるべく綺麗めな服を着てきて欲しいと伝えた。少し経つとドアの音が鳴り、彼女がやってきた。僕のリクエストをどう受け取ったかはわからないが、彼女は無印良品で買った上下で来た。あきらかに僕の意図を汲み取っていない。でもそれが彼女らしくていいと思った。ただ彼女のせいで、白のタキシードを着てしまった僕の方が完全に浮いてしまっている。
「何それ、良ちゃん! 何でそんな格好してるの? ウケる! カーネル・サンダースじゃん!」
 彼女が笑い転げているのが憎たらしい。そして相変わらず“ウケる”という言葉が似合っていない。
 笑いが落ち着くのを待ち、僕は彼女を見つめた。
「いや、翔子ちゃんに今日は言いたいことがあって」
「え」
 さすがに察したのか彼女が少し背筋を伸ばした。
「翔子ちゃん。こんな僕だけど、これから一緒に青春を共にしてください。僕との青春を絵に記録してください」
 言葉に添えるように指輪の蓋を開けた。高価な買物だったが、指輪を買うために働いている時間は苦にならなかった。
 彼女は指輪を受け取り、ゆっくりと頷いた。
「こちらこそ、良ちゃんと一緒に青春を描きたいです」
 二人でしばらく見つめあった。僕は世界一しあわせなカーネル・サンダースだ。

 プロポーズの余韻もそこそこに、依頼していないのに喫茶店の店内がフラッシュモブで広がっていった。マスターまでもキレッキレのダンスを披露している。
 曲はOne Directionだった。


【二十六歳の春】

 今日は特別な日だ。
 ウェルカムボードは彼女が描いた。背景は僕らのオススメの絶景スポット。僕ら二人が山の前で和装を着飾っている。太陽パネルのおかげで風刺画のようになっていた。
 控室から参列者が見える。受付に並ぶ行列の長さに、意外と自分にも友人がいることに気がついた。彼女の方の列には、文化祭の日に僕をボロクソに言っていた女子もいた。「お似合いの夫婦だね!」と言っていたので思わず笑ってしまった。
 参列者が教会に集まると式は始まった。
 讃美歌に合わせて僕が入場した。左右に並んだ参列者からたくさんの拍手で迎え入れられた。
 あの日から待ちわびた、今日が“光る日”なのだと思う。
 僕はバージンロードをまっすぐ、ゆっくり歩き、牧師の前に位置した。
 続いて新婦の入場。僕はなるべく落ち着いた表情を作り、彼女を待つ。教会の大きな扉が開く。扉の先に見えるのは、僕が今まで見てきた中で一番美しい彼女。そして美しい娘を育てあげた彼女の両親。
 彼女の母親は彼女に何かエールを囁きベールを閉じた。彼女の目はすでに涙で溢れているのがわかった。そして、再び讃美歌が流れる。

 真っ白なドレスに包まれた彼女は父親と共に
——レンタサイクルで入ってきた。

——ニケツして入ってきた。


【九歳の夏】
 涼しい風が吹く。でも、僕は気持ちのよい風を感じている余裕はない。今日は僕が生まれて初めて誰かから評価される日。そんな日に遅刻してしまいそうだなんて最悪だ。
 とりあえずもてる力を振り絞り走っていると、同じ速度で走っている女の子がいた。僕らはお互いの行き先を知らずに徒競走のように並走した。でも同じくらいのタイミングで力尽きた。
 呼吸が少し落ち着いたころで、彼女が話しかけてきた。
「あの、方向一緒だけど、どこに向かっているの?」
「えーっと、僕はこの後、市役所で絵のコンクールの表彰式があって」
「え、すごい! 全く一緒!」
 テンションが上がる彼女と対照的に、僕は時計ばかりを見つめていた。
「でも、これ走っても間に合わないね」
「えー、走れば間に合うと思ってたのに! 意味ないじゃん!」
 僕は諦めきれず知恵を絞った。少し考えると、駅前で自転車が借りられることを思い出した。
「一緒に自転車借りない? レンタサイクルって言うみたいなんだけど」
「え、何それ!」
 僕らは自転車を借りて会場に向かった。

 二人を緑色の陽が包んでいた。


レンタサイクルの彼女(完)



第一話
第二話
第三話
第四話
第五話

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