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箱根駅伝のポメラニアン騒動から考えたこと|正義って一体なんだろう?

箱根駅伝の中継画面に、一匹のポメラニアンが映り込んだ。

それ自体は、ほんの一瞬の出来事だった。ランナーの前に犬が入り、選手が避けるような動きをした。危ない場面だったことは間違いない。飼い主の管理が甘かった可能性もあるし、犬が苦手な人からすれば、たまったものではない。そこまではわかる。

ところが、スマホを開くと、話はなぜか別の競技に変わっていた。箱根駅伝ではなく、正義駅伝である。

「犬を家族と言う人間はクズ」
「犬を飼う人は自分よがり」
「犬は所詮犬」

犬がコースに入った話だったはずなのに、いつの間にか犬を飼う人間すべてを裁く大会が始まっていた。しかも沿道には、いいねという名の旗を振る観客がずらりと並んでいる。さっきまでランナーを応援していたはずの人たちが、今度はスマホ片手に飼い主を追いかけ回している。

うちにも犬が二匹いる。実家ではポメラニアンを飼っていた。だから、この話題については黙っていたほうがいいと思った。犬を飼っている時点で、すでに被告席に座らされているような空気があったからだ。

もちろん、ノーリードで散歩させていたなら、その飼い主はアホである。ハーネスの付け方が甘かったとしても、責任は飼い主にある。そこを擁護するつもりはない。犬はかわいい。だが、かわいいから無罪になるわけではない。わが家の犬たちも、かわいさで裁判を乗り切れると思っている顔をするが、残念ながら世の中はそこまで甘くない。

ただ、気になったのはそこではない。何が原因だったのか、どうすれば防げたのか、そういう話をする前に、なぜか人々の妄想がフルマラソンを始めてしまうところである。

「ポメラニアンじゃなくてドーベルマンだったらどうするんだ」
「ツキノワグマだったらどうするんだ」

いや、待て。ツキノワグマが箱根駅伝の沿道にいたら、それはもうペット問題ではない。正月特番である。実況も「国学院大学の野中選手、ここで熊をかわした!」となる。解説者も「落ち着いていましたね」では済まない。来年から箱根駅伝ではなく、箱根サバイバル駅伝になってしまう。

こういう時、人は事実よりも、自分の頭の中で育てた怪物のほうを信じる。最初は一匹のポメラニアンだったものが、コメント欄を走っているうちにドーベルマンになり、ツキノワグマになり、最終的には日本のペット文化を破壊する魔獣みたいな扱いになっていく。妄想にもハーネスをつけたほうがいい。

本来なら、「危なかったね」「再発防止は必要だね」で終わる話である。ところが、そこに正義が乗ると話は大きくなる。ひとりの失敗が、全体のモラル問題に変換される。「あの飼い主は不注意だったね」が、「犬を飼う人間は全員マナーが悪い」になる。変換ミスにもほどがある。

正義とは、便利な乗り物である。乗った瞬間、自分は安全な場所にいる気がする。誰かを悪に設定すれば、自分は善の側に立てる。そこにいいねが集まれば、さらに気持ちよくなる。

だが、その気持ちよさの中で、人は考えることをやめる。原因を見なくなる。個別の事情を見なくなる。目の前にいるのが犬なのか、人間なのか、ただの怒りのはけ口なのかもわからなくなる。

あの日、画面に映ったポメラニアンはたしかに危なかった。けれど、スマホの中で一斉に走り出した正義の群れも、なかなか危険だった。犬は一瞬でコースから消えたが、人間の怒りはいつまでも画面の中を走り続けていた。

正義とは一体なんだろう。

少なくとも、誰かを叩くために振り回す棒ではないはずである。もし本当に正義マンだらけの世の中なら、もっと世の中は良くなっているはずだ。なのに現実は、犬より先に人間のほうがリードを外して走り回っている。

箱根駅伝で一番怖かったのは、コースに入ったポメラニアンではない。

画面の向こうで、ナイフみたいな言葉を投げながら、自分だけは正しいコースを走っていると思い込んでいる人間のほうだった。

↩️ 前話はこちら:犬の💩問題🐶

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