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箱根駅伝の犬騒動後に思ったこと|飼い主のモラルって綺麗ごとでは終わらない

先日、箱根駅伝のポメラニアン騒動について記事を書いた。犬を飼っている人間全体の責任みたいに語られる空気に、イラッとしたからである。あの場にいた犬と飼い主の話であって、なぜ全国の犬飼い代表としてこちらまで正座させられなければならないのか。うちのココとリンは箱根を走っていない。走らせても三百メートルで抱っこ要求が出る。

ところが、街を歩くと現実はなかなか厳しい。歩道の端には、いまだに放置されたうんこがある。電柱には「おしっこをさせないでください」と書かれ、塀には「マナーを守りましょう」と貼られている。犬を飼っていない人から見れば、あれはもう犬の落とし物ではない。「飼い主の人格が固形化したもの」である。しかも、それが道端で堂々と乾燥しているのだから、世間の視線が冷たくなるのも無理はない。

江戸川沿いを散歩していても、「ノーリード禁止」と書かれた看板の近くで、犬を放してボール遊びをしている飼い主を見かけることがある。あの人たちの目には、看板が見えていないのだろうか。もしくは、「ノーリード歓迎」に変換されているのかもしれない。人は都合の悪い文字が読めなくなる。健康診断の結果と同じだ。

もちろん、うちの犬たちも模範犬ではない。

ココはお姉さんには尻尾を振るが、おっさんには吠える。犬なりに審査基準があるらしい。ドッグランでは他人様のバッグを漁り、おやつやおもちゃを発掘する。あれは盗難ではなく、本人の中ではトレジャーハンターなのだろう。

リンは元保護犬で分離不安症があり、猫を見ると別人格のように暴れ、散歩ではグイグイ引っ張る。改善トレーニングもお願いしたが、結果はお手上げだった。

ただ、そんな事情は他人には伝わらない。「過去にいろいろあって不安が強い子」でも、他人から見れば「キャンキャンうるさい犬」である。「お姉さん好きの正直な犬」でも、知らないおじさんから見れば「失礼な犬」である。

犬の事情を全員に説明して歩くわけにもいかない。散歩のたびに「この子は元保護犬でして」と紙芝居を始めたら、それはそれで別の意味で迷惑な飼い主になる。

向かいのマンションには「ここで猫の餌付けをしないでください」という看板がある。それなのに、毎日のようにおばさまがその看板の前で餌をあげている。もはや看板とおばさまの一騎打ちである。看板は黙って注意し、おばさまは黙って餌を置く。本人の中では、これは餌付けではなく慈善活動なのだ。注意書きの前で堂々と善意を発動できる人は強い。

こういう光景を見ていると、SNSやコメント欄で「飼い主全体の責任」と言われてしまうのも、わかってしまう。きちんと袋を持ち、水を持ち、周囲に気を配って散歩している飼い主もたくさんいる。しかし、たった一つの放置うんこが、全国の飼い主の評判を背負ってしまうのである。うんこにそんな大役を任せてはいけない。

だから先日、道に落ちていた放置うんこを拾った。うちの犬のものではない。けれど、そのままにしておけば、また誰かが「犬を飼っている人はこれだから」と思うのだろう。そう考えると、見知らぬうんこを前にして、なぜか自分が代表取締役みたいな気分になった。犬飼い株式会社の不祥事処理班である。

箱根駅伝のポメラニアン騒動にイラッとした自分が、結局、よその犬のうんこを拾っている。なんだこの展開は。文句を言いながら後始末をするあたり、人生そのものではないか。せめてもの願いとして、全国の犬飼い代表を道端のうんこに任せないでほしい。あれは広報担当には向いていない。



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