トリミングサロンからの大脱走💨帰巣本能MAXの白い影🐾
それは、静かな昼下がりのことだった。ココとリンをトリミングサロンへ預け、パパは「今日は平和な一日になるだろう」と思っていた。こういう油断を、あとになってから深く反省するのである。
✂️ サロンの悲鳴
スマホが鳴った。画面にはトリミングサロンの名前が表示されていた。嫌な予感というものは、なぜか着信音より先に心へ届く。
「あの、すみません……」
電話口のトリマーさんの声は、すでに事件現場の第一発見者だった。
「リンちゃんが……脱走しました」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。脱走。犬が。トリミングサロンから。しかもリンが。いや、リンならやる。そう思った自分もいた。
分離不安症を抱える元保護犬リンにとって、トリミングサロンは美容施設ではない。家族から引き離された、仮の収容所である。
🐾 白い影、走る
サロンへ向かう道中、頭の中では映画『大脱走』のテーマ曲が流れていた。スティーブ・マックイーンではなく、白い小型犬を追っているだけなのだが、本人にとっては一世一代の脱出劇だったに違いない。
トリミングサロンのカウンターは、大人の胸ほどの高さがある。普通の小型犬なら、見上げて終わりである。しかしリンは違った。他のお客さんが扉を開ける一瞬を見逃さず、軽々とカウンターを飛び越え、そのまま風のように走り去ったらしい。
もはや偶然ではない。判断力、瞬発力、タイミング。すべてが揃っている。パパが気付かなかっただけで、リンはサロンに入った瞬間から脱走経路を確認していたのかもしれない。
かわいらしい顔をして、頭の中ではずっと作戦会議をしていたのである。
サロンに着いた頃には、リンの姿はどこにもなかった。スタッフさんは申し訳なさそうにしていたが、こちらとしても責める気にはなれなかった。
たしかに脱走は困る。大問題である。けれど、あの子の性格を知っていると、「まさか」よりも「やっぱり」が先に来てしまう。
🐾 帰巣本能MAX
リンの目的は、たったひとつだった。家へ帰ること。
トリミングサロンから自宅までは、車で五分、歩けば十五分ほどの距離である。しかも、そこは普段の散歩コースでもあった。リンにとって道案内など必要なかった。知らない街をさまよったのではない。自分の足で、自分の家へ帰ったのだ。
自宅にいた妻から連絡が入った。
「リンが帰ってきた!」
全身の力が抜けた。心配していた気持ちと、呆れる気持ちと、無事でよかったという安堵が、まとめて胸の中で転がった。
家に戻ると、リンは満足そうな顔で尻尾を振っていた。まるでパパに向かって、「迎えに来るのが遅い」とでも言いたそうだった。怒られる側の顔ではない。むしろ、迎えに来なかったパパたちを責める側の顔である。
💡 エピローグ:再会への近道
リンにとって、脱走とは反逆ではないのだ。逃げたのではない。帰ったのである。家族のもとへ戻るために、自分で最短ルートを選んだだけなのだ。
もちろん、危ない。二度とあってはいけない。交通事故に遭っていたかもしれないし、誰かに迷惑をかけていたかもしれない。美談にして終わらせていい話ではない。
それでも、あの白い小さな背中が必死に家へ向かって走っていたのだと思うと、胸の奥が熱くなる。
分離不安は、困った行動として表に出る。鳴く、追う、待つ、逃げる。けれど、その根っこにあるのは、ただ家族のそばにいたいという、不器用すぎる願いなのだ。
静かな昼下がりは、こうして大事件に変わった。サロンには迷惑をかけ、パパは寿命が縮み、リンは堂々と帰宅した。
そして、事件後のリンはというと、何事もなかったかのように家でくつろいでいた。大脱走の主役は、拍手も反省文も求めていなかった。ただ、いつもの場所に戻れれば、それでよかったのである。
今でもあの日を思い出すと、頭の中であのテーマ曲が流れる。勇ましい音楽とともに浮かぶのは、バイクに乗った男ではない。家へ向かって全力疾走する、白い小型犬の後ろ姿である。
↩️ 前話はこちら:第四話|分離不安が伝染!?🪇
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