犬たちにはお金を惜しまない🐶|一緒にいられる時間は有限だから💫
自分のことには、あまりお金を使わない。というより、自分にお金を使うという発想が、どこかの引き出しの奥にしまわれたまま行方不明になっている。服は最低限でいい。
最低限どころか、気づけば娘のお下がりで成立している。最後に自分の下着を買ったのがいつだったかも思い出せない。記憶をたどろうとすると「その記録は保存期間を過ぎました」と冷たく言ってくる。
物欲がないと聞こえはいいが、実際はただの省エネ人間である。引越しのときも、自分の荷物は段ボール二箱で終わった。これで人生を運べるのかと不安になったが運べてしまった。逆に娘は一人で十五箱以上使っていた。もはや引越しというより、ひとつの文明の移動である。
パパの人生は段ボール二箱、娘の人生は小型倉庫。親子の格差社会は、すでに家の中で始まっていた。
ところが、犬のことになると話が変わる。財布のひもが緩むというより、ひもそのものが消える。自分たちの引越し代はこれでもかと削った。見積もりを見ては眉間にしわを寄せ、もっと安くならんかと現実的な顔をしていたのに、犬たちの移動となると財務大臣が辞任する。
リンは分離不安症持ちで、しかも十三歳。ココも十一歳。飛行機に預ける選択肢は最初からなかった。そこでフェリーと陸路で沖縄から東京へ向かった。時間はかかった。お金もかかった。体力も削られた。けれど後悔はなかった。一緒にいる安心感をお金で買っただけである。
そう考えると、急に立派な投資に見えてくる。投資先は老犬二匹。配当は、膝の上で眠る重みと、帰宅時の全力歓迎である。こんなに利回りのいい金融商品は証券会社にも置いていない。
上京してから驚いたのは、犬たちのトリミング代である。沖縄では二匹で六千円ほどだった。それが都会では一匹八千円。最初に聞いたとき、こちらの毛が抜けそうになった。犬たちは定期的に可愛くなって帰ってくるが、その間にパパの髪は肩まで伸びていく。美容室へ行く金がないのではない。優先順位の問題である。
ココとリンがふわふわになるなら、パパは多少、平安時代の歌人みたいになってもかまわない。
お洋服も同じである。最初は冬用の暖かそうなものだけでいいと思っていた。ところが試着させるたびに「かわいい〜🥰」となる。薄手の服、少しおしゃれな服、五千円を超える服。気づけばクローゼットには、パパの服より犬たちの服のほうが多く掛かっていた。
冷静に考えるとおかしい。パパが娘のお下がりを着て、犬が新品の衣装を着る家庭である。もし税務署が家計を調査したら、「世帯主はどちらですか?」と犬に聞くかもしれん。
もちろん、犬たちは「この服、着心地いいわ」などとは言わない。暑いとも寒いとも、不安とも怖いとも説明してくれない。だから飼い主は勝手に想像する。これは寒いかもしれない。これは歩きやすいかもしれない。これは単純に可愛い。後半にいくほど、理由が雑になる。
飼い主のエゴと言われればそれまでだが、服を着たココとリンはやっぱり可愛い。そして犬たちも、それをわかっている。「かわいい〜💕」と言われると、尻尾をブンブン振って応える。あれは営業である。高齢犬による熟練の接客である。
都会にはドッグランも多い。無料のところもあれば、有料のところもある。普段は出不精で、できることなら家から半径三メートル以内で人生を完結させたいと思っている。それなのに犬たちのためなら車を出す。
ガソリン代がかかる? 犬たちが喜ぶ。
入場料がかかる? 犬たちが走る。
人間の理性など、尻尾の一振りで簡単に崩壊する。
自分のためにお金を使うとなると躊躇する。これは本当に必要か、まだ使えるのではないか、来月でもいいのではないかと考えてしまう。けれど犬のためなら、不思議とその会議が開かれない。議題が出た瞬間に全会一致で可決される。反対意見はない。議長はリン、書記はココ、財布を開く係はパパである。
一緒に生活できる時間は限られている。
だからこそ、使ったお金より、使わなかった後悔のほうが怖い。犬たちは今日も、そんな人間の複雑な家計事情など知らない顔で散歩を待っている。段ボール二箱ぶんの人生しか持たないパパが、犬たちのためには財布を全開にする。
結局、パパの物欲は消えたのではない。全部、尻尾の生えた二匹に引越ししていただけなのである。
↩️ 前話はこちら:都会の犬はおしゃれ😎
