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恵方巻きを感情で批判するその前に|献立と経済の現実👹

二月三日。節分である。大阪出身の私にとって、恵方巻きは季節行事というより、食卓に現れる巨大な免罪符である。南南東だろうが北北西だろうが、方角は正直そこまで重要ではない。大事なのは、その日は台所の司令塔が「本日の献立、考えなくてよし」と宣言できることである。

毎日の献立とは、家庭内にひっそり置かれた小さな裁判所である。朝から冷蔵庫を開け、野菜室をのぞき、賞味期限と家族の好き嫌いを証人席に呼び出し「では本日の夕飯をどうするか」と審議する。これがまあ、地味にしんどい。

ところが節分の日は違う。スーパーへ行けば、恵方巻きたちがずらりと並ぶ。あれは寿司ではない。献立会議からの脱獄用ロープである。


恵方巻きは毎年どこかで批判される。食品ロスだ、商業イベントだ、いつからそんな文化になったのだ。たしかに言いたいことはわかるが、飯を作る側からすると、節分の恵方巻きには一種の救済がある。

夕飯を考えなくていい。
これだけで、かなりの功徳である。

寺に賽銭を投げるより、スーパーで太巻きを買ったほうが魂が軽くなる日もあるのだ。

そもそも豆まきだって、なかなかの謎行事である。鬼は外、福は内と叫びながら豆を投げる。外に投げた豆はどこへ行くのか。あれはロスではなく、鬼への業務委託なのか。

我が家で「福は内」とやれば、犬たちが一斉に走ってきて、福どころか豆の争奪戦が始まる。年の数だけ食べるにしても、四十を過ぎると豆は縁起物ではなく、乾いた修行になる。ポリポリという音が、人生の残り時間を数えるメトロノームのように響く。


その点、恵方巻きはいい。黙って食べるだけで成立する。家族が一瞬、静かになる。これはもはや祭りではなく、家庭内の奇跡である。太巻き、海鮮、カツ、ロールケーキ。いろいろ派生しているが、それもまたよい。恵方巻きという名のつくものを買えば、その日は献立から解放される。私は毎年、少し多めに買う。足りないと困るからだ。結果、だいたい余る。

そして翌日、冷蔵庫に残った恵方巻きを見つけて思うのである。南南東に向かって願った福は、どうやら一日遅れでやって来たらしい。今日も夕飯を考えなくていい。これこそ我が家における、本当の福は内である。

⬅️ 前話はこちら:吉野家で推し活🐮
↩️ シリーズ序章:期間限定?アレンジ?やっぱ定番やろっ❣️

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